赤い、悪魔
過去編になります。
少々暗いですが、お付き合い頂けますと幸いです。
クラーラは一つ年下で、美しいというよりも、素朴で可愛らしい少女であった。艶やかな白銀の髪に、力強い茜色の瞳。公務の時に見る横顔にこそ楚々とした気品があったが、一度そこから離れれば、小さなことによく笑い、よくむくれる方だった。
「イエルク!」
見かける度に、クラーラははち切れるような笑顔で名を呼んでくれた。
「今日はもう修練終わった? 遊べる?」
「いえ、これから四技師に師事します」
「じゃあ、わたくしも一緒に行くわ」
「……私は水遊師ですが」
「ぽんこつのね。わたくしは火踊師よ」
「優秀な、ね」
にこにこと、クラーラはいつも真っ直ぐだった。その瞳を真正面から見返すことができなくなったのは、いつ頃からだったろうか。
イエルクは王家の傍流で、祖父が公爵であったために、年の近い少女の遊び相手として選ばれた。三年後に生まれた妹姫ラウラもまた、イエルクはよくあやした。姉に比べて引っ込み思案で、いつも姉の後ろをついて回っているような子で、クラーラと二人、いつも目を離せないと笑い合った。
クラーラの護衛になろうと決めたのは自然な、けれど確かな自分の意志であった。
「今度、コヴェントーの森が見える国境のお城で、隣国の王子様をおもてなしするんですって!」
十六歳のある春の日、クラーラはそう言って駆け寄ってきた。
ここ数年で、愛らしさの中に目を離せなくなる美しさが現れ始め、イエルクの戸惑いは益々強くなった。彼女の姿を見付けるのはいつもイエルクが先で、彼女が自分に気付く瞬間を見るのが何より好きだった。
だから、顔も知らない隣国の王子に、馬鹿みたいな嫉妬もした。
「現国王のお兄君です。クラーラ様が考えるような同年代の方ではないですよ?」
「し、知っているわよ! わたくしが言いたかったのは、第一王女として初めて国賓とお会いする公務っていうことで」
クラーラに婚約者はいない。少し前にはそういう話も上がっていたが、三年前に男児が誕生したことで、焦らなくても良いのではという話になったという。
だがそれでも、隣国に嫁ぐ可能性はまだあった。
十年前、聖泉エレスフィ付近の国境線でシェフィリーダ王国の警備隊と小競り合いが発生し、軍が出動するまでの事態になった。元々ヒュベル王国の領地であったその地域一体を、非武装の中立地帯とすることで和平したのだ。これを維持することは国家の命題であった。
元々、ヒュベル王国の方が圧倒的に国力は低い。山からの資源の他は山越えをする者や、山脈以北の工芸品や産出品の貿易でどうにか維持しているようなものだ。
平和条約の十周年を記念して会合を開きたいという申し出がシェフィリーダ王国から入れば、拒否する理由はなかった。加えて、噂では王子の誰かも出席するかもしれないという。確か末の王子は、クラーラと年頃も近かったはずだ。
けれどそんな話題は振りたくなくて、イエルクは違うことを口にする。
「ですがあの場所はここ最近、盗賊が頻出してるとか」
「だからこそ、中立でもちゃんと監視の目が行き届いてるってことを示す意味があるって、お父様はおっしゃってらしたわ」
心配するイエルクに人指し指を振って見せながら、クラーラが笑う。
彼女は、平和を望んでいる。十年前の争いの時には、二人で城の部屋に籠っていた。二人のところまで戦争の気配など届いては来なかったが、城内でも質素倹約が叫ばれ、食事も二、三品にまで減った。大人たちの張り詰めた様子からも、とても怖いことが起きているのだと、何となく感じていた。
クラーラが王位継承者としての自覚を持ち始めたのはこの頃からだった。平和のためなら、彼女は隣国にも笑顔で嫁ぐだろう。
「……クラーラ様ならば、きっと見事にやり遂せますよ」
弁明する少女を微笑ましく見つめながら、イエルクは頷く。
イエルクは騎士団の近衛隊に配属はされたもののまだまだ新人で、その日も恐らく王城で妹姫や弟王子の護衛となるだろう。そしてその公務を終えて帰ってくる時には、クラーラはまた一回り王族として、女性として成長してしまう。
今こうして親しく、時にあどけなく接することは、更に難しくなる。
(諦めなければならない。早く……早く)
それは願いであり、焦燥であった。この笑顔も会話も、たかだか護衛には過ぎた親しみだ。
◇
だがそんな個人的なことは、ボロボロになって戻ってきた馬車を見たときに全て吹き飛んだ。
ラウラの護衛のために城に泊まり込んでいたイエルクは、夜明け前に響いた不穏な騒音に目を覚ました。
真っ先にラウラの元に駆け付けて窓から確認すると、王城の前庭に幾つかの馬車が駆け込んでくるところであった。馬車はまともに隊列も組んでおらず、屋根が半分欠けたものや、矢が刺さったままのもの、後ろ全面が焼け焦げているものまである。
「な、何が……」
予定では明後日まで、聖泉エレスフィを取り囲むコヴェントーの森の外れの城で、シェフィリーダからの国賓をもてなしていたはずなのに。
「イエルク! ラウラ!」
泣きながら飛び込んできたクラーラを制止する余裕はなかった。抱き締めてその顔を見れば涙でぐしゃぐしゃで、頬にも擦り傷が見られ、白い髪の先は一部焦げたように縮れている。
何を聞けばいいのか分からなかった。聞きたいことばかりだったからだ。
何があったんだ。城で襲われたのか? それとも帰り? 盗賊か? シェフィリーダの使者は無事なのか?
だがこんなにも震えて泣きじゃくるクラーラを更に追い込みたくはなかった。だから、最も気になることで、明確な答えがあるだろうことを聞いた。
「クラーラ様。お怪我は?」
「……わたくしは、平気。でも……」
勝手に溢れる嗚咽をどうにか飲み込んで、クラーラが首を横に振る。走ってきたのだからある程度は大丈夫だろうとは思っていたが、使節団の中には重傷者もいるかもしれない。
そしてもう一つ。
「両陛下は、どちらに?」
「お母様はフィオンのもとへ、お父様は……途中の砦に留まって、退けると」
「退ける? 賊を、ですか?」
問い返しながらも、頭の中では最悪の状況が浮かび始めていた。盗賊なら、国王が残る必要はない。逃げ込む先も、中立地帯を離れてすぐなら、国境を守備する最も堅牢な砦のひとつだろう。
果たして、クラーラは夜目にも分かるほど青褪めて、言った。
「シェフィリーダの軍隊を」
◇
国王の推理はこうだった。
シェフィリーダ王国は、最初からこの場で使者を皆殺しにするつもりだったのだろう、と。そしてそれを盗賊の仕業に見せ掛ける。治安維持の問題を理由に領土の中立、非武装の解消を提案、聖泉を含むコヴェントーの森ごと領有権を主張して併合するつもりなのだろう、と。
もしかしたらここ数ヵ月頻発していた盗賊についても、シェフィリーダの工作かもしれないとも言ったという。
「それは……本当に?」
この目で見ていないイエルクには、俄には信じがたいことであった。だがクラーラは、これに首を振らなかった。笑おうとして、けれど恐怖ばかりが思い出されて笑みが凍るような、そんな表情だった。
「王兄のハルパロス様が、晩餐の最中に、兵を呼び寄せられたの。芸を披露していた四技師を……こ、」
殺せ、と命じたのか、打ち合わせ通り殺したのか。そんなことは重要ではなかった。
言葉に詰まったクラーラの肩を抱き、必死で宥める。やっと半覚醒から目を覚ましたラウラも、事態も分からないだろうに震えてイエルクの背中にしがみついていた。
その先は、寝起きで愚図る三歳の弟王子フィオンを抱いて現れた王妃が説明してくれた。
「敵の軍勢はそれほど大規模ではありませんでした。シェフィリーダの中でも、反戦派はいるでしょうが……渡りをつけるのは難しいでしょうね」
そもそも、両国は対等ではない。シェフィリーダが実力行使に出れば、後ろ楯もないヒュベルに立ち向かう術はない。
「シェフィリーダ王は、今回のことには……」
「それは分かりませんが……少なくとも神殿は、戦を望んでいるようです」
クラーラについてきた近衛が藁にも縋るような声で口にした名に、王妃は力なく首を振った。神殿は、ということは、同席した司祭もまた全てを承知していたということなのだろう。シェフィリーダ王国内の精霊派の神殿が強く聖泉を求めていることは既知だ。仲裁を求めることはほぼ不可能らしい。
「では、徹底抗戦ということでしょうか」
王妃付きの近衛が、重い口を開いてそう聞いた。誰もが、否という答えを望んでいた。
王妃は硬い顔をして黙り込むだけだった。
◇
前線は、三月ともたずに王城アルテリアまで後退した。
アルテリア城は山城で、北の城門以外は急峻な悪路だ。西は崖になっている。加えて、城にはお抱えの四技師もいる。城を囲む二重の濠を越える橋は、砂綻師によって落とした。籠城に向いていた。
その間に幾度か停戦や和解のための使者も送ったが、半分も帰っては来なかった。
断続的な膠着状態を経て一月も過ぎた頃、国内の支城や領地から後詰めの増援があったが、シェフィリーダとの戦力差は圧倒的であった。増援が全滅する頃には、敵が攻めあぐねている間に城から逃げ出すことで話は纏まった。
だが、それは実現しなかった。
悪魔が現れたからだ。
◇
迅雷風烈の勢いでアルテリア城を駆け上がってきた悪魔は、炎と共に現れた。
正確には、突如敵陣に加わった男が指揮権を無視して突入し、残った軍勢も火を放ちながら後に続いたのだ。城の本館はどんどん火に巻かれ、人々は周囲の塔や城壁の上に逃げた。複数ある隠し通路へはそれぞれ砂綻師がつき、扉を閉めた上で通路を崩し、砂に埋めた。
イエルクはクラーラとラウラに付き、山中に出る隠し通路を選んだ。錬士以上の熟達した砂綻師が居れば、ある程度なら道を作り替えることくらいはできる。出口を押さえられていても、対処は出来る。
同じようにして、王妃も弟王子のフィオンとともに別の通路へ向かったはずだ。
そして国王は。
「逃げなさい。国など取り戻そうと考えるな。我らは元々山の民だ。どこででも生きていける」
そう言って、城に残った。生き残った僅かな兵とともに、彼ら全員が逃げる時間を稼ぐために。
「陛下もともに!」
「儂が残らなければ、奴らは終われない。……もっと早く、こうするべきであった」
王妃の制止を、国王は不退転の決意で拒絶した。そこに、無数の軍靴が響いた。
先頭にいたのが、金髪碧眼を炎の赤に染めた男であった。血塗れの剣を提げ、血塗れの盾を掲げ、血塗れの靴を履いていた。
(赤い、悪魔)
隠し通路へと向かいながら、イエルクは遠目に見えたその姿を瞼に焼き付けた。幾つも違わない男が、父のように慕う国王に囁く声とともに。
「お前たちが、悪魔であれば良かった。……今、俺の方が悪魔に見えるのだろうな」
「儂の首はやろう。他の者たちは見逃してくれ。抗う力などないのは見てわかるだろう」
「……俺は、二度とこんなことはしたくない」
「儂もだ、若者よ」
「だったら何故……!」
二人の男の声だけが聞こえる。現実には、炎が壁や床の絨毯を灼く音や、陶器が熱に割れる音や、壁を壊す音や剣戟の音や怒号や悲鳴が一つの轟音となって渦巻いていたが、イエルクの耳には彼らの会話だけが聞こえていた。
「二度と起こらないように、皆殺しにするというのか」
「……戦を始めたことを悔いろ」
その先の会話は、砂綻師が通路を土砂で塞いだことで聞こえなくなった。




