23-30.再会、生還後の洋子(1)
栫井と電話で話した翌々日、洋子は美容院に行く。
「美容院に行ってきます。2時間くらいで戻るから」
父親に言われる。
「ああ、まだそんなに老ける年じゃ無いから、髪でも染めてきなさい」
言われるまでもなく、まさに、そのために行くのだが……
美容院に行くだけで、年老いた両親に見送りされてしまう……
心配かけてしまったから、元気な姿を見せて安心させてあげたい。
洋子はそう思う。
今日は髪を切りに行く……のだが、髪はなるべく長く残して、毛先を揃えるだけにする。
玲子に聞いたのだ。
栫井は、髪が短いと人妻だということを強く感じてしまうから嫌だと言っていたらしい。
(実際は、”嫌だ”では無く、”なんだか悲しい”と言った)
先に聞いておいて良かった。
その話を聞く前は、首が隠れる程度に適度に短くしようと思っていたのだ。
無精で伸びていただけなのだが、結果的には良かったようだ。
それ以前に、もう、ずいぶん前から、人妻ではないのだが。
そして、もう一つ驚いたのが、”栫井は洋子の離婚を知らないかもしれない”というのだ。
洋子が離婚したのは、もう20年近くも前のことだ。
知らないなんてことがあるだろうか?
そう考えるとともに、知っていたら連絡をくれたかもしれないとも思う。
だから、本当に知らなかったのかもしれない。
自称、栫井の娘に訊く。
「私が離婚したこと、栫井君は知らないの?」
『離婚とは何のことじゃ?
その言葉は、よう聞くが、意味がよくわからぬ』
「結婚をやめることって言えばわかる?」
『結婚と言うのは、共に子を成し育てる契約みたいなものかの?
妾のお母さんが、言うておった。人間はなんでも紙に書いて残す。それを契約と呼ぶのじゃな』
洋子は、そんな契約をしたつもりはなかったが、確かに、役所に婚姻届けを出した。
”人間はなんでも紙に書いて残す”
それを自分もしていたことに気付く。
「そうね」
『契約を辞めることもできるのか?』
「当事者同士が合意すればだけど」
もちろん、合意しなくても、裁判を経て離婚することもできるし、そのことを洋子は知っている。
が、それには言及しない。
『ほう。共に子を成し育てる契約を取り消すことを離婚と言うのじゃな?
人間は、ようわからんことをするものだのう。
妾は今はお父さんと話ができぬ故、お主が、石を渡すことに成功したら聞いてやろう』
「それじゃ遅いわよ!」
自称、栫井の娘に聞いてみたが、わからなかった。
珍しく、うまく説明ができたのに、結果的には無意味だった。
離婚の意味を説明できただけで、洋子が離婚していることを、栫井が知っているかどうかはわからなかった。
……と思ったところで、自称、栫井の娘は付け足した。
『そう言えば、お主が結婚して幸せなら、邪魔はしないと言うておった気がするのう』
”やっぱり知らないんだ”
洋子には、栫井は、洋子に幸せになって欲しくて身を引いたという意味に聞こえた。
それなのに、洋子は自殺した……
洋子はまた泣けてきた。
栫井の顔を見て、泣かずに話をすることができるか心配になる。
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美容院に到着する。思ったより大きな美容院だった。
そこにあるのは知っていたが、今まで気にして見たことが無かったのだ。
栫井と会う当日の方が良かったかもしれないが、当日慌てるのもどうかと思い、前もって行くことにしたのだ。
頻繁に来るのなら、当日で良いが、暫く美容院に行かなかったので、仕方がない。
髪の生え際がだいぶ白い。栫井は背が高いので上から見たら白いのが丸見えだ。
「事故ですか? 大変ですね」
美容師さんだ。予め首のことは伝えておいた。
さすがに、この首の傷は、至近距離で見せられるレベルでは無いので、隠している。
いかにも、”むち打ちの治療中っぽいサポーター”を着けてきたのだ。
これを付けると首が曲がらない。
「ごめんなさい。今、首曲がらないから、ちょっとやりにくいかもしれないですけど」
店員さんが答える。
「いえいえ、痛かったら言ってくださいね。慣れて無いので、加減が分からないので。
ただ、これだと、うなじのあたりは、ちょっと届かないところがあるかもしれませんね」
「はい、できる範囲でかまいません」
毛染めを始めると、自称、栫井の娘、死神さんが、文句を言う。
『何をしておるか! このたわけが!
そのようなことをしたら、”髪が形見にならぬ”ではないか』
「形見?」
『なんじゃ、形見を知らぬのか。形見と言うのは、会えない相手の代わりに持つものじゃ』
「それは知ってるけど、栫井君が死ぬなら、栫井君の形見を私が持つんじゃない?」
『ここを去って、妾の世界に行くのじゃ。そのとき、持って行かねばならぬ。
お父さんは、”全ての妻の形見”が無いと成仏できぬ』
”妻?”
妻という言葉に驚く。
この死神さんから初めて聞いた。洋子が栫井の妻。
もちろん、妻と言う表現をしなかっただけで、今までも、結果的には妻と言っていたのと同じだが、妻と言われると意識が変わる。
妻? わたし、栫井君の妻になるんだ……
そうだ。思い当たることが。
仏壇……妻、つまり”再婚するから、栫井君の仏壇がうちにあった”……やっとつながった。
むしろ、洋子は無意識に、その答えから遠ざかっていたようにも思えた。
普通に考えて、家に栫井の仏壇が有った時点で気付く。
栫井と結婚していた。だから、うちに栫井君の仏壇があったのだ。
洋子が見た”唯が生きている世界”では、洋子の家に栫井の仏壇がある。
つまり、結婚した後に栫井は死ぬ。見えたのは今から10年後くらいの時代だろう。
洋子は思う。おそらく”栫井君は、唯を救ったあと死ぬ”のだと。
そして、それは、そう遠くないうちに起こるはずだったのだろう。
今、毛を染めて文句を言われるのだ。
洋子は、もう、だいぶ気付いていた。
栫井が死ぬのは、洋子と関係がある。
洋子が幸せになれないと、栫井は成仏できないと言う。
もし、仮に、栫井と唯のどちらか一方しか生き残れないとしたら、栫井は、唯を生かそうとするだろう……
唯が死んだら、洋子が幸せになれないから。
だとしたら、せめて形見くらいは、望むものを持たせてあげたい。
「染めたらダメなの?」
『それでは元のお前と違ってしまうではないか。
形見にするのに向かぬ、このたわけが!!』
「え? 髪を染めてる私の形見として髪を持って行くなら、染めて問題無いんじゃない?
それに髪でなくても良いでしょ?」
『お前の臭いが付いてないと形見にならぬ。
転移で持って行けるのは、体の一部だけじゃ。
変な匂いのするやつで髪を洗ってもダメじゃ』
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転移で持って行けるのは体の一部。成仏と言うが、それはしばらく先の話。
染もせず、匂いも付けてはいけない。それは無理だ。
「変な匂いのするやつで洗うってシャンプーのこと?
石鹸もダメなんでしょ。それは無理よ」
『何故無理なのじゃ?』
「身だしなみを何とかしないと、”形見”以前に、栫井君に愛想尽かされる」
『意味が分からぬ。お前を愛でるために、形見を持つのじゃぞ』
「それはわかったけど」
『まずいのう。それでは、形見が手に入らぬではないか。
お父さんが、目的を果たせぬ』
「まだ、唯を助けてないから、すぐに形見が必要になる訳じゃないんでしょ」
洋子は、すっかり頭の中で、栫井の娘と話ができるようになっていた。
「いかがですか?」 美容師さんだ。
「ええ、ありがとう」
良かった。鏡を見て思う。
髪を染めて、カットしてもらったら、だいぶマシになった。
美容院に来て良かった。
世捨て人状態から、一般市民に復帰した気がする。
この日は、美容院だけで、すぐ帰る。親が心配するから。
買い物は明日する。
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「ちょっと買い物に出るけど、2~3時間で戻るから」
栫井と会うための服を新調する。
荷物をまだ実家に運んでいないのだ。
あまり服が無い。
それに、元々あまり服が無い。そして、懐も寂しかった……
とても、大人のデートと言う感じでは無い、普段着を新調しただけになってしまった。
高校生のような金のやりくりに、改めて実感する。
「ああ、私、貧乏だな」
今は、急病で長期休暇扱いになっているが、元の職場に復帰できるだろうか?
復帰できなければ、ますます貧乏になるだろう。
時間を戻すなんてことが本当にできるのだろうか?
心配になる。
石の記憶では、確かに唯が生きて歳をとっていた。
時を戻すことができるのだと思う……
洋子にとって、唯の生死以外にも、経済的にも危機が迫っていた。
栫井に石を渡すと、即時間を戻すのだろうか?
時間を戻すまでに1月かかるとなると、職場復帰し、そのときを待たねばならない。
石を渡して、すぐに時間を戻すと言うのなら、経済的な問題はないけど、それも困る。
時間を戻すその前に少し話をしてみたい。
例え忘れてしまうとしても。
洋子は、栫井がどう思っていたのか知りたかった。
高校生の時、マンガに残したメモのこと。
30歳のとき”またあとで”と言って、次に話すのは20年も経ってからになってしまったということ……
何度も何度も考えた。
洋子は栫井に酷いことをしてしまった。
あんな些細なことが、そんなに深刻な問題に発展していたとは知らなかった。
その時間を埋めるほどのことはできないと思う。
でも、聞くだけでも、聞かないよりはずっと良いと思った。
この、自称、栫井の娘から聞く限り、栫井は昔からあまり変わっていないように思えた。
そして、時を戻すことができても、記憶は引き継げないので、栫井は同じことを繰り返す。
ベスが来るまで栫井の娘は手出しできないと言う。
時間を戻すまでに起きた出来事は、栫井も洋子も忘れてしまう。
それでも、洋子は、時を戻すまでの間、少しの間、栫井と共に過ごしてみたいとも思うようになっていた。
自分の心の変化の速さに自分で驚く。
今更、こんな歳のおばちゃんに会ったところで、栫井は喜ばないかもしれない。
むしろ、今の姿を見て幻滅されるかもしれない。
でも、本当に時間を戻して、唯を救ってくれるのなら、感謝の気持ちを伝えたい。
どうせ、すぐに忘れてしまうとしても……