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腰が抜けた

 緊張は、していた。けれど心配したほどには手は震えないし、呼吸もほどほどに普通だった。だがそれは余裕ができたというよりは、魅入っていたといった方が正しい。

 朱色の炎を移す、鉄灰色の瞳に。

 一瞬、惚けていたような気もする。それが恋というものだったろうか。もう思い出せないくらい昔の、化石同然の感情だったはずだ。


(誰よ発掘したのは)


 どうにか軽口を叩いてみる。だが金縛りのような感覚からは抜け出せても、次の一歩は中々踏み出せなかった。


(期待? 期待って何だ?)


 ルキアノスが言った言葉が頭を巡る。期待期待期待……と何度も頭の中で漢字を再生して、徐々にゲシュタルト崩壊を起こす。だが直球でそこに突っ込む勇気まではまだなくて、小夜は言葉を探した。


「あ、あの……ニコスさんは、大丈夫ですか?」


 探した結果、ごく直近に考えたごく無難な話題が出てきた。


(弱虫……!)


 早速自分を罵った。両手で顔を覆いたい気分だったが、どうにか堪える。

 だが返されたのは、微妙に気になる回答であった。


「あぁ、昨日から大分無理をさせたからな。今日は半日ほど休ませた。エレニかアンナが見ていたはずだ」


「……アンナでしょ?」


「さぁ? 特段指示はしなかったが」


 問い返すと、ルキアノスは極めて真顔で首を傾げた。小夜も首を傾げた。


(え、まさか知らないの?)


 そう言えば、エレニから聞いたひと悶着はルキアノスが全学校に通っていた時期だったとか。小学生に気付けというのは難しい話かもしれない。


(いやそんなわけないでしょ)


 思わず突っ込みが口に出そうになって慌てて口に手を当てた。本題に入る前に険悪にしてはいけない。


「えっと……まだまだ忙しいですか?」


 取りあえず、深夜まで一人会社に残って周りの他の電気も消されて薄暗い中で残業を続ける社畜にしか見えないルキアノスに、最も大事な断りを入れる。

 返事の代わりに、コンコンとペン先が紙を叩く音がした。


「半年前のファニへの襲撃もあいつらの可能性が高いようで、その処理がな」


「あぁ、そう言えば、前に襲われたことがあるとか話してましたね」


「だが、今日はもう終わりにする」


 思い出しながら相槌を打つと、その目の前で羽ペンがペン立てに戻された。


「え、大丈夫なんですか?」


「あぁ。明日はまたニコスが復活する予定だしな」


「おぉっと……」


 謝罪案件がまた増えた。

 知らず苦笑を漏らしていると、ルキアノスが机の上の書類を片付けながら窺うようにこう切り出した。


「……どうした。眠れないのか?」


 何の用だ、と言われなくて、小夜は第一関門は突破できたかと安堵する。そして、少し考えてから口を開いた。


「えっと……少し。明日、帰るのかなぁと思って」


「……あぁ。そうなるだろうな」


 ルキアノスが静かに頷く。それがどんな感情に起因するものかは分からなかったが、小夜はその言葉に一番寂しさを感じた。じわじわと体の中心に染みこんでいくような惜別の念が、背中を押す。


「だから、その前に、ちゃんと謝りたくて」


 俯きがちだった瞳を真っ直ぐにルキアノスに向けて、言う。


「ルキアノス様のことを分かったようなことを言って、ごめんなさい。ルキアノス様のことを子供と一括りに言ったことも、本当は自己弁護だったんです。本当に、ごめんなさい」


 そして丁寧に頭を下げた。自分の爪先に、どくどくと心拍の重低音が重なる。

 だが、謝るのはこれだけだ。小夜はぐっと顔を上げると、再びルキアノスの瞳を見据えた。


「でも、ルキアノス様の声が好きなのは本当です。でもそれは、誰かの代わりだからじゃありません。だから、これは謝りません」


 確かに小夜の説明は誤解を招く部分もあったし、誤解がなくても失礼だったと自覚している。ルキアノスの立場からすれば、聞いていて不快感を与えたかもしれない。

 それでも、この点に関してだけは譲れないと、小夜は思った。

 果たして、短い沈黙の末。


「……いい度胸だ」


 がたりと椅子が床を擦る音がして、ルキアノスが痺れるような低音と共に立ち上がった。


(……こっ、こぇぇぇぇぇ……!)


 震えた。色んな意味で。

 小夜は血の気の引く音を鼓膜の内側で聞きながら、一歩、二歩と後退した。


「走って逃げてもいいですか」


「ダメだ」


 本能の訴えは秒で却下された。

 と思ったらいつの間にか目の前にルキアノスがいた。燭台からの光源を背中で遮って、小夜に男性一人分の影を落とす。その影の中で、小夜は再び固まった。


(……え? いつ?)


 走ってはいなかった。だが瞬きをしたと思ったら、机の向こうにいたルキアノスが机の前に移動して、もう一つ瞬いたらこうなっていた。


(歩幅、そんなに大きかったっけ?)


 そうかもしれない。ルキアノスは小夜でもセシリィでも、歩調を合わせて歩いてくれていたのだ。根っからの紳士だから。

 だが。


(紳士は両側に手をついて婦女子の身動き制限するかな!?)


 無意識のうちに下がっていた小夜が扉がすぐ背後に来ていると知ったのは、ダンッという音と共にルキアノスの両腕が顔の横すれすれを走った時であった。


「……あっ、あの、あっ、ああ、あっ」


「……壊れたのか?」


「圧が! つ、強すぎるので、もう少し下がってもらってもいいですか」


「嫌だ」


 即答された。体の真下に来た左足に異様な本気を感じる。

 小夜の泳ぎまくった目を至近距離から直視して、ルキアノスは「それで」と繋げた。


「用件は……何だったかな?」


 だらだらと流れる冷や汗が身の危険を訴える。が、どうにもならない。


「そうそう、謝ってくれるんだったかな」


 わざとらしく、ルキアノスが繰り返す。その整った双眸は細まり、麗しい唇は口端を持ち上げる。だがそれが笑顔かどうか、今の小夜には判断しかねた。


(こ、怖いよ! 猫の口許が笑ってんだか笑ってないんだか分かんないくらいに怖いよ!)


 端的に言って混乱しパニクっていた。

 口が勝手に謝り出す。


「え、えっととと……ご、ごめんなさ」


「で? オレに他の男を見てたことは謝らないんだっけ?」


「…………」


 追い詰め方のあまりのナチュラルさに、小夜はおかに打ち上げられた魚のように口をパクつかせた。

 これで、どこぞのヤーさんか! とでも叫べれば、まだマシであったろう。

 だが目はチカチカするし、耳はイヤホンを埋め込んだようにぼわんぼわんするし、体温は閾値いきちまで上昇するし、つまり限界であった。


「なんっ、何で尋問してる側なのにそんな泣きそうなの!?」


「……は?」


 結局叫んだ。罪悪感で胸が張り裂けそうだった。

 ルキアノスが、それまでの勢いを削がれて目を丸くする。それでも、寄せられた眉根も、潤んだ鉄灰色の瞳も、ほんのり赤い目尻も、こう言うのだ。

 悲しいと。


「困るよ! 私が悪いみたいじゃん! いや私が悪いんだけど! 少年を泣かせて喜ぶ趣味はないのよ! そんな顔されたら、全然強気に出れないって……」


「な、何を……?」


 全く心当たりがないような顔で、ルキアノスが口を挟む。だが小夜の中では最早、どちらがイニシアティブを取るかどうかは問題ではなくなっていた。


「ごめんね。傷付けたかったわけじゃないんだ。きちんと謝って、ルキアノス様はちゃんと大丈夫で、惑わせてごめんねって伝えて、それで踏ん切りつけたかったのに」


 泣かないで、苦しまないでと願う。戸惑う少年の頬に、知らず手を伸ばしていた。


「それはただの言い逃げだよね……。ごめん」


 掌に伝わる頬が温かくて、柔らかくて、自嘲が漏れる。こんなにも繊細な子を、無責任な大人の都合で惑わせてしまった。


「何度も言うけど、声優さんは恋愛対象とかじゃないよ。アイドル……偶像崇拝の一種だから、私の中では異性とかの概念とは別物なんだ。ほら、会話も出来ない神様に恋はしないでしょ? 雲の上の人っていうのは、そういう意味だよ」


 前回は狼狽しすぎて出来なかった説明だが、今は申し訳なさとともに言葉が溢れた。小夜にとっては、テレビや芸能人が当たり前の人間にとっては、言葉にもしないような当然の感覚を。


「……言葉では何とでも言える」


 小夜が限界を迎えてからはやっと、ルキアノスがまともに口を利いた。それは冷たく、蔑みすら含んで聞こえたが、小夜には子供が駄々をこねているようにしか思えなかった。


「ルキアノス様は、何がそんなに嫌なの?」


「!」


 幼子に言い聞かせるような口調で問う。瞬間、ルキアノスが再び瞠目し、それから長い睫毛でその視界を翳らせた。

 そして。


「……お前が、オレを見ないことだ」


 拗ねるような、留守番で待ち惚けを受けたような顔で、ルキアノスがそう言った。

 頬に触れた小夜の手を、力強く握り締めて。


「……え?」


(あれ……なに、この手。こんな所に手あったっけ?)


 いや、驚くべきは他にもある、かもしれない。だが小夜の頭は大分前から許容量を軽くオーバーしていた。冷静なのかナチュラルハイなのか、自分でも判断がつかない。だから溢れ出た言葉も、オブラートがあと数十枚は要るくらい率直になってしまった。


「いやいや、見てますって。もう他があんまり見えないくらい、自分でもどうかと思うほど見てますけど」


「そういう意味じゃ」


「そういう意味ですって」


 反駁の声を言下に遮って、他に解釈などしようがないほどに断言する。


(まさか視界いっぱいに映ってるとか、そういう意味だと思ったって?)


 さすがにこんな時まで、そんなズレたことは言わない。だが、それでもまだ、ルキアノスは弱々しく抗った。


「それでも……オレには、声しかないのだろう?」


 その発言に、今度は小夜が呆気に取られる番であった。


「……はい?」


 ぽかんと、ルキアノスを見返す。だからなんで泣きそうなのという心配と同時に、ちょっとだけむかっときた。


「声しかない人に、なんでこんなに振り回されなきゃやらないんですか」


 ルキアノスが幼い子供に見えるのはまだあるが、それでも口調を元に戻す程度には平静さを取り戻してそう言い返す。


「ルキアノス様の良いところは、いっぱいあります。ついでに言うと、そのひねくれた所も、時々拗ねるところも結局魅力です」


 特にクレオンの件でいじけていた姿は、小夜的には何とも言えず胸キュンではあったが、言うと不機嫌になるのは目に見えていたので列挙には加えなかった。

 だがそれでも、返された言葉は。


「……意味が、わからない」


 であった。その困った顔に、小夜はくしゃりと苦笑する。


「自分で分かるようになったら、魅力じゃなくなっちゃいますからね」


 分かっていないからこそ、ルキアノスは迷い悩み、それがまた彼を引き立てるのだ。笑顔も涙も等しく力を持つのと同じように。


「……小夜」


「はい?」


 静かに、恐る恐るというように、ルキアノスが名前を呼ぶ。

 小夜は何の気なしに返事をした。

 そして。


「名前は、呼んでもいいか?」


 懇願に似た声と瞳に、腰が抜けた、気がした。


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