同じ轍は二度と踏まない
ラウラに諭されてあとは、イエルクは無言であった。ラウラもまた、言葉を探しあぐねるように押し黙っている。
そんな二人の様子を見て、イリニスティスとルキアノスが目配せをしたところ。
「ところで、ファニ」
セシリィが、椅子に座ったまま突然ファニに話を振った。ファニが慌ててその場で背筋を伸ばす。
「は、はいっ」
「わたくし、あなたに何かしたかしら?」
「え?」
脈絡がない上に、字面だけでなくとも妙に威圧的であった。瞬間湯沸し器のように、エヴィエニスの面相が悪化する。
「セシリィ、こんな時に何のつもりだ」
これには小夜も同意であった。まるで陰でずっとイジメをしていた首謀者が、自分の都合で全てをなかったことにしようと圧力をかけている図にしか見えない立派な悪役である。
「えぇ~? それは怖いよ、セシリィ」
「小夜は少し黙ってらっしゃい」
振り返りもせず怒られた。
セシリィは改めて、今度は幾分優しく問いかける。
「ファニ、どうかしら?」
「……あ!」
そして、ファニも少し遅れて何かに気付いたらしい。ぶんぶんと首を横に振った。
「していません。私、何もされてないです!」
「そう。では、わたくしも何もしていないし、されていないわ」
その答えに満足したように、セシリィもまた大様に頷いてみせる。その後には、はぁぁ、と大仰な嘆息が続いた。
「全く、次から次へとこいつらは……」
「僕の可愛いセシリィは、相変わらず聡明で可憐で慈悲に溢れているね」
片手で顔を覆うルキアノスとは対照的に、イリニスティスは実に嬉しそうである。そこまで言われれば、小夜にもセシリィの意図が少なからず理解できた。
イエルクたちの罪は、セシリィを誘拐し、ファニを呼び寄せる術を強制的に施したことだ。だが術は失敗し、ファニに怪我はあれど、奪取はできていない。
それでも無罪放免とはいかないだろうが、聖泉の乙女誘拐未遂や王族暗殺未遂がなくなれば、その処遇は大きく変わるだろう。そしてイリニスティスやルキアノスには、それを口添えできる立場にある。
(もっと誤解を招かない優しい言い方すればいいのに)
だからこそ、放っておけないとも言えるのだけれど。
そしてその驚きは、当の二人の下へも届いた。
「まさか……許すというの? 私はあなたを散々叩いたのに」
ラウラが愕然とした顔でセシリィを凝視する。その情けなくも動揺した表情に、セシリィは冷たく一瞥する。それから、社交界にでも行くような完璧な淑女の顔で微笑んだ。
「では、失礼して」
そう言いながら、おもむろに席を立つ。手すりを掴む手に無駄な力が加わっていることを見て、小夜は慌ててその体を支える。止めても無駄だろうが、つい目顔で大丈夫かと問う。すると軽く瞠目されたあと、「平気よ」と返された。
(相変わらず、強がるのが好きなんだから)
言うと怒られるので、黙って見送る。
セシリィはゆっくりとした足取りでラウラの前まで進み出ると、もう一度美しく微笑んだ。そして涙の跡が残る頬を容赦なく引っ叩いた。
バシンッと響く音に、小夜がゲッと顔をしかめる。しかしセシリィの微笑は変わらず小揺るぎもしない。
「女の嫉妬は見苦しくてよ?」
「ッ!」
その言葉に、衝撃で横を向いていたラウラの瞳がギッとセシリィを睨む。受けるセシリィは完璧な微笑。温度差が違い過ぎて異様であった。
(……どんな会話したんだろ、この二人)
取りあえず、今の一撃でセシリィは八割方の報復を果たしたようには見えた。セシリィ怖いという一言は飲み込んで、代わりに疑問を声に出す。
「でも、そうなると二人の罪状って何になるの?」
「そうだな」
そう声を上げたのは、それぞれの動向に気を配っていたルキアノスだった。右手を顎に当て、ふぅむと思案する。
「他の三人の行方不明者は無関係かもしれないとなると……」
「三人?」
そこで、何故かツァニスが反応した。目をぱちくりと瞬き、ルキアノスを見、それから何故かラウラを見る。そしてこんなことを言った。
「でも、一人はこの方ですよね?」
「え?」
「……は?」
ラウラとルキアノスが異口同音に声を上げる。小夜も気持ちは同じであった。
ラウラが行方不明者の一人とは、一体どういうことであろうか。
ツァニスも、ラウラの反応に自分の記憶が不安になったのか、おろおろとしながら言葉を続ける。
「フィオンさん、ですよね? 聖拝堂では男性の格好をしていらっしゃいましたが、美しい石榴色の瞳が孤児院の義弟と同じだったのでよく覚えています」
にこりと、嬉しそうに微笑む。そこでラウラも思い出したように「あ!」と声を上げた。
「あなた、学校の司祭の……」
「はい。突然姿が見えなくなって心配しました。何かあったわけではなくて良かったです」
合っていたことににこにこするツァニスは、本当に嬉しそうだった。拐われたとか危害を加えられたということよりも、敵として健在な方が余程幸福だと言わんばかりだ。
それを受けるラウラは、どんな顔をしていいか分からないようで、とても居心地が悪そうだった。
これは後から聞いた話だが、街の神殿にはイエルクが、学校には聖女のことを調べるついでにラウラが忍び込んでいたのだという。十九年前の真実を知りたくて、ラウラは何度も図書館や聖拝堂に足を運んでいた。ツァニスに声をかけられ、咄嗟に弟の名を名乗って、授業に使う資料と答えたのだという。
ラウラは小夜よりも幾つか年上だが、どちらかというと童顔で、肌艶が良ければ二十代には十分見える。左側だけ長い一房を耳にかけて、帽子でも被れば、ある程度の化粧で年齢や性別の誤魔化しは不可能ではないだろう。
だがそんなやり取りなど目に入っていない者がいた。
「俺は許さない。王太子として、婚約者として、聖泉の乙女を傷付けたこと、必ず償ってもらう」
エヴィエニスが、ファニの手を離さないまま地を這うような低声で告げる。
「エヴィ……でも、私の父が、彼らを」
「関係ない。俺は……」
困り果てた声で抗うファニの言葉を、エヴィエニスが聞きたくないとばかりに切り捨てる。だが声の強さとは裏腹に、その瞳は懇願に似ていた。
(私の及び得ないラブロマンスが発生している……)
毎度のことながら、ここだけ温度が違うと思う小夜である。だが前回の失敗を踏まえて、同じ轍は二度と踏まないのである。
しかしその努力は水泡に帰した。
「その話、全員この部屋から退室したあとにして頂けないかしら?」
セシリィが再び椅子に座り直してそう言った。お冠である。
そして。
「……僕もぉ……セシリィ嬢にぃ……一票ぅ……」
「レヴァン!?」
ずっとファニとエヴィエニスに挟まれて軽く瀕死だったレヴァンが、ついに手をぷるぷるさせながらそう言った。
「だ、大丈夫?」
「大丈夫、じゃないからぁ……早く、治療ぅ……」
ファニの声にどうにか応じるレヴァンに、意外な人物が声を上げた。
「だから、用が済んだらとっとと出てってって言ったでしょ?」
いい加減付き合いきれないというように、イデオフィーアが立ち上がった。そしてツァニスたちに向け、しっしっと手で追い払う仕草をする。
これに、心優しい叔父も賛同を示した。
「そうだね。僕のやんちゃなレヴァンが、これ以上苦しんでは可哀想だ」
「あぁ、申し訳ありません。早く退散しますね」
ツァニスもまた頭を下げる。その上で、イリニスティスはそれまで沈黙を守っていたセルジオと護衛にも目配せをした。
「ルークも、それでいいかい?」
「はい。叔父上にはご面倒をお掛けしますが、よろしくお願いします」
愛称で呼ばれたルキアノスが、丁寧にお辞儀で返す。
「それから、エヴィはもう少し周りを信じるように」
「え!? ……はい」
突然名前を呼ばれたエヴィエニスが、珍しく驚いた声を出す。沈んだ返事は思いがけず幼かった。ファニが隠れて苦笑し、セシリィもふんっと鼻息を荒くする。
そうしてイエルクとラウラは、イリニスティスとツァニスに引き連れられて完全に部屋を出た。その背を、小夜は慌てて追いかけた。
「あの、イエルクさん、ラウラさん!」
小声で呼びかける。二人とも、似たような顔で振り向いた。困ったような、少し寂しげなような。
「……何でしょうか」
イエルクが代表して口を開く。小夜は気まずさを感じながらも、えいやっと頭を下げた。
「謝るって言ったのに、ちゃんと謝れなくてごめんなさい」
「……え?」
イエルクが目を丸くする。小夜はますます気恥ずかしくなりながらも、どうしてもと言葉を繋いだ。
「決して軽い気持ちではなかったんです。女の子一人が謝っても、謝られても、お互い辛いだけなんじゃないかと思って……。孤立して非難されながら独り謝るのって、とても勇気の要ることだから……。でも、不快にさせただけでした。本当に、すいませんでした」
自分から大言壮語したくせに何も実行せずに終わるのは、失敗した仕事を残したまま後任に引き継ぐような据わりの悪さがあった。
こんな風に謝るのは自己満足で、二人にとっては気に障ることかもしれないが、それでもその場凌ぎで言ったわけではないとだけは分かってもらいたかった。
のだが。
(……反応、ないや)
頭を上げるタイミングがやってこない。やはり無駄に怒らせただけだったろうか。
と焦り始めていると、横から柔らかな苦笑がこぼされた。ちらりと目線を動かすと、声の通りの顔をしたイリニスティスが見えた。
「僕は、数に入れてもらえないのかな?」
そう言えば、最初に謝罪を申し出たのは彼だった。だが。
「あっ……と、ごめんなさい。年上はカウントしてませんでした」
小夜の中で庇護者は主に年下であった。更に頭を下げる。そこにまたふふっと苦笑が続く。どんどん所在がなくなるなと身を縮めていると、やっとイエルクの声が聞こえてきた。
「やめてください」
「す、すいません」
「その顔で謝られると、全て許してしまいそうになる」
「……? あ」
(そっか、『クラーラ様』だっけ)
イエルクがその名を呼んだときの、途方に暮れたような、痛いほどの郷愁の中に押し込めた恋情が甦る。確かに、あそこまで恋い焦がれた者に似た顔というのでは、何を言っても卑怯かもしれない。
「ご、ごめ……あっ」
反射的に出かけた謝罪を咄嗟に飲み込む。そっと顔を上げると、イエルクは少しだけ口許を持ち上げていた。それは、とてもそれまでと同一人物とは思えないくらいの、優しげな微苦笑であった。




