26-22.味覚障害(2)
俺の神殿が樹海にある理由……
なるほど。あのときのことを思い出すとよくわかる。
たぶん、俺にトドメを刺す意味もあったのだろう。
あのタイミングで、洋子さんに場所を知らせるために、樹海に行く。
あの時、無理して歩いたせいで、肺のダメージが大きくなり、容易に肺炎を誘発してしまう。
肺炎の厄介なところは、時間的な猶予が少ないところだ。
呼吸ができなくなれば、短時間で意識不明となる。
入院後、しばらく生き続ければ、洋子さんが許してくれる機会が訪れる。
それを聞いたら、俺は神にならないかもしれない。
でも、神殿の場所は、洋子さんに既に教えてある。
神殿に洋子さんが来てしまえば、俺は出るだろうしな……どっちにしろ、逃れられないか……
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洋子には、栫井の考えていることが、だいたい想像できた。
「ジン君も、大変だと思うけれど、私は後悔してないから。神龍に、お願いしたこと」
死を選ぶほど辛い目に遭っても、今は希望がある。
栫井も、それは、なんとなくわかっていた。
残った問題は、洋子自身の問題より、栫井のほうにあると洋子は考えていた。
栫井が、生前を思い出している現時点では、既に、妻の形見は完全に機能する。
洋子は、妻の役目を果たすことができる。
だが、栫井には、まだ、やり残していることがある。
それに、ヤドカリ(タラバガニ)を食べさせるシーンを体験していない。
その機会が、あるはずなのだ。
栫井と、洋子が夫婦だったとき、栫井がまだ生きていた時のことを、
もっと詳しく確認したい。
「あのときのこと。もっと詳しく」
「え?」
再度読もうとするが、集中するのが辛くなってきた。
そろそろ疲労が出てきた。
「少し休んでから……」
「樹海行きをもっと詳しく。入院より少し前、まだ歩けるときのことを」
栫井が止めても、洋子が読みに行く。
洋子が読んでも、栫井視点で読める。
※見えているイメージは、栫井視点のものですが、洋子は、自分がその時、なにを感じたかを、思い出すことができます。
……………………
俺が死ぬのは、分かってるから、今のうちにできることを。
「一人にしないって約束したのに」
「ごめん。でも、俺は、洋子さんを一人にしない。
樹海なんだけど、一緒に行ってくれるか?」
「何言ってるの」
栫井は気付く。
これじゃ、一緒に死のうと言ってるように聞こえるかもしれない。
俺は洋子さんには、俺の分まで、長生きして欲しいと思っている。
ただ、幸せに長生きして欲しかったのだ。
伝わるように……伝わるかはともかくとして、”そこに、洋子さんと一緒に行く必要が有ると俺が思っている”ことを説明する。
「ああ、そうか、いや、一緒に死のうじゃ無くて、俺”死神”と契約しちゃったから」
「何よ、それ」
洋子はもちろん、栫井が”一緒に死のう”などと、言うわけがないことは知っていた。
ただし、死神とか言い出すとも思わなかった。
末期癌に限らず、余命いくつと言われる不治の病にかかると、最後は神頼みになる。
これは一般的な話だ。
薬の副作用や、体調の悪化から、おかしなことを言い始める可能性もある。
ところが、栫井は死んだ後に、洋子がするべきことを語り始めた。
ひとまず、話を聞いてみる。
「俺が死んだら、樹海のその場所が、俺の神殿になる。
俺が死んだあと、洋子さんが、首の骨を持って来れば、神様になる」
何を言っているのかわからないが、相槌を打つ。
「ええ」
「俺が死んだら、そのとき、そこに首の骨を持ってきて欲しい。
7個あるはずだ。簡単に見つかるはずだから」
「ええ」
「竜の神様が出たら、お願いして欲しい。
”子供が欲しい”って」
ここで、引っかかる。
「この歳で?」
このとき、洋子も栫井も49歳。
不妊でなくとも、この歳で初産は厳しい。
そして、生まれても育てる体力も経済力も無い。
そんなことも、わからないほど、栫井が衰えているのかもしれない、そう思い心配する。
ところが、思った以上に、はっきりとした答えが返って来た。
「ああ、洋子さんの不妊は、先天性のものじゃ無いから。
麻疹に罹る前まで、時間を戻して、
なんとか君が子供を産めるようにするから」
”時間を戻す”と言った。
確かに、洋子は麻疹に罹って、1週間ほど、外出禁止されたことがある。
タイミングがタイミングだっただけに、よく覚えている。
もしかしたら、そのことを、過去に話したことも有るかもしれない。
でも、洋子は、子供のいない人生を受け入れている。
老後を、夫婦2人で過ごせる期間が欲しかっただけ、だった。
「そんなの……あなたが、長生きしてくれれば」
「いや、寿命を延ばすのは無理だ……相手は死神だから」
そうだ、死神と契約したと言った。
反射的に、聞いてしまう。
「じゃあ、余命を?」
「余命を削るわけじゃ無いんだけど、他の世界で神になれって。
そもそも、今の俺には、余命はもう無いようなものだし」
契約したのが最近の話であれば、元々余命は残っていない。
その通りだ。
「あなたが神様?」
「うん。柄じゃないよな」
これで、洋子は少しだけ信じた。
栫井なら、”神になる”ことと、”死ぬ”こととの2択を出されたら、神になる方を選ばない。
なのに、選んだのだ。
……………………
栫井は、ようやく思い出し、気付く。
ああ、ほんとだ。
俺はあのとき、麻疹の話してたのか……
俺はこの時、時間を戻して、麻疹に罹るタイミングを変えることで、
洋子さんの不妊の原因を排除して、子供を産める人生に変えようと思った。
だから、俺が本当に神様になったら”子を産み、育てたい”と言ってくれるように伝えておいたのに、洋子さんは、願いの内容を変えてしまった。
でも、その願いは、とても困難なものだった。
麻疹に、罹る前まで、時間を戻すと、その結果は訪れない。
高校卒業間近までしか戻せない。高校までじゃ、このとき、小泉さんは不妊で確定していた。
ところが、異世界という逃げ道が用意されていた。
俺はその選択を避けるが、妻の願いを変えられなければ、それを選ぶ以外に道は無い。
その世界では、子どもは、ほぼ確実に生まれる。
俺は妻を幸せにして死にたかった。
その無念が俺を神にした。
俺は妻が幸せになってくれないと、安心して逝けない。
でも、どうやって唯ちゃんは生まれてきたのだろうか?
一応オーテルに聞いてみる。
『唯ちゃんは、小泉さんの娘だよな』
『はい。洋子の子供です』
『父親は俺なのか?』
『はい』
ところが、俺には全く身に覚えが無い。
俺が、あっちの世界の男の性質を持ってきて、小泉さん(洋子)が、骨を持てば、あとは、自動的に生まれるのか?
何しろ、唯ちゃんが生まれる前後に、俺は小泉さんと接触していない。
栫井が神になった理由は、洋子が死ぬのを許さなかったから、死神に魂を売った……だと思っていた。
そして、自分の死後、樹海に神殿ができる。
俺の大事な人が、本当に、神殿に首の骨を持ってくれば、俺は竜の神様になる。
竜の神様と聞いていたから、もっと、ドラゴンボールの神龍みたいなやつをイメージしていた。
洋子さんも、当時から、神龍と呼んでいたと思う。
俺が何度も時間を戻すことになった理由。
このとき俺は、骨をすべて集めるまで死ねなくなった。
洋子さんの願いの内容が、”俺の子”だったから……
そして、唯ちゃんは、俺の子らしい。
「俺の子だったのか」
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洋子はずっと、元夫(穂園)の子だと思っていた。
なにしろ、他の男と関係を持ったことが無い。
「それが、心当たりが全く無くて……
でも、栫井君の子なのね」
洋子の願いは叶っていた。
「良かった。私、裏切ってしまって……」
栫井を裏切ってしまったことを、ずっと後悔していた。
ところが、今度は別の問題が発生する。
「でも、そうなると、私は元夫(穂園)を騙して……」
どっちにしろ、時間を戻さないと私は納得できない。
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しまった、俺は元旦那さんのことを恨んでいた。
失敗して巻き込んでしまったのか。
「私、やっぱり、栫井さんの?」
「娘だった」
なんで、既に生まれてるのかはわからない。
……………………
「退院するときは死んだとき。あれは辛いな。
周りも皆そんな人たちだったけど、俺だけ若い」
癌の進行は、若い方が早い。
なので、年寄りの方が長く入院する傾向がある。
でも、俺は最短記録に近いと思う。
「入院してすぐ、味覚障害出てたからな。院内感染じゃ無いよな。
潜伏期間に満たない」
唯に聞かれて色々話しているうちに、引っかかる。
「味覚障害って、なんでそれだけで(死ぬと思った)?」
確かに、石の記憶の中で、洋子は味覚障害が出た時点で、死を直感した。
なぜそう思ったのかは覚えていなかった。
ちょうど、唯が代わりに聞いてくれた。
「なんで、味を感じないだけで?」
「ああ、俺は肺がん持ちだったから。呼吸器系の病気になると危ないことがわかってたから」
「呼吸器と味覚に関係あるんですか?」
「風邪ひいたとき、匂いわからなくなったり、味分からなくなったりした経験無い?」
「匂いがわからなくなったことなら」
「いつもと同じ味が、ぜんぜん違う味に感じたり」
「それならあります」
味覚は非常にデリケートなもので、壊れやすい。
「もともと肺にダメージある人は、肺炎起こしやすくて、肺がんは癌で死ぬ前に、
風邪拗らせても死んじゃうから。
まあ、味ぜんぜん感じなかったから、これはダメかもしれないとは思った」
そして、俺の記憶は、そこまでしかない。