27話 夕方と夜
空の青さに、雲の白さに胸が少しキュッと締まる気がした。僕は胸の抜けた様な空間を埋めたくてクッションを抱え込んだ。そしてまた眠りに着いた。
――次に僕が目を覚ましたのは昼だった。ギラ付いた太陽は朝とは形相を変えて焼き付ける。家の中とは言え寝汗をかいて目を覚ました。僕は焼けた喉を潤す為にジョッキグラスのコーヒーを口にして、氷が幾分か溶けて薄くなったコーヒーを飲み干して息を吐いた。少しクラクラしながらエアコンの電源を入れて静かに待った。動くのも面倒な程に暑くなり、ただ部屋の中が冷えるのを静かに待った。
暫くして汗が引く程になったら僕はパソコンデスクへと移動して動画やSNSをチェックした。先ずは動画の再生回数を見たが投稿して5時間程で60万回の再生回数が付いていたので動画の画面を閉じた。再生回数の下にコメント欄が有るのだが僕はそこは見ない事にしている。それは冷たく怠惰的に思えるかもしれないが、自分の創作活動において心を守るために必要な事であった。コメント欄なんて好き勝手に書かれるもので、無意味な誹謗中傷の回覧板の様なものだと思っていた。
そして宣伝用のSNSの画面を確認して、どのSNSでの宣伝が効果を発揮しているのかをチェックした。そしてアプリ画面を閉じると僕はスマートフォンでAzamiからメッセージが来ていないか確認した。しかし特に連絡も無く、僕からも連絡する事も無かったのでソファーへとまた移動して寝転がり買い物袋からスナック菓子を取り出して袋を開けた。相変わらず空を切り取った窓には空だけが映り、僅かな濃淡と雲の陰影のみで物語を構成している。それを映画でも観る様に無心で眺めてスナック菓子を時折齧っていた。
今まで僕は考えた事も無かったが、ふといつもと違うことを考えた。もしかしたら海辺で出会った彼女は僕の動画へ辿り着いているかも知れない。彼女は僕の歌を気に入ってくれたのだから、もしかすれば歌詞から歌を調べて僕の動画へ辿り着く事だって有るかもしれないと考えた。僕はスナック菓子を摘まんだ指をウェットティッシュで拭くとスマートフォンを手に取り、自分の動画のページを開いた。そして今まで目を通した事も無いコメント欄へと目を向けた。それから女性からのコメントを読み始め彼女の影をネット上で探し始めた。
最初は誹謗中傷を覚悟していたが思いの外に好意的なコメントが多かった。その時に僕はそれもそうだ、態々調べてまで観に来てくれている人達なんだから元々好意的な筈だと考えた。しかし世の中が全て同じものを肯定する筈もなく、途中からは徐々に誹謗中傷も現れ始めた。僕は退屈な人間も居るものだと鼻で笑っていたが、そんなコメントを重ねて行く内に段々とその言葉達の方が真実ではないのかと思い始めてきた。
『月下契約の曲ってあの曲をパクっているよね。』
『コイツ等の曲って古臭いな。』
『奇を衒い過ぎてチープだよ。』
『どうせ人前に出れないブスがやってんだろ』
と気にしないでいるつもりで居たが、そんな言葉達は群れると徐々に色濃く執拗に心の中へ語りかけて来た。僕は途中で気分が悪くなりジョッキグラスを持って台所へ降りると冷蔵庫から氷を入れて、また部屋へと戻り買い物袋からコーラを取り出して注いだ。そしてそれを一気に半分ほど飲んでベッドへ横たわった。僕は気分を変えるために出掛ける事にした。
財布とスマートフォンだけを持って夕暮れの町を歩いた。まだ色付き始めたばかりの夕暮れは建物の影をより遠くへと伸ばし始めて闇を増やして行く。僕は家の近くの高台の公園へと向かった。長く急勾配の階段をゆっくりと登りながら上に在る公園を目指し、公園の手前まで辿り着いて振り向くと停船所の在る隣町までが夕陽に染まり黄金色のラメをまぶしてキラキラとしている。僕はその景色をスマートフォンで写真撮影して後数段登って公園へとたどり着いた。こんなにも世界は美しいのに人々の心の中には悪意が溢れているのだと思うと、その世界は生々しく思えて僕はまた気分が悪くなった。しかしそれでも世界は美しくて、僕はそれを受け入れてしまおうと高台の際に在るベンチへと腰を降ろして少し遠くへ見える海を眺めた。
彼女に会いたい。
僕はそう思った。
この生々しくも美しい世界で無邪気に僕の音楽を楽しんで、喜んでくれたあの彼女に会いたくなった。何か無駄な蟠りや、無駄な感情を抜いてただ僕の中身を空にしてその中に楽しい事や嬉しい事でいっぱいにしたくなった。
僕は目の前の夕陽に染まり輝く景色の中で色んな事を考えた。しかし考えれば考える程に自分の中が自分で埋っていき、そこに隙間が無くなって息苦しく思えてきた。僕は考える事を止めにしてただこの夕陽に染まって輝く美しい世界を受け入れる事にした。その時に海風が塩味を帯びてこの町を駆け巡り僕の居る公園へと辿り着いた。
桜の葉が舞い落ちてブランコがキィキィと揺れている。何処までも続く水平線から届いた風に勝手な想いを浮かべては瞼を閉じて深呼吸をした。新しい音色が聴こえる。人を繋げるのは空や海だけでは無いと感じた詩が頭の中で跳ねると、僕はリズムを辿りコード探りながら指で空を弾いた。すると黄金色の陽光と風は互いを編み合わせながら雲を様々な形で縫い付けていく。心地好さの中にも暑さは消えずに僕は汗だくになりながら目を開いた。
そしてギター持っていない事を悔やみながら頭の中でコード譜を編み上げていった。僕は風の中で彼女と手を繋ぐイメージを浮かべては何か身体の中心に温かい物を感じてベンチから腰を上げて海に向かい背伸びをする。丁度僕の真ん前で海へと沈む夕陽に向かって。風が僕を真ん中に置いて吹き抜けて雲を裂いては黄金の空を見せ付けた。僕は少し苦笑いをしながら家路へと着いた。
いつもこの夕方から夜に塗り替えられるグラデーションの時間は僕の心を洗い落としてくれる。今日一日の終わりの音を津々と鳴らして、明日の足音を迎え入れる様に全てをリセットするかの様に塗り替えて行く。僕は少しだけガサついていた心を空っぽにして汗を流しながら家へと歩いた。僕はこの時間が好きだった。真夏は僕に鮮烈な色合いと解放感をくれる。そんな何気無い一日がまた一つ過ぎていった。




