24-19.唯からの電話(8) 痩せてて軽い
お姫様抱っこ自体は、女性側の協力があれば、短時間であれば可能な場合も多い。
女性側が協力とまでは行かずとも、抵抗しなければ、短時間は可能なことも多い。
たとえば、5秒くらい。お姫様抱っこで、ベッドに運ぶくらいは、けっこうできる男性も多いだろう。
だが、それはせいぜい20秒とか30秒の話で、それを大きく超えてくると話は別だ。
それに、見た目の問題もある。重量物って感じで抱えるのはよろしくない。
結婚式なんかで、お姫様抱っこの写真を撮ったりする。
楽々抱えているように見えるが演技だ。ああ見せるのも難しい。
結婚式等の披露を目的にした、お姫様抱っこは、新郎新婦の協力の元、可能になっている。
新婦が新郎の首に抱き着き、新郎の腕にかかる重さを減らし、新郎は腹を引っ込めて、その新郎の腰骨、或いは、足の付け根あたりに座るようにして、一時的に維持している。
※男性視点だと、太ももで支える
良く見せるためのコツがあるのだ。
そして、それが維持できる時間は限られている。
その間に写真を撮る。
披露宴で、新婦をお姫様抱っこして退場とかは、それなり体重、体力のある新郎にしかできない。
だから、お姫様抱っこして写真が撮れれば、それができた時点で誇って良い。
できないカップルも多いのだから。だからこそ、披露することに意味がある。
そのくらいのレベルだ。
人間の場合、新郎と新婦は、平均的には体重差はそう大きくない。
平均で言えば、新婦50~55kg、新郎65kgとか、そんなところだろう。
昆虫と違って、女の方が巨大ということはないが、新郎の体重が新婦の2倍もあるケースは少ない。
何かを持てば、重心の移動があるわけで、筋力抜きにしても、体重差が大きくない状況では重心的な問題もある。
無理して失敗すれば、新婦が重い=太い、新郎=ひ弱という印象を与えることになってしまう。
だから普通は、新郎は筋トレして、新婦はダイエット。
新郎新婦が協力して、写真撮る間お姫様抱っこを維持する。
これこそが美しい、新郎新婦の協力の姿だ。
それだって難しいような新郎新婦は多いのだ。
ところが、その事情を知る前に、お姫様抱っこで、楽々大人の女性を運べるような男を見てしまったことは、唯にとって、不幸だった。
※これが普通だと思っているので、重そうに抱えられるのはショック大きいです。
しかも、これが憧れになってしまいます。結局現実を受け入れるのですが。
公園から、駅まで15分ほどだったが、そのあいだ、栫井は疲れたそぶりを見せなかった。
※栫井は、あっちでの感覚が残っていて、人間、特に痩せ過ぎの洋子は重いものだとは思ってなかった(痩せてて軽いと思っています)。
並の人間なら1分だって難しいようなことなのだが、唯はそれが普通だと思ってしまった。
唯は、知らず知らずのうちに、栫井を基準にしてしまい、後に絶望することになる。
こうして、絶望癖は受け継がれていく……
----
ここまでくれば、一安心。
なんとか、洋子のイヤイヤ状態が収まったので、電車で帰れる。
暴れるようだったら、カラオケボックスでも探そうと思っていたのだ。
洋子が騒いでも良いように。
駅に着くと、洋子はトイレへ。
「トイレ行ってくる」
何かが吹っ切れたかのように、あっさり普通に行動しているように見えた。
「なんか、元気そうだね」
「そうですね」
唯はそう答えつつも、微妙な気持ちになる。
ついさっきまで、高校生に戻りたいとか言ってて絶望的状況だったのだ。
それが、電話一本で、あっさり解決……
唯の長年の貧乏生活も、あんなに痩せるまで頑張って来た洋子の苦労も、本当は電話一本で解決する問題だったんじゃ?なんて思えてきた。
洋子のトイレ待ち。
とりあえず大人しく電車乗ってくれそうで安心した。
「電車間に合いそうで良かった。騒いだら、カラオケボックスでも探そうかと思ったよ」
「でも、この時間だと栫井さん、帰れないと思うので、ここで大丈夫ですから」
時間を見ると、そろそろ良いお時間だ。今なら電車で最寄り駅まで、帰ることができる。
だが、このまま帰って大丈夫だろうか?
俺はまだ話がしたい。ろくに話ができていないのだ。
今日はたまたま電話があったから、会えたけれど、このまま帰ったら次会えるのはいつになるか……
でも、お礼の電話くらいは有ってもおかしくない……電話?
思い出す。危なかった。
「そうだ、あんまり充電できてないけど」
ガラケーを渡す。これを持っていて欲しい。
この端末は過去に栫井が使っていたもので間違いないと思う。
塗装の剥げかたに見覚えがある。
それにしても、このガラケーは、どうやってこの子の手元に届いたのだろうか?
5年以上前に使っていたものだと思う。
この番号を最後に使ったのはいつだろうか?
MNPでスマホを買ったので、2年後に、わざわざこの端末で使えるようにSIMの紐付け手続したはずだ。
この時代のケータイはSIMに紐付けしないと使えない。
SIMを差し替えただけでは使えないのだ。
確か、2台セットだとキャッシュバックが莫大な金額になるので、2台目が実質タダみたいなものだったと思う。
2年経って、MNPして、こっちの回線は使わなくなったので安いプランで寝かせ回線にしたんだと思う。
まあ、維持費の安いプランに変えるときに、この端末で手続したのだと思うのだけれど。
ケータイのことには触れずに、軽く話をする。
「終電前に駅に戻って来られてよかった。大変だったね。
時々こういうこともあるの?」
「いえ、はじめてで、どうすれば良いかと。ケータイ助かりました」
「役に立ってよかったよ」
改めて見るが、若い。
俺から見ると子供だ。高校生を子供扱いしたら怒られそうだが、唯ちゃんは高校一年生。
まだ高校生になったばかりだ。
この年で、こんな時間にお母さんを助けに来るなんて、母親思いの良い子だ。
「母があんなに痩せて、今日は飲みに行くと言うので心配してたら電話があって」
断れない飲み会だったのだろうか?
それにしても、あんなに痩せて……俺は小泉さんは幸せに過ごしていると思っていた。
なのにあんなに痩せていて、悲しくなった。
「ちゃんと食べてる?」
「私も心配してて。早く大人になりたい、このままじゃ、お母さん倒れちゃうと思って」
離婚してるんだよな?
放っておける要素が無い。
やっぱり、送って行くことにする。
それはそうと、10分くらい経つのに、小泉さん戻ってこない。
「長いな。中で寝てないか?」
「見てきます」
唯はそう答えるとトイレに向かった。
良かった。俺は女子トイレには入れない。
「今更無駄だから」
「そんな事無い!」
唯ちゃんが入って行ってすぐに声が聞こえた。
小泉さんが個室に籠って出てこないとかではないようで安心した。
無駄とか、何をやっているのだろうか?
栫井と唯が待ってる間、洋子は一生懸命化粧直ししていた。
洋子は鏡を見てびっくり、化粧がすっかり崩れていた。
泣いて、公園のベンチに座って寝てたわけで、そりゃあ仕方ない。
「もう時間が無いの。もう十分だから」
「だって、さっきは暗かったけど、ここ明るいから」
「大丈夫だから」
なんとかなだめて、トイレから出る。
「もう!」
「時間無いし、既に見られたんだから関係無いでしょ」
そんなことを言いながら、2人が出てくる。
やっと出てきた。
「気分大丈夫?」 栫井が声を掛ける。
「そうじゃない! 全然わかってない!」
なぜか洋子が怒る。
「なんで、こんなボロボロの時に来るの!」
栫井は意味が分からない。
ピンチだと思ったから来た。
俺は来て良かったと思っているのだが。
でも、なんか元気になったみたいだ。
「良かった。小泉さん、さっきよりだいぶ良くなって」
「そう?」
この一言で、洋子の機嫌が直った。
唯は、ここでもすれ違いに気付く。
栫井は、体の調子が良くなって良かったと言った。
※そもそも、化粧直ししたことに気付いてない
洋子は化粧直しして、良くなったと言われたと思った。
「帰るつもり?」
唯はまた驚く。洋子が言いそうもない言葉だった。
栫井も驚く。帰るなと言う意味だろうか? この時間に?
「帰らない方がいいのか?」
「お母さん、こんな時間だから、送って貰ったら栫井さんが帰れないから」
「……」
洋子は何も言わない。
唯が仕切る。
「栫井さん、ありがとうございました。
駅まで連れてきていただいたので、ここからは2人で帰れます」
ところが、洋子が止める。
「唯は黙ってて」
----
どう言うことだろうか?
混乱する。急に呼び出されて、今までいつでも電話できたはずだ。
でも、今日になってやっとかかって来た。
小泉さんからではなく、娘さんから。
なのに、今度は帰るなと言っているように聞こえた。
そして、俺の返事を待っている。
俺はここでお別れは嫌だ。まだ、話ができていない。
「小泉さんが迷惑じゃなければ、送ってくよ。唯ちゃんも。
俺は特に用事無くて、休日はだいたい暇だから」
「迷惑なんて、そんな」
「なんで、いつもそうなの!」 なぜか洋子が怒る。
いつもってなんだよ。ちょっと困る。
10年以上ぶりに会ったのに、いつもって。
まだ身近に感じてくれているのだろうか?
俺はそんな言葉の綾にも釣られてしまう。
いかんいかん、俺を必要としている人は、そうそう滅多に居ない。
一時的に男手が必要な時はあるかもしれない。
多分、今がその時だ。
「いつもって、10年以上ぶりに会ったのに」
「そうじゃない! なんで迷惑とか言うの」
そっちか……
迷惑じゃない……つまり、嬉しいって意味か?
ぐふっ、しまった、嵌った。涙が出そうだ。
なんか、迷惑じゃ無いみたいに聞こえてしまった。
涙を堪えると、鼻水が。
目にはドレンパイプが付いていて、鼻に繋がっている。
泣くと鼻水も出るが、アレだ。泣きそうなのを我慢してると、鼻に来る……
雑用で呼ばれただけだとしても、せっかく会えたのに、俺は、このままお別れは嫌だ。
でも、酔いが冷めた時、小泉さんはどんな反応をするのだろう?
今の小泉さんは酔っ払ってるだけだ。
それでも、ここでお別れは嫌だった。
少なくとも、最寄り駅までは見送ろう。
「送ってくよ」
これで、後で小泉さんに迷惑がられたりしたら、俺はきっと絶望して、この世界から居なくなってしまいそうな気がするのだ。




