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恋をしてしまえば

 クラーラ夫人が目を赤くしながらもケーキを切り分けてくれると、侍女が用意した高級そうな白い油紙で一つずつ包んでくれた。更に赤いリボンで仕上げる。


「量も少ないのに、大仰ですけれど……」


「いいえ。とっても素敵です」


 用意された二つを宝物のように受け取って、小夜はにっかと笑う。本当は手紙を添えられたら一番だったのだが、そこまでは出来ないとルキアノスに断られていた。せめて名前か、イニシャルだけでも記してはと提案したが、この色の取り合わせにすることでクラーラ夫人は十分だと首を振った。


「必ず渡します」


「ぐっ……!」


 隣に立ったルキアノスが涼やかな声でそう応じた。その完璧な紳士ぶりに思わず打ち震えたが、両手の包みだけは決して落としてはならないので、小夜はその場でブルブルと震えるだけに留まった。

 そんな小夜をいつものことと受け流して、隣のセシリィが上品にお辞儀をする。


「今日は急なことなのに、色々とありがとうございました」


「いいえ。本来でしたらこちらから出向くようなことでしたでしょうに……本当に、ありがとうございました」


「いずれまた、諸々のことが落ち着きましたら、改めてご挨拶に参りますわ」


「えぇ、是非」


 社交辞令でも心のこもった言葉を交わしてから、侍女に馬車を玄関まで回すようにと伝える。訪問の目的は果たしたので、もうお暇の時間だ。


「いいなぁ。セシリィはまた来れて」


 思わず、そんな言葉が漏れていた。小さな声だったのに、ほぼ全員に聞こえていたらしい。クラーラ夫人の綺麗な石榴色の瞳とばっちり目が合う。それから、ふわりと微笑まれた。


(うぅん、美しい)


 少し話しただけだが、小夜はなぜだかクラーラ夫人のことをすっかり気に入っていた。数少ない年上だからだろうが、それ以上に時折見える少女のようなあどけなさがまた好ましかった。


「小夜様も、是非またいらして。その時はシュトルーデルの他にも、美味しいお菓子と旬の果物を用意しておきますわ」


「おお! クラーラ様の手作り大好きです!」


 魅力的な誘い文句に、早速口の中で涎が洪水を起こす。彼女の作るものなら、何でも美味であろう。

 惜しむらくは、本当にまたの機会があるかどうかだ。


(メラニアさんがいれば喚んでもらえそうだけど)


 あんなにも疲れきった様子を見ては、気軽に来たいとはとても思えない。あの後はセシリィが見付かった報せを出しただけで、メラニアの具合を返信してもらえていなかった。


(一昨日の明け方に喚ばれて、まだ三日しか経っていないなんて)


 とても信じられない。色々ありすぎて、頭の中の情報整理がまだ追い付いていない気分だ。セシリィの体調が良ければ、今日か明日にはクィントゥス侯爵家にも顔を出す予定だ。

 ちなみに、クレオンは昨夜のうちに屋敷に戻っている。クィントゥス侯爵との対面がどうなったかは物凄く気になるが、聞くかどうかは思案中である。


(多分、それで帰るんだよね)


 イデオフィーアが小夜を監視しているということはつまり、無用の長居は余計な警戒を生みかねないということだ。イエルクやファニの件に関わっていることも、余計に心象を悪くしているだろう。

 つまり、クラーラ夫人とはこれでお別れだし、下手をしたらルキアノスともこれでお別れということだ。


(怒らせたままなのに……)


 昨夜は方々への事後処理があったようで、ルキアノスは一旦寮に戻ったあとも、すぐにどこかへと出掛けていた。イリニスティスの離宮に放置したままのニコラウ司教を引き取りに行ったり、神殿まで同行してラコン司祭に面会したり、父王にも口添えの手紙を届けたという。

 その間の手の回らない仕事については、勿論というかニコスが忙殺されていた。おかげでアンナも深夜まで眠らなかったと、今朝エレニから聞かされた。

 その間の小夜はというと、セシリィとはまた別に客室を与えられたが、セシリィの容態が気になって結局同じ部屋で眠ってしまった。二人とも魔法によって表面的には快復していたが、やはり精神的な部分での休息は必要だったらしい。

 爆睡していた。

 起きたらルキアノスは授業へ、セシリィは学校側への説明のため不在にしていた。つまりルキアノスへは、まだ何もアクションを起こせていない状態だ。


(このまま帰ったら絶対消化不良だよ)


 考えれば考えるほど胃が痛くなってくる。意識的にも無意識的にも何度もルキアノスを見てしまうのだが、言葉はどうしても出てこなかった。


「……小夜様?」


「っあ、はい! また是非!」


 クラーラ夫人に呼び掛けられ、いつの間にかルキアノスの横顔に向いていた視線をぐいんと戻す。そして勝手に出てきた「また」という言葉に、自分で打ちのめされた。


「是非……機会があれば」


 クラーラ夫人の目を真っ直ぐに見られず、笑って誤魔化した。両隣から案じるような視線が向けられていたが、小夜は気付かなかった。

 代わりに、間の悪い沈黙が降りる。それを、ラリアーの明るい声が終わらせた。


「そういえば、イリニスティス殿下からお母様に伝言を頂いたわ。階段を移動できる車椅子を作ってほしいって」


「まぁ」


 クラーラ夫人が頬に手を当てて娘を見上げる。その表情は意外に深刻そうで、彼らの共通の懸念事項であることがよく分かった。


「本当にそうね。いい加減本腰を入れて説得した方が良いかしら」


「お兄様と一緒に口説いたら? フラルに助言をもらえば、きっと一助になるわ」


「ヴェニセロス様のね?」


「そう」


「では今からお父様を呼んできて? ルキアノス殿下がお帰りになられることもお伝えして」


「えぇ、あたしがぁ?」


 流れるように用事を押し付けた。「では」からの結びが全く論理的でない辺りがいかにも母親的で、何だか可笑しい。


「では私がついていこう。そこで挨拶を済ませた方が良いだろう」


 渋るラリアーに、ルキアノスがそう申し出た。アンドレウ男爵は歩いて行き来ができる仕事場に戻ったようだし、ご挨拶に往復するだけならそう時間のかかることではないのだろう。


「分かりました。ではご案内しますね」


 ラリアーが観念したように請け負う。二人きりになれるからてっきりはしゃぐだろうと思ったのだが、少し違うようだ。


(母のナイスアシストに照れてるのかな?)


 思春期の少女は難しい。

 などと考えていると、今度は反対側からも声が上がった。


「わたくしも、馬車の様子を見て来ますわ」


「え、何で?」


「わたくしが戻るまで、ここで大人しく待っていてちょうだい」


「私はじっとしてられない迷子予備軍か」


 小夜の疑問はさらっと無視して妙な釘を刺された。だがわざわざそれに逆らう理由もないので、椅子に座って待つことにした。


(ヨルゴスさんと何かあるなかな?)


 思えば、昨日もヨルゴスに肩を支えられて歩いていた。寮に帰ってからも何やら話していたし、同年代には出来ない話でもあるのだろうか。

 ともかく、そうして三人は出て行き、部屋にはクラーラ夫人と小夜の二人だけとなった。

 そして、小夜は迷った。


(伝えちゃ、ダメなんだよね)


 イエルクとラウラについての詳細は、ルキアノスから口外禁止を言い渡されている。その理由も分かっている。

 伝えたのは妹のことだけだが、クラーラ夫人は「二人に会えるか」と聞いた。そのことからも、イエルクも一緒だということも分かっているのだろう。カマをかけただけかもしれないが、誰も否定はしなかった。


(でも……何かを伝えたいんだよね)


 だが、ただ大丈夫ですからと伝えても、意味はない。だからと言って、二人が王族暗殺未遂をしたことを伝えても、悲しむだけだろう。

 亡国を復興させようとしたことだろうか。だが今のクラーラ夫人の様子から、それを聞かされても心から喜べることではない気がする。

 クラーラ夫人が望むのは、二人に生きて会うこと。そのために最も気にかかるだろうことは。


「……あ」


「出来合いのものですけど、他にもお菓子召し上がられます?」


「いただきます」


 もしかしたらと思ったことがあったが、菓子に罪はない。即行で頷いた。

 クラーラ夫人の指示に侍女が部屋を後にする。その背を見送ってから切り出そう、と思っていたら、先にクラーラ夫人が口を開いた。


「喧嘩でもされたの?」


「え!」


 突然の図星に、小夜はものの見事に動揺した。目を白黒させてクラーラ夫人を見る。微笑ましそうにくすくすと笑われた。

 気持ちはとても分かる。小夜だってそんな二人を見付けたら青春だなと思うだろう。だがルキアノスとはそんな甘酸っぱい関係ではないのだ。


「喧嘩というか……一方的に彼の尊厳を踏みにじるようなことを言ってしまって」


「まぁ……」


 クラーラ夫人の悩ましげな顔を見て、小夜はすぐに後悔した。何でもないですと言えば良かった。


「でも、大丈夫です。大したことではないので」


「そうなの? わたくしは……大丈夫ではなかったわ」


 笑って会話を終わらせる。つもりが、クラーラ夫人は苦笑とともに意外な言葉を続けた。


「わたくし、主人に会った時……恥ずかしながら、ずっと泣いていたんです。ある人の名前を呼んで、ずっと、めそめそと」


 イエルクの名前だろうかと、小夜は思う。戦禍に阻まれ、始まることすらなかった恋。


「そうしたら、主人が現れたんです。『僕の名前を呼んだだろう』って」


 イオエル・アンドレウ。ふと、火に巻かれた敵地でもなお、あの優しそうな笑顔がひょっこりと現れる映像が脳裏に簡単に再生できた。


「わたくし、呼んでなんかいないと手を払いのけたわ。それでもしつこくそう言うものだから、とてもお聞かせできないような罵詈雑言を浴びせました。包帯や薬を積んで戦地を行商しながら、国籍関係なく助けて回っていた若い商人に」


「出会ったって、そういう理由で……」


 成る程、ただの放蕩息子というわけではなかったらしい。二人が出会うのは、ある意味で必然だったということか。


「結婚の話が出て、わたくしは出会った頃のことを改めて謝りました。主人は笑って許してくださいましたわ。君は悪くないって」


 ヒュベル王家の容姿の特徴を知らなくても、足を怪我した少女の来歴がどんなものかは、想像に難くない。向けられる憎悪には、悲しいながら理由があった。


「でも、本当はもう一つ、彼に申し訳なく思うことがあったんです」


「もう一つ?」


「えぇ。わたくし、子供を育てる自信がなかったんです」


「そんな……」


 それは、それまでの母親ぶりを見ていた小夜にはとても信じられない言葉であった。クラーラ夫人が、その整った面に決して克服しきってはいない陰を滲ませる。


「母が見付かったのは、最後まで胸に抱いていた弟のせいだと……泣き虫で我が儘な三歳の男の子のせいだと、ずっと思っていたんです。だから、そんな子供を自分が育てることが怖くて……何の因果もないのに、憎しみを……抱いてしまうんじゃないかと」


 それは、小夜には想像してもしきれない怖さであった。

 自分の受けた傷を他の何かで晴らすという代償行為は、悲しいながらも本能的な行いだ。小夜だって八つ当たりくらいする。

 だが小夜はごくごく普通の家庭に育った。アニメで見るようなごりごりの愛情を受けたわけでもなければ、その反対もない。

 自分が親になることすら想像できない女には、かける言葉さえ浮かばない。

 だが、クラーラ夫人は笑った。困ったように、はにかむように。


「でも、いざ授かってみれば、……そう、恋と同じでした」


「恋と?」


「えぇ。恋をしてしまえば、結局恋をするしかないように。子供ができてしまえば、向き合って、言葉を与えて、聞いて、共に過ごすしかなかったのだわ。それを愛するとか育てると言うのかも分からなくても、正解が分からなくても、下手くそでも……結局、逃げられはしないのだから」


 逃げられない。まさにその通りだと、小夜は思った。現実には逃げる方法など無数にあるだろうが、小夜はそのどれも選びたくはないし、選ばない人間でいたい。

 であれば、向き合うしかない。


(そっか……逃げられないんだ)


 考えてみれば、当たり前のことであった。逆に言えば、当たり前だからこそ悩んでいたとも言える。

 答えが出たわけではないが、それでもクラーラ夫人の言葉は不思議と小夜のあと一歩を押し出した。


「……ありがとうございます」


 小夜は自然と礼を口にしていた。


「お恥ずかしい話をしてしまいました」


「いいえ。……クラーラ様が生きていてくださって、私も、嬉しいです」


「まぁ、そんな大げさ……」


 言いかけて、その先の言葉が消える。「私も」と言った意味が、どうやら正しく伝わったようだ。

 石榴色の瞳を揺らして止まってしまったクラーラ夫人に、小夜は先程気付いたことを伝える。


「クラーラ様の最後の言葉、ちゃんと伝わっていました」


 彼女の最も懸念していたことは、最後にイエルクを動かすために放った言葉だったのではないかと、小夜は思った。

 怨みを晴らしてほしいのではない。ただ、生きてほしかったのだと。誤解なく伝わったろうかと。あの言葉が彼らを縛ってはいないだろうかと。


(でも、ラウラさんはちゃんと『違う』と言った。イエルクさんだって……)


 だから、大丈夫だ。今までがどうであろうと、きっと。


「――――あ、あぁ……あぁ……っ」


 クラーラ夫人の瞳が涙に歪む。それは先程とは比べ物にならないほどで、涙は大粒の雫となってぼろろぼろろとその白い頬を転がり落ちた。


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