24-17.唯からの電話(6) 洋子折れる
宴会シーズンを外した金曜日。
この日は、今週新しく入って来たメンバーの歓迎会という名目の飲み会だった。
洋子は珍しく、飲み会に参加した。
会社の人達と飲みに行きたいわけでも無く、ただ、なんとなくという理由でも無かった。
洋子には、そんなものに金を出すような余裕は無かったが、
”娘が高校生になって、時間制限が緩くなりました”アピールのために飲み会に参加したのだ。
会費4000円は、洋子にとってはけっこう痛い金額だった。
日本は母子家庭の貧困率が高い。洋子のところも例外ではない。
洋子はベスの助言もあって今まで何とかやって来られたが、長年の無理がたたって、洋子は心身共に相当ガタが来ていた。
今まで、ずいぶん長い期間、子育て都合の遅刻早退を見逃してもらってきた。
そろそろ、それも終わって、フルに働けますよということをアピールしておきたかった。
と言うのも、やはり、人が余ったとき、仮に理由があったとしても、遅刻早退が多いとターゲットになりやすい。
この飲み会でも、上司や同僚に良い印象を与えようと頑張った……が、弱った心と体は、少々の酒と、話であっさり崩壊した。
心が折れた。
上司や同僚にも、同じ年ごろの娘が居る人が何人かいた。
そのため話題が子供の話になることも多い。話題が合うと言えば合うのだが、むしろそこが厄介だった。
というのも、同じ”金がかかって困る”という話をしても、洋子と、上司や男性社員とでは、困るのレベルが違い過ぎた。
同僚の悩みは高校無償化と言っても結局、”授業料以外の部分で金がかかる”という話だった。
塾や、部活で遠征やら。
洋子が困っているのは、そういう金では無い。上司に至っては、留学したらいくらかかるとかそんな話だ。
同じ職場で働いていても、こうも違うのだ。
唯は塾にも行ってないし、部活をやらない理由も、受験のためではなく、経済的な理由での遠慮だ。
親の経済力で子供は制限を受ける。
親の収入の影響が大きくなる理由は他にもある。自助努力を邪魔する。
学校は、あまりバイトを歓迎せず、実態を無視して綺麗事を言う。
バイトの制限をして、選択肢を狭めるのだ。
洋子は、今、貧乏なのは仕方ないが、あと数年待てば唯は自分の力で進んで行ける。
そう考えていた。
ところが、唯は進学も選べるかわからず、一方は留学。
あと数年……その数年の間にできることが、親の財力でこれだけ大きく変わってしまう。
自分の力では、唯を幸せに育てることができないという現実を、嫌と言うほど思い知らされた。
洋子は、飲み会が終わるまで、なんとか笑顔で耐えたが、終わった途端、反動が出た。
生きる気力が無くなった。
帰ると言って別れて、駅とは違う方に歩いて行った。
洋子はどうにもならず、どこかに消えたくなった。
でも、未成年の唯を残して失踪するわけにも行かず、転職による状況打開も難しく、身動き取れないまま日々を過ごす。
ほとんど奴隷だ。何も自由にならない。
いったい、どこで間違えたのだろう?
そう考えるといつも頭に浮かぶことがあった。
遥か昔のことだった。
あのマンガのメモ。高校三年生の最後の登校に近い頃。
洋子がもう少し、積極的に動いていれば未来は変わったのかもしれない。
そんなことを考えしまう。バカバカしい。遥か昔のことだ。
あのとき、洋子には少し(だいぶ)好きな男の子が居た。
ちょっとしたスレ違いで、別れてしまった。
洋子は付き合っている自覚も無かったのだが。
実は両思いだった。
ちょっとしたすれ違いだったことを知ったときは手遅れだった。
1年ほど前に、高校の同窓会があった。
ベスは同窓会で会えると言っていたので、期待して行ったが、そのときの同窓会には現れなかった。
電話すれば、いつでも会える。
でも無理だ。中途半端にメモを渡して、自分は別の男と付き合い結婚した。
実は両想いだった。それを洋子が知ったのは、だいぶ後のことだった。
元旦那との仲は冷え、離婚した後知ったのだ。
玲子が教えてくれた。
玲子と仲直りしたのは、離婚の少し前だった。
玲子は、そのタイミングで栫井の話をするのは避けていた。
離婚で不利になる可能性があったからだ。
ようやく話してくれたのは、離婚して大分落ち着いてからだった。
栫井は、洋子のことを好きだったこと。
玲子は、そのことを知っていたこと、洋子と栫井が付き合っていると思っていたこと。
そして、栫井がメモに気付いたのが、ずいぶん後のことだったこと。
そして、栫井はメモを見なかったことを後悔していたこと……
これは、洋子にとって、とても痛かった。
洋子は高校2~3年の時、栫井と共に過ごした。
はじめは、たまたまそこに居たから話しただけだった。
今井玲子という学校一の美人が居た。
栫井は玲子を守っていた。消極的にだが。
一人で帰るよりはマシだろうと、一緒に帰っていた。
玲子は今では洋子の親友だが、当時は仲が良かったわけではなかった。
玲子達は下校時間を少しずらして帰るようにしていたので、毎日だいたい30分程度教室に残っていた。
何をするでもなく、楽しそうでも無く、ただ残っていた。
その雰囲気が、なんとなく羨ましく感じ、洋子もそこに混ざるようになった。
洋子は、高校時代には、もう少し青春っぽいことをしたいと思っていた。
部活は性に合わない。
1つの目標に向かって何かをするのではなく、日々をもう少し、緩く楽しく豊かなものにしたいと思っていた。
女の子同士の忙しい付き合いにも疲れを感じていた時に、放課後、何をするわけでも無く毎日残っている男女が居たのだ。
そんな、光景を見て、洋子は”こういう関係って良いな”と思った。
そこは、今井玲子を中心とした、なんとなく動いている集団だと洋子は思っていた。
栫井はいつもそこに居た。
そこに居たから暇つぶしに話をしただけだった。
「栫井君は、ゲーム好きなの?」
「今は、ゲームはやらない。受験が終わらないと、存分に遊べないから」
栫井は、今井玲子が、一人だと面倒なことになるので、付き添いで帰る。
好きなものはゲーム。でも、今はやらないと言う。
理由は、受験が終わらないと集中できないから。
栫井は、ときどき少年誌を持っていた。
洋子は女性向けのマンガ雑誌を持ってくることがあったので、交換して読んだ。
少年漫画は洋子から見ると不可解なものが多かった。
いつも延々戦っているだけで話が無い。
栫井も、交換しても読めるものが無いと言う。
少女マンガは、多くの場合、憧れの相手がいて、なんだかんだで比較的早い段階で良い仲になる。
その割に、その後も話が続いていく。
2人のマンガの趣味は全く合わなかった。
暇だから交換して読む。それだけ。
その中で、二人が共通して楽しめるマンガが”動物のお医者さん”だった。
洋子は、なんとなく栫井に興味を持ち……最初は、恋とは違ったかもしれないが、一緒に居て安心できた。
大事にしてもらえる玲子が羨ましかった。
だけど、学校で一番人気の玲子と比べたら、洋子なんか比較にならない。
それを知っていたから、それ以上を望まなかった。
それでも、だんだん惹かれていた。
高校三年の最後の頃には、洋子もそれを自覚していた。
でも、相手が玲子じゃ勝ち目はない。だから、悔しいとも思わなかった。
問題はその後だ。
まさか、玲子と一緒に帰る栫井が、洋子のことを好いてくれてるとは思わなかった。
だったら……知っていれば洋子の行動は変わったかもしれない。
はっきり言ってくれれば……
洋子は、栫井とは、玲子を通しての関係で、仲の良い友達くらいのつもりだと思っていた。
だから、その幸せを満喫するためにあえて曖昧に過ごしてきたのだ。
玲子も杉も、恋愛話はあまり歓迎しなかった。
だから、誰が誰をどう思っているか話す機会も無く、わからなかった。
※杉さんは、けっこう協力してくれていました。
洋子は良かれと思い、曖昧に過ごしていた。
あの配慮がすべて無駄だった?
それを認めるのも難しいけれど、さらに退けない線がある。
栫井とは、うまく行かなかった。だが、その結果生まれたのが唯だ。
あのとき元旦那と付き合い結婚したことを否定したら、娘の、唯の存在を否定することになってしまう。
だから否定はできない。
そんな気持ちで栫井に助けを求めるのは、洋子にはハードルが高かった。
結局、洋子が困っているのは唯のことであり、自分単独のことでは無かった。
だから、この状況で栫井に助けを求めるのは、裏切って他の男と作った娘を助けてくれと言うことに等しい。
栫井は、たぶん助けてくれる。
それがわかっているから、なおさら連絡できない。
そんな恥知らずな女にはなれない……
”もう全て忘れて高校生の頃に戻りたい……”
高校まで戻ったら、唯は存在しない。
唯の存在を否定することなど絶対に言えない。
だから、そんなことを言うつもりはなかった。
洋子は悩んで、どうしようもなくなったとき、唯に電話をした。
自分がどうなろうと、それ以前に、連絡しないと唯が心配するかもしれないと思ったから。
洋子の母親であろうとする心が、唯に連絡させた。
そして電話をしたのだが、酔っ払って前後不覚な状態は唯にもわかり、心配して迎え(回収)に向かわせることなった。
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「唯、今日は帰らないかもしれないけど、心配しないで先寝てていいから。
ごめんね、お母さん、もう疲れちゃった」
この言葉を聞いて驚く。
「おかあさん、今どこに居るの?」
「もういいの。ごめんね」
「おかあさん、それじゃわからない」
通話が切れる。
何度も電話して、場所を聞く。
なんとか駅名までは聞いたが、その先がわからない。
「どうしよう、ベス、お母さんが」
「洋子なら、空き地(公園)で座って寝ておる。
なんで洋子は、あんなところで寝ておるのじゃろうな?」
ベスは、洋子が今どこに居るのか知っていた。
「ベス教えて」
「妾は、その絵(地図)は分からぬのじゃ」
…………
…………
だいたいの場所を聞いて、急いで出かける。
借りもののケータイがあったので、それを持って。
ケータイが有って良かった。
唯は思った。
このケータイは、おそらく、こういう時のために、渡しておいてくれたものだろう。
つまり、これを渡しておいてくれた男は、ケータイが必要となるような何かが起きる可能性が高いことを予知していたのだろう。
「お母さん、もう駅に着いたから」
「電車走ってるの見える。まだ終電じゃ無いのね。もういいわ。今日は帰らない」
方向はともかくとして、ベスの距離感はあやふやで、よくわからない。
電車が走っているのが見える範囲。線路沿いに探す? それとも、警察に頼る?
ベスが電車に乗れれば、どうにでもなるのに……そんなことを考える。
ベスから聞いた情報を頼りに、駅からだいぶ離れた暗い公園で洋子を見つけた。
唯は、この時点で泣きたかった。
はじめてくる場所で人を捜すのが、こんなに大変だと思わなかった。
だいたいの方角と、電車が見えるというヒントあったから良かったものの、無かったら探すのは難しかっただろう。
交番に駆け込もうと何度思ったことか。安心で、ちょっと涙が出る。
「お母さん、終電までに帰らないと」
「唯、来てくれたの。
ありがとう。こんなダメなお母さんのために。
でも、もう終わりにしましょう」
唯は、終わりの言葉を聞いて震え上がる。
「もう疲れちゃった」
「帰って寝れば元気になるから」
唯は泣きそうなのを我慢して、なんとか励まそうと頑張る。
唯は洋子を見つけることには成功したものの、どうにも話にならない。
”もう終わりにしましょう”とか言い出して……近頃の状況を考えると、笑ってスルーできるような状況では無いのだ。
「お母さん、お願いだから、今日は帰ろう」
「ごめんなさい。私は人の親になる資格が無かった。
もう全て忘れて高校生の頃に戻りたい……」
正直、これはトラウマレベルの出来事だった。
高校生の頃に戻りたい。そんな無理なことを言いだした。
とても、唯の手に負えるような事案では無い。
このまま、夜が明けるまで母を見守るために、ここに居るしか無いのかな……なんて思った。