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逃げてもいいけど

「イエルク兄様!」


 ラウラと呼ばれた女の悲鳴が、まず耳に飛び込んだ。

 けれど小夜は、男を握り締めた手を離さなかった。

 痛かったけど。背中とか肩とかめちゃくちゃ熱くて痛かったけど。


(絶対、離さない)


 爆煙が視界いっぱいに広がって、男の足にしがみついているのか腰にしがみついているのかも分からなかった。それでも、今離したらこの男は逃げてしまうかもしれない。

 それだけはダメだ。


「……逃げる前に、助けて」


 煙というよりも水蒸気が薄れてきた中に向かって、言う。エヴィエニスの火が直撃したわけではないが、熱気のせいで喉が少しやられていた。その前には水責めにも遭っている。濡れた髪が額に張り付いて邪魔ったい。

 だが声は聞こえたはずだ。

 だというのに。


「……ク、クラーラ、様……」


 返る声は知らない名を呼んだ。誰それ、と言う前に、今度は別のところから悲鳴が上がった。


「姉様、ごめんなさい! ごめんなさい! 私が、私がいたから!」


 突然の金切り声にハッと見ると、ラウラが頭を抱えてその場に蹲っていた。まるで幽霊でも見たように青褪めている。


(なん、何なんじゃ?)


 二人の行動がどうにも繋がらなくて、小夜はこんな時だというのに背後を振り返っていた。

 椅子の足元に放り出してしまったセシリィ。反対側には鬼のような形相のエヴィエニス。そして壁際には出血がどうにか止まったらしいレヴァンと、顔色の悪いファニがいる。

 とりあえず、幽霊はいなさそうだ。


(霊感ないけど)


 改めて向き直る頃には、視界も完全に晴れていた。

 目の前に、男の顔があった。


(げっ、近っ)


 どうやら必死に飛び付いた結果、男の肩を掴んでいたらしい。しかもその顔は、やはり殺した相手が蘇ったように蒼白であった。

 女の方もそうだが、顔立ちがエヴィエニスたちよりも日本人に近く、栗色の瞳にその白い髪色の取り合わせだから、余計に一晩で色が抜けた白髪しらがのように見える。


(もしや私に見えてないだけで、何かいるのかな?)


 お菊さんかお岩さんか。イメージが偏ってるなと思いながらも、今はそんなことはどうでもいいと力を込める。


「逃げる前に、セシリィを助けてって」


「……な、なに、を……?」


 男が、何を言われたかさっぱり分からないという顔で目を白黒させる。まるで今にも小夜に殺されるとでも思っているのか、その顔はあまり正気には見えなかった。

 だが今は、小夜にもそんなことに構っている余裕はないのだ。


「いいから、早く!」


「ッ!」


 小夜の一喝に、男がびくりと怯える。今にも泣きそうな顔に、小夜の怒りの電圧ボルテージはますます上昇した。


「ボケッとしてないで、早くセシリィを治して! あんたがやったんでしょ!?」


「わ、私が……?」


「あんた以外に誰がいんの! 早く助けて!」


「『早く』……助ける……」


「逃げてもいいけど! やることやってからにして!」


 苛々しながら男を揺さぶる。それでも動かなかったから、引きずるようにして椅子を回り込んだ。

 男を捕まえたまま、セシリィの前に立つ。そこに、再びラウラの悲鳴が迸った。


「ダメよ兄様! 助けられない!」


 何てことを言うのだと見れば、ラウラはいつの間にかエヴィエニスに拘束されていた。組み敷かれた上で両腕を取られ、背中には膝をつかれ、首にも剣を当てられている。


(いやいや女性にそれは……)


 と思ったが、相手は念じるだけで部屋を吹き飛ばせる凶悪犯だ。しかもエヴィエニスの怒りは最大マキシマム

 見ないふりをすることにした。


「姉様はもう間に合わないの! 逃げなきゃ……!」


「だから何てこと言うの! 間に合うってば!」


 瞬殺で前言撤回した。死にそうな顔で勝手なことを言わないでほしい。


「間に合う……私が、あの時、戻っていてれば……」


 一方の男も、焦点の合ってない瞳で床に倒れるセシリィを見下ろしている。混沌カオスであった。


(何なんじゃ、一体)


 先程までのぎらつきようが嘘のような腑抜けぶりだ。だが元に戻るのを待つのも怖い。呆然としているうちにと、男をセシリィの前に跪かせる。

 そこに、新たな声が飛び込んだ。


「……何をしている?」


 ひたひたと這い寄るような怒気を孕んだ、低く、けれどその中にいつもの高めの音が混じる、鼻にかかったような少年の声。


「ぎゃっ!?」


 前触れもなく背筋に走った電撃に、小夜は思わず男の肩を掴んでいた両手を放して頬に当てていた。

 ハッと振り返る。開かれた扉の前に、ルキアノスが眉間にこれでもかと皺を寄せて立っていた。


「ルルル、ルキアノス様!?」


 半ば巻き舌になっていた。この離宮に来る前のやり取りの険悪さが刹那に思い出されて、なぜか激しく動揺する。

 その間にもルキアノスはつかつかと室内に侵入する。

 ふと見れば、ルキアノスの背に、泣きそうな顔で室外で待機するエレニが見えた。姿が見えないと思ったら、いつの間にか部屋を抜け出していたらしい。確かにあの騒音の中では、エレニが隠れて動くなら気付くことは難しかっただろう。


(エレニ、優秀すぎ……!)


 見付かったら相当危険だったろうにとおののいていると、ルキアノスが第二声を発した。


「その男とは、どういう関係だ……?」


「…………はい?」


 予想外の質問に、小夜は大量の疑問符が頭上に湧いた。関係と言われても、答えに困る。


(脅迫し合ってる、とか?)


 ちらりと男を見る。すぐ近くにある顔は、今度は雨の中の捨て猫のようであった。

 そんな小夜の内心を代弁する者があった。


「何ってそっちかよー」


 レヴァンである。息は荒く、声もいつも以上に掠れているが、呆れているのだけはよく分かる。


「レヴァン、喋ってはダメよ!」


「だって、さっきからもう全然会話がおかしくなって……っ」


 側で見ていたファニの制止も気にせず、レヴァンが笑う。それで傷が痛んだのか、無言で背を丸めていた。

 そこに、また別の声が降ってきた。


「ツァニス。早くしなよ」


「ぎょっ」


 一人は足音もなく現れて、苦悶しているレヴァンの下へ。


「失礼します」


「ぎゅわっ」


 一人はルキアノスと同じく、開け放たれた扉から真っ直ぐセシリィの下へと歩み寄った。

 耳が驚く程の美声と共に。


(ベ、ベテランのイケボが勢揃いっ!)


 小夜は真っ赤になって、突然形成された美声三角形に翻弄された。


「それでやることやったらとっとと出てって」


 柔らかな声で容赦のないことを言ったのは、小夜よりも少し低い程度の身の丈をすっぽりと外套で覆った人物であった。顔半分を覆う烏のような仮面の下から発せられたその声には、高く澄んで、声変わり前の少年のような中性的な響きがある。


(あぁ、宮廷最年少魔法士にして永遠の十四歳、イデオフィーア先生のお声のなんと美しいこと!)


「申し訳ありません。いつもあなたのお邪魔をしてしまうようで……」


 まだ何もしていないのにそうしょげるのは、白地に赤と金の刺繍が施された聖職者の装いをした青年である。少し高めながら柔らかい大人の色気がある声と、青と茶の混じったアースカラーの瞳の優しげな雰囲気がよく合っている。


(歩く天然空気清浄機のツァニス・ヴァシレイノ司祭の痺れる美声に万歳!)


 そして。


「……この状況でよくそんな顔が出来るな」


 小夜の目前で立ち止まって大いに呆れたのが、小夜の心の栄養源にして永遠のアイドル、第二王子ルキアノスその人である。


「……ビバッ!」


 取りあえず両手で顔は隠したが、感想は駄々洩れであった。両膝をついていないことがせめてもの慰めである。

 言い訳のしようもない沈黙に、大仰な溜め息が続く。それで少しは気が紛れたのか、ルキアノスは改めて小夜に問い質した。


「で? この男は」


「そいつが主犯だ。拘束しろ」


 しかし答えたのは小夜ではなかった。女を自分の脱いだ上着で拘束したエヴィエニスである。


「主犯? それが何でこの距離なんだよ」


「それは……」


 ルキアノスは兄の声に納得いかない顔をしながらも、持参したらしい麻縄でちゃっちゃっと目の前の男を拘束しようと手を伸ばす。

 だが小夜が説明をしようとしたその時、男が一歩退いた。その栗色の瞳に、消えかけていた闘志が戻る。

 あっ、と小夜は思った。

 仕組みは分からないが、四技師には呪文を読み上げたりなどの予備動作がない。ルキアノスが危ない、と小夜は咄嗟に手を伸ばし、


「ルキアノス様、危な……っ?」


 何も起こらなかった。ルキアノスが高慢ちきな態度で男の両手を縛り上げる。


「……な、なぜ……?」


 両手を拘束されながら、男が愕然と動揺する。その様子からやはり水を動かそうとしたのだと分かるが、それが失敗した理由は分からない。

 男と同じくなぜと首を捻っていると、足元から女性のうめき声が上がった。


「っ……ん……」


 小夜は目の前の全てをうっちゃって飛び付いた。


「セシリィ!」


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