最悪
父が残った理由が、当時十三歳だったラウラには分からなかった。
何故残らなければならないのか。説得するつもりなのか。後から来るのか。そのようなことを、暗く狭い通路を走りながら、イエルクに聞いた。けれどそのどれにも、回答はなかった。
それは緊張と恐怖のためだったかもしれないし、終始震えている姉を支えるのに必死で周りが見えていなかったからかもしれない。
結局、山中に隠された出口に至るまで、誰もが黙って歩いた。何度も周りが揺れて、細かい石や埃が髪に肩に振りかかった。
外に出られた喜びは一瞬で、稜線の向こうから溢れる薄明に照らされた自分の姿を見て、ラウラはがっかりした。寝間着も手も全体的に薄汚れ、あちこちに蜘蛛の巣がかかっていた。きっと顔も同じだ。
「最悪……」
鏡を持ってこなかったことを心底後悔した。
(イエルク兄様に見られる前に直したい……)
だがそう思ってまた、ラウラは後悔した。イエルクはクラーラを見つめるばかりで、ラウラのことなど気にもかけていなかったのだ。
「……最悪」
口の中だけで呟く。もう足も痛くなってきて、動きたくなかった。けれど護衛たちはどんどん先に行く。走りたいのを堪えるように、慎重に周囲を警戒して、でも早足で。
もうすぐ日が昇る。ここにもすぐ追っ手が来る。山狩りが始まる前に。そんなことを、大人たちが話す。その傍らでクラーラがずっとイエルクの服の袖を握っている。
「イエルク……お父様は、国を捨てろと言ったのかしら……」
「何よりも大事なことは生き延びることだと、そうおっしゃりたかったのでしょう」
時折、そんな会話を交わす。何故だか、突然無性に嫌になった。
(私も、お母様と一緒に行けば良かった)
母に手を取られた弟を思い出す。城を振り向いたのは、何となくだった。
燃えていた。城が。
冬には白銀に染まる城が、今は炎の赤に染まっていた。
「お城が……」
足は止まり、呆然とそんなことを呟いた時だった。
人影が、城壁から崖側へと飛び降りた。
影は白みだした空を背負って暗く、ほどけて長く靡く髪とドレスの陰影から辛うじて女性と分かる程度だ。だが、何となく、そう思ってしまった。
「お母様――!」
叫んだ瞬間、後ろから口を塞がれた。護衛だ。
「大声を出してはなりません! 敵に気付かれ――」
耳元で小声で叱られた。その頭が、矢に貫かれて吹き飛んだ。
「ヒッ!」
「ラウラ!」
着弾の衝撃で、小さなラウラも弾かれて尻餅をついた。慌てて顔を上げて、ラウラは言葉を失った。次々に飛来する矢には火が燃えており、ラウラたちを火で取り囲もうとしていたのだ。
二人の護衛が必死で矢を叩き落とす中を、クラーラが飛び込んでくる。
「ラウラ! 無事!?」
「クラーラ、姉様……」
腰が抜けたように立ち上がれないラウラを、クラーラが掴んで立ち上がらせる。そこからのラウラの記憶は曖昧だ。
クラーラが四技師組合にも入れるくらい優秀な火踊師であることはラウラも知っている。加えて砂綻師もいた。迫る火を避けて、岩の転がる斜面に階段状の足場を作って降りるくらいは出来ただろう。
だがその間に、何人も死んだ。
十人以上いたはずの大人たちは目の前で火矢に貫かれ、逃げた先で剣で貫かれ、魔法の氷の矢で貫かれた。完全に夜が明ける頃には、周りには子供たち三人しか残っていなかった。しかしそのクラーラも左足を矢で射貫かれ、イエルクも左腕か脇腹を負傷しているようだった。
どれも現実のようには思えなかった。毎年冬が明けると同時にやってくる劇団の演目のように、簡単に人が死んでいくから。
足が痛いのも、火で炙られて顔が熱いのも、クラーラに引かれている手首が引きちぎれそうなのも、何もかもが夢うつつだった。その中でただ一つ頭にあったのは、イエルクとクラーラのことでも、母や父のことでもない。
(……私が、声を上げたから……)
ともすれば息も出来なくなりそうなほどの罪悪感であった。
イエルクが足を負傷したクラーラを支え、クラーラが生気を喪ったラウラを引っ張る。
岩肌だらけの難所を抜け、シェフィリーダ軍がいる陣を避けてそのまま谷底に降りる道だ。一歩でも踏み外せば、谷を覆う鬱蒼とした藪の中に突っ込む。そこで踏みとどまれなければ、谷底まで真っ逆さまだ。
それを、恐らく狙っていたのだ。
遠く、弓の射程よりも遠くから魔法で狙撃された。
「クラーラ様!」
「姉様!」
真っ先に気付いたのはイエルクだったが、当たったのはクラーラだった。一つ下の岩まで転落した所から、顔だけを上げて叫ぶ。
「行って! 早く!」
「出来ません! 今助けに」
「ダメ! ダメよ!」
それはまるで悲鳴のようだった。助けに行けない距離ではない。けれど今出ていけば確実に狙い撃ちされる。
ラウラは怖くて、咄嗟に岩影に隠れたイエルクの背中に力の限りしがみついていた。震えが止まらない。早く姉が自力で上がってくればいいのにと、そんなことしか考えられなかった。
けれどそんな思考も、次の一言で砕け散った。
「まだラウラがいるでしょ!?」
「ッ!?」
突然名前を出され、すぐには何を意味するのか分からなかった。背中にしがみつくのをやめ、怯えながら姉を覗き見る。
「!」
白銀の髪は茶と赤に汚れ、額や肘からも血が流れていた。身体中擦り傷と火傷ばかりで、とてもではないが自力で追い付くことは出来そうにない。
「ですが、私がお守りしたいのは……!」
「あなたの使命は!」
イエルクが言おうとした言葉を遮って、クラーラが叫ぶ。だがそこに、二度目の攻撃がきた。火炎だ。辺りの岩を溶かすほどの火力はないが、岩肌に這っていた根が焼かれ、木々に燃え移り、瞬く間に火に囲まれる。ぐずぐすしていたら、逃げ場は完全になくなる。
「わたくしを守ることじゃない。ヒュベル王家を守ることよ」
火の壁の向こうから、クラーラの声がする。クラーラは火の精霊の恩寵を受けているから、こんな火、きっとすぐに消せる。
「イエルク。お願い」
けれど目の前の火は晴れない。ミシミシと、火炙りにされた木の幹が、怒りに打ち震える音が大きくなる。そして。
「いつか国を……わたくしの怨みを晴らして――!」
ドシン! と轟音を立てて、木が両者の間に倒れ込んだ。その衝撃で山肌が抉れ、岩が揺れ、足場が崩れだす。
「姉様! クラーラ姉様!」
消えない火の向こうでも土煙が上がり、悲鳴さえも聞こえなくなる。
「いや……こんな別れ方はいや……姉様!」
どんなに叫んでも返事はない。そのあとのことは、何も覚えていない。
◇
あの日のことは何もかもが朧気で、覚えているのは自分がいかに嫌なやつかということだけだった。
ラウラはあの日に、自分が少女であることを捨てた。イエルクへの恋心も、何度も何度も切り刻んで殺した。
イエルクが姉を思って泣き、憎み、嘆き、呪い、一日を寝台の中で終えても、何日も四技師の技を磨くために自分を苛め抜いても、ただ側にいた。
だからもう、平気だと思った。
神殿前広場で姉に似た面差しの女に出会ったときこそ動揺したけれど、きっと大丈夫だと思った。
だというのに。
イエルクのその顔を見た瞬間に浮かんだ感情は、絶望に似ていた。
「……クラーラ様? なぜ、こんな所に……?」
驚愕に全ての動きを止めていたイエルクが、見開いていた目をゆるゆると細めて観察するように女を見つめたあと、花が綻ぶように笑ったのだ。
(あぁ、気付いてしまった……)
こんな時なのに、ラウラの胸に渦巻いたのは憎悪や復讐心よりも圧倒的なまでの嫉妬と失望であった。
(私だって……私の方が、姉様に似てるのに……!)
姉にあんな仕打ちをした自分が、そんなことを考えるなんて許されないと分かっている。それでも、兄として慕うことしか出来ない男が、自分を見ないことがこんなに辛いなんて。
(私はずっと、ずっと側にいるのに!)
けれど赤茶髪の男を仕留めてラウラを振り向いたはずの瞳は、ラウラを見はしない。ファニの氷が全て溶かされる前にエヴィエニスを殺さなければならないのに、そちらも眼中にない。
背中や左肩に受けた傷のせいだけでなく、ふらふらと無防備に足を踏み出す。
「まさか、もう奇跡が起きたのか……?」
「兄様! この人は違うわ、姉様じゃない!」
ラウラはイエルクに飛びついた。肩は痛んだが、それよりも胸が、痛くて苦しかった。
(その女を見ないで)
「髪も目の色も、年だって全然違う! それよりも聖泉の乙女を!」
そう叫んだ耳に炎の轟音が聞こえて、ラウラは振り向きざまに風の壁を作り上げた。眉を焦がすほどの距離で、風に巻かれた炎が天井を舐めて消える。その向こうに、睨み殺せそうなほど凶悪な目をした男がいた。
聖泉の乙女が氷の縛めから逃れ、血だらけで床に倒れている男の下に駆け寄ったのを横目で確認してから、再びその手に炎の気配を集めだす。
「俺は寛大だからな。殺しはしないさ」
「悪魔の子供……!」
炎の中で父に迫り、母と弟を追い詰めた金髪碧眼の悪魔。その悪魔が、今は最後に残ったイエルクまでも殺そうとしている。錆び付いていたはずの憎悪と復讐心が、一瞬にしてラウラの心を占領した。
「私は殺すわ。家族の……国の仇」
イエルクの心は完全にセシリィを抱く女に奪われている。今までのような期待は出来ない。それでも、風の精霊に呼びかけていた。十九年も苦しめられてきた元凶を、殺すために。
(風の精霊ネヌファ。今だけ、人に向けることをお赦しください)
「俺も、ファニの分の痛苦は味わってもらうぞ」
悪魔の子供が、悪魔に相応しく嗤う。静かな一拍。直後、室内に風と炎の嵐が巻き起こった。
風が室内のあらゆるものを巻き上げ、切り裂き、そのうねりをかいくぐって炎が大蛇のように波うってラウラたちに迫る。聖女の悲鳴が上がり、カーテンに火が燃え移り、窓硝子がけたたましい音を立てて割れた。
(押し負ける……!)
肩の傷のせいで、余計に均衡が崩れて上手くいかない。それにイエルクは、こんな状況になってもあの女に近付こうとしている。悪魔のことなど目もくれない。
そこに、矢を象った炎の塊が飛んできた。
「イエルク兄様!」
「ッ!?」
床を舐める炎から逃れながら進んでいたイエルクがついにハッと振り向く。炎が迫る。その手に水の気配が集まるが、遅い。
ラウラもまた風を呼ぶが、やはり間に合わない。
「逃げて! 空間魔法で!」
聖女を手に入れたあと、聖泉エレスフィまで移動するための術式も用意してあった。それを用いれば、イエルクだけでも逃れられる。
だがイエルクは術式を取り出すどころか、更に一歩足を踏み出した。その横面に炎が届く――その間に、何かが滑り込んだ。
「っ小夜さん!?」
聖女が叫ぶ。その通り、炎の前に出てイエルクに飛びついたのは、姉に似たあの黒髪の女だ。
足止めにしては位置取りがおかしい。あれでは女の方が先に火を受ける、と考えられたのは後からだった。
爆発が起きた。




