こんこんと湧く泉のように
(な、泣かせてしまった……!)
安心してほしかっただけなのだが、どうもそう出来た気がしない。
小夜は慌てて菓子の包みをテーブルに置くと、椅子を飛び出てクラーラ夫人の車椅子の足元に膝を折ってしゃがみこんだ。
「ごめんなさいっ、あの、これ!」
ごそごそと懐を漁ってハンカチを取り出す。四辺をレースで飾った絹製で、いかにも高級そうな白い生地にはクィントゥス侯爵家の紋章が刺繍されている。メラニアから借り受けたものだ。
クラーラ夫人は涙がこぼれるまま、そんな小夜を見つめ返した。それからハンカチを見つめ、くしゃりと笑って受け取った。
「ありがとう」
優しい声だと思いながら、小夜はふるふると首を横に振る。
そうして、クラーラ夫人が涙を拭きながら、クィントゥス侯爵の縁の方かとか、洗って返すからなどと話しているうちに、侍女が頼んでいた菓子を運び、外でも扉の開閉音が響く。
小夜は再び慌てて席に戻った。
「あの、ハンカチはそのままで結構ですから」
「いいえ、汚れたものをそのままお返しするなんてとても出来ませんわ」
「でも、あの……」
確かに、汚れたハンカチを返す相手はメラニアだから、小夜の一存で良いとも言えない。だが後日受け取りにくることは、小夜にはできないのだ。
しかし事実を言うわけにもいかずまごついていると、「では」とクラーラ夫人が提案した。
「わたくしのハンカチをお持ちになって。それで次の時に、交換しませんか?」
茶目っ気をたっぷり含ませて、クラーラ夫人が微笑む。それは、小夜にとっても大変魅力的な提案であった。叶えることが出来なくとも、彼女と約束できることそのものが、小夜の心を優しく包み込む。
「…………はい」
小夜もつられて微笑んだ。クラーラ夫人が侯爵家の名を悪用するとも考えられない。メラニアにはきちんと説明して謝ろう。それでも駄目なら、侯爵家から遣いが出されるだろう。
差し出されたハンカチはやはり絹の白いハンカチであったが、隅には六枚の花弁を持つ鮮紅色の花があしらわれていた。
「この花は……?」
「石榴の花よ。故国にはなかったのだけれど、主人が教えてくれたの」
「綺麗な色です」
アンドレウ男爵の愛の深さに苦笑を漏らしながらも、そのハンカチを綺麗に折り畳んで仕舞う。そこに、声がかけられた。
「また何かやらかしたな?」
「ぎゃう!」
呆れるのと囁くの中間のような声音の絶妙さに、小夜はその場に跳び跳ねた。突然のことで背筋がぞわぞわする。
ハッと顔を上げると、開け放たれた扉の向こうに声の主が呆れた顔で立っていた。ルキアノスだ。
(も、戻ってくるの早すぎない!?)
疚しいことは何もないはずなのに心臓がドッドッといっている。頭で考えるよりも先に言い訳が口から迸る。その前に、ヒュンッとアンドレウ男爵が現れた。
「クラーラ! クラーラ! 一体どうしたんだい!? 何か、何かされたのかい!?」
クラーラ夫人の車椅子にべったりと張り付いて、まだ目尻に涙のあとが残る妻を見上げる。小夜は勿論その勢いに戦いて尻餅をついていた。
(自分の心音かと思ったら、男爵の足音だったのか)
今にも泣きそうなアンドレウ男爵の横顔を見ながら、小夜は変に安堵して立ち上がる。その隣にルキアノスが立ち塞がったので、小夜は慌てて首を横に振った。
それを後押しするように、クラーラ夫人も血相を変えた夫に笑みかける。
「何もされてはいませんわ。ただわたくし、小夜様のこと、大好きになってしまったの」
「そ! それは、僕よりもかい……?」
「…………」
愕然と蒼白になる夫に、クラーラ夫人は真顔で考え込む。それから、朗らかにこう言った。
「内緒です」
「ぐぅ!」
(転がされてんなー)
かかあ天下ではないようだが、内実は全て手の平の上ということのようだ。良い家庭である。
などと見ていると、半泣きのアンドレウ男爵に睨まれた。その雰囲気に、妙な既視感を覚える。
(エヴィエニス様だ!)
あっと思った。ファニの側にべったり侍る王太子殿下に似ているのだ。やはり泣かせてしまったことが良くなかったのであろう。最早ここまで嫌われると、悲しいよりも先に自分に乙女ゲームは無理かと悟らざるを得ない。ここまで攻略対象に嫌われるヒロインなどまずない。
「何かやったのか?」
自分にがっかりしていると、横からそんな風に聞かれた。隣をちらりと見上げ、説得力のない一言を告げる。
「泣かせるつもりでは……」
「…………」
ふぅ、と溜め息をつかれた。すいません、と力なく謝る。その頭を、ぽんぽんと叩かれた。
「!」
その手が思いがけず優しくて、子供と思うには存外に大きくて、小夜はルキアノスの顔を見たい衝動と逃げたい衝動で板挟みになった。どんどん顔の赤面度が上がり、体がプルプル震え出す。
これ以上沈黙が続けば、小夜はきっと走り出していた。けれど、それよりも先に優しい声が春雨のように降るから、聞かないわけにはいかなくて。
「お前は、いつも唐突だからいけない」
「え?」
「前置きを作れ。そうすれば、相手だって心の準備ができる」
頭一つ分の高さから、鼻にかかったような少し高めの、柔らかくて良く通る、大好きな声が言う。
けれどそれは、その声でなくても、小夜の心を囚えただろう。だってその言葉は、あまりにも優しく、穏やかに、慈しみをもって、小夜に語りかけていたから。
「……はい」
顔を真っ赤にしながら、強張っていた表情筋を緩める。
雨水が泥も砂利も混ざった土の下を通って濾過され、辿り着いた場所からこんこんと湧く泉のように。
好きだなぁと思った。
◆
早歩きと言いながらほぼ全力疾走だった父のせいで、ぜえぜえと息を切らせて帰ってくる羽目になったラリアーと、何か嬉しいことがあったらしいセシリィとも合流して、四人は学校へと戻ってきた。
寮生会室の前でラリアーを下車させる時には、アグノスにも一言礼を伝えた。詳細については、妹か母から聞けるだろう。
その後小夜とセシリィは寮に戻ったが、ルキアノスはやはりまだ事後処理があるとかで、ニコスと幾つか業務報告をしただけで再び外出した。
その手には菓子の包みがあったので、早いうちに城に上がるのかもしれない。
(クラーラ様の想いが届きますように)
イエルクはともかく、ラウラは亡国とは言え第二王女だ。王城の敷地内にある独立した塔の一つに収監されるだろうとは、セシリィの見解である。
面会できるのはごく限られた人間だけだろうが、きっとあの菓子は、彼らの手元に届く。だからルキアノスに念押ししたりはしなかった。ただ、あの菓子の温もりが残っていることを願った。
「セシリィは、体調は平気?」
「えぇ、問題ないわ。でも侯爵家に顔を出すのは明日にした方が良さそうね」
「いいの?」
「無事発見の報は真っ先に出したのだもの。平気よ」
そうだろうか。どうにも再会してすぐのクィントゥス侯爵の取り乱しようが思い出されて、中々そうかとは頷けないのだが。
「それにクィントゥス侯爵家の者が報復もしないなんて、有り得ないもの」
つまり手紙から本人登場までの空白期間は、そのために必要な時間と理解されるらしい。
「怖い家だなぁ」
「義理堅いと言ってちょうだい」
いつもの強かな笑みを唇に乗せて、セシリィが勝ち気に微笑む。完璧な悪役令嬢セシリィ・クィントゥスのご帰還だ。
「じゃあ、こうやって話が出来るのも今日までかな」
「……えぇ、そうね。小夜をあまり留め置いては、いられないから」
セシリィが珍しく、寂しげな表情を見せる。そう言えば、前回このような話をした時はセシリィはまだトリコの中にいて、人間の表情を見る時間は入れ替わりの術の後だけだった。
(もっと一緒に買い物とか散歩とか、ゆっくり話したかったけど)
女子会というには年齢差があるが、それでもセシリィとならきっと楽しいだけの時間が過ごせただろうに。
「残念ねぇ。私、何にもしないのに」
しないというか、出来ないというか。
取り敢えずスマホは持ってこられないし、一度覚えた知識も普通に忘却の彼方だし、理科は嫌いだったし、商才は欠片もない。現代知識で無双もチートも出来ないことは確実だ。
「小夜はねぇ。得意技は台無しにすることだものね」
「ひどい!」
わざとらしい溜め息とともにそんなことを言われた。軽く悪口にしか聞こえない。
そんな風に、二人は他愛のないことばかりを話した。じゃれあうように、囁くように。軽口の中に、時折慈しみを混ぜて。
冬の日はあっという間に傾き、茜色に染まる。二人がそれぞれに一人で過ごしてきた部屋を、淡く照らす。
(今日が終わるのが惜しい)
そんな風に、度々思う刻限の頃であった。
「さて」
と、セシリィが表情を変えぬまま言った。
「明日、小夜とのお別れを邪魔されるのは絶対に嫌だから」
「ん?」
唐突にそんなことを言われ、小夜は首を捻った。完全に油断していたと言っていい。
「ルキアノス殿下と何があったの?」




