第3話 無事、記憶喪失と診断されました
「失礼いたします。ガイアス様」
朝食を終えてしばらくすると、部屋に小柄な老人が入ってきた。
この人がケンプ先生だろうか。後ろには公爵夫妻とサキリアもいる。
「ええと、あの……」
「ハミルディウス公爵家にお仕えしております、医師のケンプでございます。ガイアス様の診察をさせていただきます」
「これは……よろしくお願いします」
本当なら元のガイアスとは顔見知りだろうに、わざわざ名乗ってくるということは、サキリアが俺の記憶喪失をみんなに伝えたのだろう。ケンプ先生が礼をしたので、俺も首だけを傾けて返す。サキリアが椅子を持って来て俺のベッドの右脇に置いたので、ケンプ先生はそこに腰かけた。
「まずは、お目覚めになられて何よりでございます」
「ありがとうございます。ですが……」
「伺っております。過去のことを思い出せないとか」
「はい。その通りです……」
「かしこまりました。が、まずは包帯を換えさせていただきます」
そう言うとケンプ先生は、俺の布団をどけて、全身に巻かれた包帯を取り去った。
「どうでしょうか? 怪我の具合は……」
「公爵殿下には先日申し上げましたが、回復されるには三月ほどかかりましょう。それまでの間、ご無理をなさってはなりませんぞ」
「そ、そうですか……」
ケンプ先生は俺の体に薬らしきものを塗り、包帯を巻き直した。三ヶ月か。ちょっと長いなと思った。大火傷して川に落ち、死にかけた(というか死んだ)のだから、相場なのかも知れないが。
布団まで元に戻すと、ケンプ先生は姿勢を正し、真剣な表情で尋ねてきた。
「さて……いくつか質問をさせていただいてもよろしゅうございますかな? ガイアス様」
「はい……」
それからケンプ先生は、俺の生い立ちや家のこと、さらに数字や言葉についていくつか質問してきた。俺は答えられる範囲で答えたが、当然、生い立ちや家のことについては全く分からない。
「ふうむ……」
質問が一段落したようで、ケンプ先生は少し唸った。それを見て公爵が声をかける。
「どうかな? 先生」
「恐れながら公爵殿下……ガイアス様はお怪我の影響で、過去の記憶全てを無くされているようでございます。お生まれになってから今までのことを、何も覚えていらっしゃいません」
「そうか……」
案の定、嫡男が記憶喪失なのが確定しても、公爵は取り乱した様子も見せなかった。公爵夫人は「ああ……」と声を漏らし、やや暗い表情になる。
「ただ……」
「ただ、何かな?」
「知的能力に関しましては、全く何の問題もないようでございます。むしろ私めの見立てでは、お怪我をされる前よりも上がっておられるような……」
やばっ!
「それは気のせいでございましょう!」
俺は首を起こし、猛烈な勢いでケンプ先生の見解を否定した。元のガイアスとは別人だとどこから露見するか、全く油断も隙もあったものではない。
「ガイアス様、どうかご安静に……」
「す、すみません……」
いきり立つ俺をケンプ先生がなだめ、俺は大人しく枕に頭を預ける。今度は公爵夫人がケンプ先生に尋ねた。
「先生……ガイアスの記憶を元に戻すことはできないのでしょうか……?」
「奥方様、こればかりはすぐにどうにかなるものではございません。時間が経つと思い出される可能性も無いでは無いのですが、今のところは何とも申し上げられません」
「そ、そうですか……」
「できるだけ、ガイアス様の心身に負担をかけぬようにお願い申し上げます。負担がかかると、ますます思い出しにくくなるもののようで……」
「はい……」
「まあ、思い出せぬものは致し方あるまい。先生、引き続き治療に当たってくれ」
「かしこまりました、公爵殿下。それではガイアス様、また参りますので」
「はい。ありがとうございました……」
ケンプ先生と公爵夫妻が部屋から出て行く。サキリアだけは残り、ケンプ先生の座っていた椅子にそのまま腰かけた。
「……お前は帰らないのか?」
「はい。わたくしはここに控えさせていただきます。ご用があれば何なりとお申し付けください」
「それはありがたいけど……ずっとここにいなくてもいいんじゃないか?」
「いいえ。ガイアス様に何かあったとき、お側にいなかったらわたくしが旦那様や奥様に叱られてしまいますので」
そう言うとサキリアはエプロンのポケットから何か布きれを取り出し、裁縫作業を始めてしまった。動かざること山の如しという空気が伝わってきて、俺はそれ以上何も言えなくなる。
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しばらく縫物をしていたサキリアだったが、次第にうとうとし始めた。ずっと俺の面倒を見ていて疲れているに違いない。そのまま寝かせてやることにする。
とは言え、手に針を持ったまま居眠りするのは少々危ない。俺は布団から右手を出し、サキリアの膝の上へと伸ばしていった。
行けるか? 手は少しずつ動き、サキリアの手にある針に届く。摘まんで取り上げると、敷布団の脇に刺しておいた。これでとりあえずは大丈夫だろう。
突然、サキリアが体勢を崩した。前のめりになってこちらに倒れそうになる。それで目が覚めたのだろう。彼女は咄嗟に手を前に出し、体を支えようとした。
「あっ……」
「あ……」
だが、そこにはまだ引っ込めていない俺の右手があった。サキリアはそれを両手で握ってしまう。
「も、申し訳ございません、ガイアス様……わたくしとしたことが、とんだ粗相を……」
慌てて手を離し、謝罪するサキリア。顔が赤くなっていた。俺も気まずい。ようやくのことで、
「い、いや……大丈夫だ。気にするな」
と言った。