貞淑なご令嬢
悪役令嬢の、良心の話。
生き急いでいた。
子供の頃から、こんな大人になってまで。
人生って、勉強だ。知らないことから、深く潜っていかなきゃいけないから。知らないままじゃ、許されないから。
それも良い。それでも良い。やってやろうじゃないか。
そうして私は、何を得られただろうか――――?
「先日、またレイラが苛められたらしいんだ」
「まあ」
綺麗にパンジーが咲き誇る花壇の前で、待ち合わせていた殿下はそう唐突に切り出した。けれどその事に驚くほど付き合いも浅くなく、私はいかにも驚いたように相づちを打った。
殿下は気にした様子もなく、神経質そうな顔で溜め息をついた。
「今度は騎士アルフの婚約者にやられたらしい。全くあいつは、婚約者の躾すらできないのか」
「あらあら」
「その点お前は聞き分けが良い。今度のパーティーもレイラをエスコートするからな」
「かしこまりましたわ」
言うだけ話されて、すぐに去っていってしまった。まったく忙しない人ね、と少し呆れてしまう。
その背中にふと、問いかけてみたい衝動に駆られる。
(……今ならまだ、戻れるのかしら………?)
かつて仲の良かった少年を思い出す。思いやりに溢れた、実に素朴な男の子だった。
その日は珍しく夢を見た。その夢には、小さな”私”が登場した。
よく泣いてよく笑う、素直な女の子だった。
『こんなの、嫌だ!!』
『寂しい! 悲しい!』
『どうして私が我慢するの!?』
『私はもっと、幸せになりたい!!』
ドレスが乱れるのも厭わず、ただひたすらに泣きじゃくっていた。
何故かその子に既視感を感じ、宥めるために足が動いた。どうしたの、私はそんな人間ではないのに。
でも、彼女が泣くとじわりじわりと視界が歪み、やがて立てなくなるような気がしたのだ。
「どうしたの」
なるだけ優しく声をかけたつもりだった。
しかしなにかが、彼女の逆鱗にふれてしまったらしい。
『………っこないでよっ!』
払い除けられる。またゆらりと、心が闇を揺蕩う。
どうすれば良いのだろう?
『―――あなたが、憎いっ!!』
拒否をされてから、気づくとそうやって睨まれていた。
不思議だ。私はいつか、彼女に会ったことがあるだろうか。
『聞き分けの良いところが嫌い!』
『心を隠せるところが嫌い!』
『人を想えるところが大嫌い!』
『あなたなんて、生まれてこなければよかったのに!』
言葉の暴力は続く。
深く傷つくことは慣れているのに、彼女の言葉は耳に痛い。
いや、心に、だろうか。
『もう嫌! 嫌い! 二度と見たくない!』
『本当は傷ついてるのに! 好きだったのに!』
『こんな醜い私なんて、見たくない!!』
………ああ。
ふっと気付いた。やっと。泣いている彼女は、私だ。
小さな身体で怒って、泣く。その感情豊かな子供は、確かに私に一部だった。
堪らず、すがるように抱き付いた。
今度は振り払われることはなかった。
「―――ごめんね」
『もう嫌!! 嫌い!! 見たくない!!』
『でも、続けちゃうの!!』
『悲しいのに!! くるしいのに!!』
「―――そうだね」
彼女は私のために泣いてくれていた。苦しんでいてくれた。
その存在に、気づいてしまった。
わかるよ、わかる。私だから、わかる。
私本当は辛かった。泣きたかった。辛かった。
こうやって苦しんで、そして彼を攻めたかった。
でも私は、あのひとの味方でいたい。一秒でも長く、頼られていたい。
………無邪気な信頼と、僅かな親愛のために。私は私の一部を棄てた。
これからも、ずっと。
「………ごめんね」
『どうして怒らないの!? どうして私を助けてくれないの!?』
「……私だって彼を責めたい。でも、無理なの」
『どうして!?』
「だって彼には、幸せでいてほしいもの。……わかるでしょう?」
『グレア』
声が聞こえた。
いつかいた、あの素朴な幼い少年の優しい声。
あの子は彼女と同じく、もうどこにもいない。
けれど私には、今の彼がいる。
間違いなくその心のどこかに、忘れようもなく潜んでいる。
「私はあなたを棄てる。彼もあの子を棄てた。けれど私は私で、彼は彼。ああ時は、成長は、途方もなく残酷ね」
そして目が覚めると、変わらずベッドにいる。
さぁ泣き言は無しにして、現実へ溺れに行かねばならない。
………我慢って、ろくなもんじゃないかも?