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生きて

 扉の向こうでやや怯え気味にそう尋ねたのは、ヨルゴスとともに現れたラリアーであった。


「どういうと言われましても……」


 助けを求めるように目が合った小夜は、ひとまず辺りを見渡してみた。

 入り口には車椅子に座った王弟イリニスティスと、それを押す老執事セルジオ。その横では縄をされたイエルクと涙顔のラウラが立ち、二人の抑制要員として聖職者のツァニスが祈り、クレオンは仁王立ちし、足元では同じく聖職者のニコラウがイビキをかいて爆睡している。

 室内では土下座するファニを、エヴィエニスが守護神のように抱き締めて目付きを険しくし、その足元にはレヴァンが負傷したまま息も絶え絶え。そしてその側には、仮面とフードで完全に不審人物と化したやる気のないイデオフィーアが座り込んでいる。


(軽くとっちらかってる感じ?)


 こうして見ると、修羅場なのか何なのかよく分からない。


「えっと、取りあえず今から皆で謝罪するところ、かな?」


「……え?」


 ざっくりまとめてみた。ラリアーに物凄く困った顔をさせてしまった。

 すぐ隣から、セシリィが目だけで語彙力の無さを責めてくる。


「だからおれはしないって」


 イデオフィーアが不貞腐れたように注釈を入れる。だがそれに怒声が上がることはなかった。


「その髪……その目……」


「え?」


 呆然とした声に、ラリアーが一拍遅れて振り向く。イエルクが、目を見開いてラリアーを穴が開く程見つめていた。その隣でラウラも同じような顔をしている。


「あなた……出身はどこ?」


 まるでそれ以上口が利けないとでもいうように固まったイエルクの代わりに、ラウラがその先を問う。ラリアーはしぱしぱと茜色の瞳をしばたたいた。


「シェフィリーダの、王都ですけど……?」


「そんなはずは……!」


 ラウラがか細く悲鳴のような否定を上げる。体が拘束されていなければ、今にも飛びつきそうな勢いだ。それを遮ったのは、一人の呑気な大人である。


「どこかで見たと思ったら……アンドレウ男爵のご息女かい?」


「あ、はい! お初にお目にかかります」


 思い出せて嬉しそうな顔で、イリニスティスが呼びかける。ラリアーは突然王弟殿下に声をかけられ、いつかの小夜とまではいかないまでも、驚いて深々と頭を上げた。ばさりと、シルバーブロンドの長髪が肩から流れ落ちる。

 それを微笑ましく見つめて、イリニスティスはうんと頷く。


「ご両親によく似ているから、すぐに分かったよ」


「ありがとうございます」


「いや、こちらこそ、いつも彼の商品には世話になっている。改めて感謝の意を伝えてほしい」


「そんな……畏れ多くも光栄なことでございます!」


(……なんだろう。世間話が始まってしまった)


 これはきっと自分のせいではないと思いながらも、小夜は今にも泣き出しそうなイエルクたちの様子が気が気ではなかった。二人が喋っている間も、彼らの視線はずっとラリアーの横顔に釘付けになっている。


(ラウラさんの方は、ラリアーを見たことあるはずなんだけど……)


 小夜に驚きすぎて気付いていなかっただけだろうか。しかしイリニスティスたちの会話は止まらない。


「いや。その謝意とともに、次は是非階段を移動できる車椅子を開発しておくれと伝えてくれないか?」


 改めて低頭するラリアーに、イリニスティスが可愛らしい悪戯を伝えるように片目を瞑る。その姿は、既に三十歳を軽く超えている男性がするには随分可愛らしい仕草であったが、よく似合っていた。

 その意味を十分に理解したらしいラリアーが、控えめな苦笑を零しながら首を傾ける。


「それが……妻の階段の移動を手伝うのは夫のやくめだからと」


 理由が愛妻家過ぎた。顔も知らない夫が、仕事を放り出して妻を横抱きに階段を上り下りする光景が目に浮かぶ。取りあえず、車椅子の発達は今後も水平移動に限られるらしい。


「作る気はないと? 困ったなぁ。ではご母堂にこっそりと伝えておいてくれないかな?」


「まあ……。はい、承りましたわ」


 捨てられた子犬のようにしゅんと落ち込むイリニスティスに、ラリアーの緊張がすっかり解れたことがよく分かった。高貴な御仁と可愛らしい秘密を共有したくすぐったさに、くすくすと微笑む。

 そこに、強張った震えた声が上がった。


「足が……悪いの? あなたの、お母上……」


 ラウラが、乾いた涙の跡を赤く腫らして、ラリアーを見つめていた。そのあまりの形相に、事情を呑み込めない戸惑いのままラリアーが是と頷く。


「え、えぇ。母は父と出会った時、足を怪我して動けなかったらしくて、怪我が治った後も足は上手く動かせなかったとか」


「名前……その方の名前は!?」


 ついに堪えきれなくなったように、イエルクが飛び出した。縄がビンッと張る。


「クラーラ、です。クラーラ・アンドレウ」


「「………………ッ!!」」


 その名を聞いた瞬間、二人はまるで突然限界が訪れたかのようにその場に頽れた。イエルクは呆然と虚空を見つめ、ラウラはそんなイエルクにしがみつくように額をこすりつけて唇を噛み締めている。


「……生きてた……生きて……!」


「……姉様……ッ」


 辛うじて聞き取れたのはその単語だけで、あとは悲鳴のような嗚咽のような言葉とも言えない声ばかりが、部屋に響いた。


(……まるで、誰かが引き合わせたみたい)


 その場にいない『クラーラ』を、それでもついに巡り合ったかのように抱き締めているようだと、小夜は感じた。二人の間にある、ぽっかりと空いた空間にあった喪失を埋めるように。


(ラリアーは、偶然現れたのかな?)


 そうかもしれないし、そうでないかもしれない。だが彼女が現れたとしても、母と同じ白い髪と赤い瞳を持っていても、この話が出なければ、二人は確信を得られはしなかっただろう。

 思ったことは勝手に口からこぼれる小夜ではあったが、二人の呼吸が落ち着くまで口を閉ざした。我が道を行くイデオフィーアでさえも、慈悲をもって沈黙を守ったから。


「イリニスティス様……もしかして、ご存知だったんですか?」


 小夜の問いに、全員の視線が車椅子上のイリニスティスを見やる。イリニスティスは小夜ににこりと微笑んだ。


「言っただろう? 絵姿を貰ったことがあるって」


「あぁ、はい」


 ご婚約の、と言いかけて、イエルクの機嫌が悪くなりそうだと口をつぐむ。代わりにイリニスティスが、傍らのイエルクを見上げて眉尻を下げた。


「ご本人を見かけたことは一、二度しかないけれど、アンドレウ卿からは散々自慢されていたし、肖像画が店にも自宅にも山のように飾ってあったんです。それでも思い出さなかったけれど……今、あなたと」


 言いながら、ラウラに視線を滑らせる。


「ラリアー嬢を一緒に見て、やっとぴたりと嵌ったんです」


 そして少し申し訳なさそうに微笑んだ。泣き腫らして真っ赤になった目を、二人はそれぞれに細め、またきつく閉ざした。

 イリニスティスが続ける。


「義兄の分まで謝罪をすると、あなたに言いました。あなたのための慰めでも、誰かのための慰めでも、僕はあなたに謝ります。本当に、僕たちは申し訳の出来ないことをあなたたちにしてしまった」


 車椅子の上から、丁寧に頭を下げる。柔らかそうな栗色の髪を、イエルクはきりきりと音がしそうなほどの眼差しで見つめていた。そして、こう呟いた。


「……『お前たちが、悪魔であれば良かった』」


「……。本当にね」


 ゆっくりと面を上げたイリニスティスが、くしゃりと目尻を歪めて苦笑する。互いに、万感の思いがこめられた一言であった。


「あの時、燃え盛る城の、薄暗い廊下の奥で……血塗れの男は、陛下に向かってそう言った」


「そう、義兄上が……」


 今上テレイオス王は、危険が迫る婚約者と、その弟を助けるために一刻も早く城に帰らなければならなかった。その前に立ち塞がる敵が予想したような存在でなかった時、その勢いを保つことは大変な気力を要したことだろう。

 それが実際にどうであったかを知るのはこの場ではイリニスティスだけで、その憂色もまた痛ましげであった。

 それをイエルクはどう取ったのか。続く声に今までの強さはすっかり消えていたが、それでも尚その瞳に宿る色は悲しみに昏く濁って。


「それでも……彼女はあの時、国と、彼女自身の怨みを晴らしてくれと願った。私はそのためだけに生きてきた」


 だから、と言葉は続く。決して許すことはできないと、そう言おうとしたのだろうか。けれどその答え合わせはされないまま、力強い声がこう言った。


「それは違うわ、兄様」


 ずっとすぐ側で心配げに見守っていたラウラが、イエルクを見上げて首を横に振る。思わぬ所からかかった否定に、イエルクが弱々しく瞠目した。


「違う……?」


「クラーラ姉様は、イエルク兄様に逃げてほしかったのよ。私を見捨ててでも自分のもとに戻ろうとする兄様に、前に進んでほしかったの。だからあんなことを言ったんだわ。それくらい……子供だった私でも分かる」


 「あの時」が何を指すのかは小夜には分からなかったが、自分のことを「子供」というラウラの悲しみは痛いほど伝わった。兄と慕う男が、目の前で姉を選ぶ。その現実が、ずっと彼女の中で棘のように刺さっていた。

 姉の真意も、兄の恋心も分かる。そして最も大事なことも。


 生きて。


 本当は、たったそれだけのメッセージだったのだ。けれどそれだけでは、イエルクは進みそうになかった。だから心にもないことを言った。使命と復讐に燃える王族になって。

 それが結果的に十九年イエルクを生かし、十九年の歳月を殺してきたことは、悲しい皮肉と言えた。


「……本当は」


 と、イエルクは言った。途方に暮れたような、寄る辺ない声で。


「気付いていた……。たとえあんな惨劇の最中さなかであっても、クラーラ様の最期の言葉が怨み言だなんて、似合いはしないと」


 私が愛した人だから、と。そんな言葉が聞こえてきそうな声だった。



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