24-20.唯からの電話(9) 普通科高校の高卒
とりあえず、電車に乗る。
うちとは反対方向だ。
「なんで、私が酔いつぶれた時に来るの!」
「ちょっと、声、小さく」
酔っているからか、小泉さんは声がでかい。
それにしても、俺が選んだタイミングじゃ無いのだ。
呼ばれたタイミングで行っただけで、俺には、名目がないし俺は唯ちゃんがあのケータイ持ってるのを知らなかったから、かけられなかった。
俺は、小泉さんが離婚してることも知らなかったし……旦那さんが居れば、俺が呼ばれるわけないので、居ないのだと思うのだが、離婚してるんだよな?
既婚女性に、独身の俺が直接連絡取るのはトラブルの元だ。
だから、俺からは、連絡できなかった。連絡したくなかったなんてことは無い。
小泉さんが酔いつぶれたから俺が呼ばれた。
唯ちゃんには悪いが、俺は呼ばれて嬉しかった。
俺は小泉さんの助けになりたかった。もっと早く呼んでくれれば……
……あのケータイは、どういうルートで唯ちゃんの手元に届いたのだろうか?
「なんで、私が酔いつぶれた時に来るの!」
「だから、声、小さくっ」
そんなに嫌なら、もっと良いタイミングを選んで呼んでくれたら良かったのにと思う。
改めて良く見てみる。
歳をとったし、やつれているけれど、小泉さんだ。なんか安心した。
歳は仕方ないけど、不健康そうなのは良くない。
俺は小泉さんには、もっと健康的な姿で居て欲しい。
静かになったと思ったら、小泉さんは寝てしまった。
唯ちゃんと話す。
「お母さん寝ちゃったね」
「今日は本当にすみません。ありがとうございます」
とても礼儀正しい良い子だ。
「いや、いいよ気にしなくても。俺、明日は暇だから」
これは、気を使って言った訳ではなく、猛烈な勢いで本心だった。
暇というより、さっさと時間が流れて欲しいと思っていたくらいだ。
そんな気持ち、この子にはわからないだろうなと思った。
日々心臓が止まる日を待ち続けるだけの人生なんて……
いやいや、この子がそれを理解できるようになったらまずい。
俺は自分の性格が良いとは思っていないし、世の中の人が皆幸せであって欲しいとか日々願っていたりはしないが、この子と小泉さんには幸せでいて欲しいのだ。
そうでないと、俺の人生が丸々無駄だったみたいに思えてしまうから……
「他に頼れる人が居なくて」
本当だろうか? 本当だとしたら、かなり厳しい。
俺が力になれるならと思うが、旦那さん……穂園さんは、どうしたのだろうか?
離婚してそうだが、離婚してても子供の扶養の義務はある。
俺は、直接本人と会ったことは一度も無いが、いつだか名前だけは聞いた。
どういうわけか、今井さんも、杉も穂園さんを嫌っている風に見えた。
杉はともかく、今井さんに嫌われるって何をやったらそうなるのだか。
今井さんは、相手に好かれないように、わざと嫌われるようなことはするけれど、あれは、その方が結果的に平和だから仕方なくやっているだけで、本心で人を嫌うことは少ない。
故意に悪さしない限り、ああいう嫌い方はしない女性だ。
今井さんに嫌われると言うのは珍しい。
あの時、俺は、小泉さんの旦那さんの話はあまり聞きたくなかったから、流してしまったが、たぶん何かあったのだろう。
…………
…………
「小学生のうちから家で留守番だったから、友達ができにくくて」
小泉さんは離婚していた……
なんてことだ。俺が消化試合しまくっている間、小泉さんは離婚して、苦労していたようだった。
家で留守番しているような子とは、子供をあまり遊ばせたがらない。
俺が子供の頃には有った。でもあれは、専業主婦が家に居るのが当たり前と言う状況だったからだ。
唯ちゃんが子供の頃は、まだそんな状況だったのか。
社会は日々変化している。ここ数十年で、働き方がずいぶん変わった。
俺が子供の頃は、家には専業主婦が居た。
俺が就職する頃には、男女平等を通り越して、女性の社会進出とか言って、テレビにもそんなのが良く出ていた。
ところが、バブル崩壊後、女性の憧れの職業は”専業主婦”だった。
当の女性は、社会進出したいわけではなかったのだ。
唯ちゃんが生まれ育った時代が、そんな頃だと思う。
専業主婦なんて養えなくなった後の時代、女性も働くのが普通になった。
それ以前の時代には、母親が働きに出てると、子ども同士で遊ぶのも難しい時代だったのだ。
唯ちゃんは小学生の頃から、家で一人留守番していたそうだから、かなり前から離婚していたのだと思う。
なのに、今日まで俺はそれを知らなかった。
何で誰も教えてくれないのだ……
でも、知っていたとしても、俺は連絡をしただろうか?
いや、しなかっただろう。俺は自分から連絡できなかったと思う。
小泉さんも同じだったのかもしれない。
「今はどちらに住んでるのですか?」
「俺は今でも横浜。市内で引っ越ししてるけど」
「横浜は良いところですね」
良いところか。
横浜は広すぎて、唯ちゃんの言う横浜が、どこのことかは、わからない。
普通は、横浜駅か桜木町付近を指して言うのだろうが、小泉さんは元横浜市民。
唯ちゃんの言う横浜は、小泉さんの実家のあたりのことかもしれない。
だとしたら、俺の実家ほどじゃないが、中心からは相当離れている。
そういえば、小泉さんの実家は、まだ横浜にあるのだろうか?
唯ちゃんに聞いてみる。
「そうだ、おじいさん、おばあさんの家は横浜?」
唯が答える。
「母の実家は横浜です」
まだ、横浜に住んでるようだ。
高校は横浜市立なので、俺も小泉さんも、当時は横浜市民だった。
俺は今でもそうだし、小泉さんの、お父さん、お母さんはそのまま横浜に住んでいるようだ。
あんなに痩せてまで、離れて暮らす意味はあるのだろうか?
唯ちゃんの友達関係とか考えると、途中で引っ越しは避けたかったのかもしれないな……そう思う。
まあ、小泉さんの実家は俺の実家とくらべたら、まだだいぶ横浜っぽい。
俺は子供の頃からずっと横浜市民だが、あまり浜っ子の自覚が無い。
「横浜と言っても、うちは海から遠く離れた方だったから、唯ちゃんが思うのとはだいぶ違うかも。
新横より先で、町田の方が近いから」
俺が子供の頃の新横……新横浜は凄い田舎だったのに、今ではずいぶん立派な町になってしまった。
そこからさらに北上して、俺の住んでたところは、横浜市ではあるものの、一般的な横浜とはまったく違う土地だった。
「町田ですか?」
ああ、埼玉の高校生には無縁の場所だよな。
北西部に住む横浜市民にとっては、横浜よりずっと身近な街だった。
「町田と言う街があって。横浜広いから、俺の住んでた辺りだと、町田の方が近くて」
「神奈川には、たくさん街が有りそうですもんね」
まあ、町田は神奈川じゃないのだが。
「高校卒業したら、どうするの?」
「就職しようかと……母があの調子ですし」
そうなっちゃうのか。でも、今高卒少ないんだよな。
俺の頃は高卒が最大派閥だった。なのに、同年代の高卒の人と会う機会は殆ど無い。
当時の高卒で就職した人達は皆どこへ行ったのだろうか?
俺の年に限っては、高卒が勝ち組。大卒よりも、専門短大の方が良かった。
高卒だったら、バブル期。大企業の高卒枠が有った。
今は、まともな大卒も余っているので、高卒をとる必要が無い。
高卒での就職は、相当厳しいことになるだろう。
Fラン大学の出現で状況がガラッと変わってしまった。
親の経済力の影響が大きくなった。
俺の時代は、親の経済力が進学に影響する度合いが、今と比べるとだいぶ少なかった。
そもそも多数派が高卒だったから、高卒であることに特別な理由は不要だった。
そして、何より、経済力以前に本人の学力の問題があった。
俺の頃は、受からないから入れないのが大学だった。
今は経済的な理由がだいぶ増えているだろう。
何しろ、このデフレの時代に学費は順調にインフレしているのだ。
あと何年かしたら、俺の時代の2倍になりそうだ。
進学率が上がると、高卒が学力とは別の理由で避けられる理由にもなる。
優秀な人材という意味合いからすれば、Fラン大卒よりは、まともな高卒の方が、地頭は期待できるが、高校新卒だと、就職時、まだ本人未成年という大きな問題がある。
世の中色々うるさくなって、未成年の扱いが面倒になった。
未成年向けの対応が面倒なので採らない。
なので、高卒だと、どうしても、ルールや法律とか気にしない企業で働く機会が多くなると思う。
Fラン相手にしないくらいの企業なら、募集条件に大卒以上と書くのが普通だ。
これは学歴としての大卒ではなく、下の方は相手にしなくて済むような会社なので、就職難が続く限り、事実上、大卒(Fラン除く)がデフォルトの意味になる。
俺の会社でも大卒以上とか書いてるくらいだ。うちくらいの中小企業でもそんなレベルだ。
うちの場合は、優秀な人材と言うより、年齢制限に近い。
Fランが存在する時点で、単に大卒と書いても学力的な選別ができないので、年齢制限の意味合いが強くなる。
専門、短大も就活中は未成年。大卒になれば、就活時から成人済みになる。
人が余っているから、優良物件だけ見れば十分なのだ。
人が足りなくなると、逆の流れになる。少々面倒でも、優秀な人材を探そうとする。
経済的な問題で、進学できないのは不幸だ。階級の世襲になってしまう。
小泉さんは、高卒ではないし、学力的に当時の大学行けただろうし経済的にも問題なかったと思うが。
唯ちゃんは、高校1年生、まだ高校に入って数ヶ月。
進学はあまり考えていない。何を目的に高校卒業を目指すのだろうか?
「やりたい仕事とかあるの?」
「いえ、特には」
特に就きたい職業も無いようだ。
「普通科だよね?」
「え?」
普通科ではわからないようなので、言い直す。
「商業とか工業じゃ無いんだよね?」
「はい。商業高校とかじゃありません。普通科ですか?」
「進学向きの学科。普通のやつが普通科」
「そうなのですか。知りませんでした」
「俺も高校一年生の時は知らなかったと思う」
俺が高校受験の時、普通科以外の選択肢はまったく出てこなかった。
だから、普通科しか知らなかった。普通科という言葉も出なかったと思う。
成績が悪くないと、却って世間知らずで高校卒業と言うゲートを通過してしまう。
なので、大学中退とかすると、却って行き詰まったりしてしまう。
進学を考えないなら、普通の勉強するより、仕事に使える内容を習った方が良い。
高卒が普通な時代は、そういう選択肢があった……ようだが、俺にはそんな選択肢はまったく出てこなかった。まるで、そんなものは俺は選択不可能だったかのように……
工業高校、商業高校の存在は知っていたが、進学の候補にはまったく出てこなかったし、話題に上がることも無かったので、何をやるところかは、名前からしか想像できなかった。
俺は、そもそも学校自体が分かれているものだと思っていたが、科が存在していた。
中学の延長みたいなやつが普通科。
俺はそれしか知らなかったし、普通科という言葉も、何が普通科なのか知らなかった。
Fランが存在する現在、この子が学力的に進学できないとは考えにくい。
俺には賢そうな子に見える。