第15話 奴隷と聖女が激突しました
「お待ちください!」
エイノンはパトリシエの手を掴み、俺の布団がどけられるのを防いだ。公爵父が目を剥く。
「エイノン! どういうつもりじゃ!?」
エイノンは公爵父を無視し、パトリシエに言った。
「パトリシエ様。申し訳ございませんが、しばし御猶予をいただけますか?」
「あなたは、確かアガナ王国の王女……?」
「今の私は、御主人様であるガイアス様に服従する、ただの女奴隷です。もはや王女ではありません。いや、そんなことより……」
パトリシエの手を放し、エイノンは続けた。
「御主人様……確か先程、催してきたとおっしゃっていませんでしたか?」
「あっ……」
俺はハッとした。その手があったか。確かにトイレとあらば、誰も文句は言えない。
稼げる時間は大したものではないが、それでも一手空けば勝機が産まれる。おそらくエイノンは、治療を先延ばししたいという俺の意図を汲み取ってくれたのだろう。俺は調子を合わせて頷いた。
「あ、ああ……そうだ。トイレに行きたい。頼む……」
「かしこまりました。御主人様」
エイノンは、ベッドの側の籠に入れてあった尿瓶を手に取る。パトリシエは「仕方ありませんね……」と言いながら手を伸ばしてそれを受取ろうとした。エイノンは渡さない。パトリシエは表情を険しくした。
「どうしたのですか? 早く渡してください」
「いいえ。これは御主人様が奴隷である私に課された役目ですので、お気遣いなく」
「いいえ。あなたのような素人がするより、私のように介護に慣れた者が行う方が気持ち良く出していただけます。お任せください」
パトリシエは尿瓶をひったくろうとする。エイノンは抵抗した。
「何をするのですか!?」
「私がやると言ったらやります! ド素人は引っ込んでいてください!」
「手を離しなさい! この無礼者が!」
2人は尿瓶1つを巡って揉み合いを始めた。これはさすがに見ている訳に行かず、俺は止めに入る。
「待て待て待て!」
「御主人様……」
「ガイアス様……」
「2人ともそこまでだ。今回は、エイノンにやってもらおう」
「かしこまりました!」
「何故ですか!? 素人にやらせると位置の調整が……」
パトリシエは露骨に不満の色を表したが、結局、尿瓶から渋々手を離した。エイノンは四つん這いになると、尿瓶を持ったまま床を這い始める。
「何をやっているのですか!?」
怒気を孕んだ声でパトリシエが詰問すると、エイノンは事もなげに答えた。
「御主人様は、女性の尊厳を踏みにじるのが3度の食事よりお好きなのです。とりわけ、元王女の私をこうやって犬のように這わせて興奮されます。あなたも御主人様の愛人になるなら、慣れておいた方が良いかと」
おお、何と、ガイアスの鬼畜アピールまでしてくれるとは。さしもの聖女様も、これにはドン引きだろう。
そう思って俺は、パトリシエの表情をうかがった。
「…………」
パトリシエは軽蔑したような表情でエイノンを見下ろしている。だが、回れ右をして出て行く気配はなかった。ガイアスの治療は、あくまで実行する気のようだ。
手ごわい。これほどの難敵だとは。
エイノンはベッドの周りをぐるりと半周して反対側に回った。そして尿瓶を布団の中に入れ、俺の股間にセットする。
「ぐくっ……」
俺は唸った。エイノンが稼いでくれた貴重な時間も、残りわずかである。今から大体、小用を足すぐらいの間に事態を打開できなかったら、万事休す、ゲームオーバーだ。
仕方がない。この手はあまり使いたくないが……
俺は公爵父に話しかけた。
「お、お祖父様……」
「うむ。何じゃ? ガイアス」
「私をこんな目に遭わせた者共は、今どうなっているでしょうか……?」
「おお、あの不届き者共の百姓一家か。安心せえ。儂がちゃんと牢に入れておいたぞ」
「えぇ……」
俺は引いた。元々の原因はガイアスにあるにも関わらず、彼らは貴族の子弟を手にかけた罪に問われたのだろうか。後で何とかしなければ。
だが、今はとりあえずこの状況だ。俺は続けて言った。
「ありがとうございます、お祖父様。この体が治ったら、あやつらにはきっちり罪を償わせたいですな」
パトリシエの体が、ピクリと震えたような気がした。それに気付いてか気付かずか、公爵父は愉快そうに笑う。
「フォッフォッフォッ、そうじゃのう。男は打ち首にして娘は新しい奴隷にでもするか。お前の好きにするが良いぞ、ガイアス」
「ガイアス様……」
震える声で、パトリシエが語り掛けて来た。
「その家族、何とか助けてはいただけませんか……? 傷は全て治しますし、後でどんな責めも私が代わりに受けますので……」
「いいや駄目だ。この体が治ったら、あいつらにはしっかり罪の重さを教え込んでやる!」
パトリシエの申し出を、はね付ける俺。
これでパトリシエは、俺の治療をしたら、罪もない農民の家族が塗炭の苦しみを味わうことになると思うだろう。心の優しいパトリシエが、それに耐えられないことに俺は賭けた。もちろん実際には治療をしても何も起きないのだが、彼女にそれが分かるはずもない。
とどのつまり、無実の農民一家を人質に取って実家の繁栄をパトリシエに諦めさせるということだ。こんな方法、気が進むわけもなかったが、それ以外に道は残されていなかった。
どうだ……?
俺は先程に続いて、パトリシエの表情をうかがった。
「…………」
パトリシエは何も言わない。無表情で俺を見下ろしている。
これでも、駄目なのか……?
やがて、パトリシエは口を開いた。
「ガイアス様、お小水は出ましたか?」
「あっ、ええと……」
「どうやら、しばらく出なさそうですね。今のうちに治療をさせていただきます」
「ああっ……あっあっあっあっ……」
パトリシエは布団を手に取り、俺の上半身を露わにした。そしてルシエスがしていたように、呪文を唱えて両手を光らせる。
サキリアとエイノンは、もう顔を背けて目を閉じていた。
これまでか……
だが、パトリシエの手の光は、少しずつしぼみ、消えていく。
「……?」
「…………」
少しの沈黙の後、パトリシエは言った。
「申し訳ございません、ガイアス様。私の力ではガイアス様のお怪我は治せません」