今、一番大事なことは
ずっと、呼び掛け続けていた。
首に当たる指も、そこから漂う微かな風も、部屋を削り取る轟音も、どうでも良かった。
ただ腕の中でぐったりと首を垂れ、発熱したような体と血の気が抜けていく顔色のセシリィに、必死で呼び掛けていた。
『……小夜……逃げて……』
最後にそう言ったきり、目を開けないから。
違うのとも、体が勝手にとも言わなかった。弁明よりも先に、小夜を案じたから。
そんな中で「一週間」という男の声が聞こえて、小夜の不安は怒りに変わった。ふつり、ふつりと。
「それ、本当に意味のあることですか?」
小夜は、もう一度低く呟いた。
「セシリィを、拷問したってことですよね? 一週間も、本人の記憶があやふやになるくらい」
考えれば考えるほど、怖気が立って、腹が立った。
負けまいとして歯を食い縛り、弱気を見せまいとして気丈に笑うセシリィの姿が次々に浮かんで。頬にうっすらと残った赤みの意味を理解して。ファニに触れようとして、必死に堪えて苦しんでいた理由を知って。
「あの程度、とても拷問とは」
「それに」
ファニを捕らえた男が、エヴィエニスから目を離さぬまま嘲笑する。それを遮って、頭の中に次々と湧く疑問を吐き出す。問いの体裁を取っていたが、答えなど求めてはいなかった。
「王族を殺すって……今の国王の子供が何歳か、知らないの?」
「黙れ」
背後で、女が指に力を入れて脅した。腹が立つだけで、先程までの恐怖は麻痺し始めていた。少しだけ首を捻って、女を視界に入れる。
柘榴色の瞳に、濃灰色のショートカット、左耳から流れる一房だけが長い。聞き覚えのある声の通り、そこにいたのは広場で見た風舞師であった。
「……あ、あなた……!」
小夜の横顔を初めて視認したのか、女の顔がみるみる驚きに変わる。まさか客の一人を覚えていたのかと、普段の小夜なら思ったろうが、些事であった。
「子供ですよ、みんな。まだ十代の、若くて、幼い、未来ある子供です。セシリィと同じように」
恋に悩み、将来に悩み、自分に悩む、青いほどの子供たち。守り導く彼らを苦しめ、あまつさえ殺すなど、決して許されることではない。しかもそれを、倍以上年嵩の大人がするという。
しかも、噂で聞いただけの確証もない奇跡のために。
「頭おかしいんじゃないですか?」
笑ってしまう。死んでも続きがあると思っている無知蒙昧な子供のようで。
「過去に戻れると思ってたってこと? そんなことが出来るなら、ファニが真っ先に戻るに決まってるじゃない」
「……小夜、さん?」
「お前……」
突然喋り出した小夜を心配げに見詰めていたファニが恐れるように名を呼び、エヴィエニスが不快そうに呟く。別に、ファニがエヴィエニスよりも家族を取るとかそういう意味ではなかったが、今はそんなことを言い訳する余裕もなかった。
怒りで。
「何人も子供攫って、傷付けて、それで奇跡が起きなかったらどうするの? ごめんねって言って生き返らせるとか? そんなことできるわけないって、その年になってもまだ分からないの?」
「……何ですか、あなた」
「十九年前の? 悪魔が何? それを十九歳以下の子供たちに言うの? 馬っっっ鹿じゃない?」
渾身の「馬鹿」に、ついに男がエヴィエニスを捉えたまま、こちらを振り向く気配がした。
ギッと男を睨み上げる。セシリィを抱えていなければ、殴りかかっていただろう。
「今、一番大事なことは、セシリィが、目を覚まさないってことよ!」
一言一言、噛み締めるように区切って告げる。
そう、今最も優先させなければならないことは、男の愚かな願いでも、奇跡でも、不可解なことの追及でも、小夜の怒りでもない。この中で唯一目を覚まさないセシリィの安否だけだ。
それを誰も言い出さないことが、小夜には信じられなかった。
だって、女が言ったではないか。『術に抗ったせいで、死にそう』だと。
だがその訴えは誰にも届かなかった。
「ッぁ!?」
「小夜さん!」
小夜の顔にも水の膜が張り付いたからだ。突然酸素を奪われ、代わりに侵入した液体に気管が痙攣する。ファニの悲鳴も水のせいで遠い。視界がぐにゃりと歪む。
「ダメ、イエルク兄様!」
女が何故か制止の声を上げた。その一瞬の隙に、目に見えるほど白い大きな風の刃が女に襲いかかった。
「この!」
女がすぐさま腕を振って払う。凝縮された風が白煙を上げて霧散する、その陰からレヴァンが飛び出した。右手に携えた剣が女の首を狙う。
「甘い!」
女が咄嗟に短剣を縦に構える。その剣の腹ごと、レヴァンは押し切った。ガッ! と鈍い金属音が上がり、女の痩躯が椅子の後ろに吹き飛んだ。
その隣。
レヴァンが自分の放った風刃を隠れ蓑に駆け出したのと同時に、エヴィエニスもまた動いていた。息を止め、最小限の動きでファニの首にぴたりとついていた短剣の鍔を上へと跳ね上げる。ピッとファニの肌が僅かに切れるが、構わず更に腕を捻じ込んだ。
左手の指先がファニの項に触れ、右手の剣が男の喉仏を捉える。
「ッ」
直前、エヴィエニスの顔を取り巻いていた水が渦を巻いて締め上げた。想定内と構わず踏み込む。だがファニを引き寄せるはずの左手が、がくんと何かに引っかかった。
「!?」
「ッエヴィ、逃げて!」
ファニがエヴィエニスの胸を力任せに押し返す。だが少しも力が入っていない。ファニの足元が、一瞬の間に床と共に氷漬けにされていたからだ。その早業に驚いている間にも氷はメキメキと音を立てて伸びあがり、膝、腰、胸とその氷塊に閉じ込めていく。
「やめろ!」
怒号とともに再びファニに手を伸ばし、同時に火の神に神言の枕詞を捧げる。だが詠み切る前に男が短剣を振りかぶった。
「殺されたくなければお前が死ね!」
それまでの丁寧な口調を壊して男が飛びかかる、その痩躯が点々と赤い血を散らして横に吹き飛んだ。
「ッが!」
床に鮮血の筋を引きながら男が転がる。女を吹き飛ばしてすぐ駆け付けたレヴァンの仕業であった。剣を構え、更に男に距離を詰める。
「殿下、今のうちに」
その背後で、バシャンッと水音が上がる。三人がハッと振り向く中で、激しく咳き込む音が続く。
「っ、げほっ、ゴホッ!」
小夜だ。膝の上のセシリィを避けて、身を半分に折っている。男が倒れたことで、小夜の顔からも水が剥がれたのだ。
だがレヴァンもエヴィエニスもそんなものに構う余裕はなかった。エヴィエニスは神言の続きを唱えて氷を溶かす句を完成させ、レヴァンは止めを刺すべく駆けだす。だがその足は、男の一歩手前で立ち止まった。
「よくも……イエルク兄様を……!」
女の途切れ途切れの声に、レヴァンがぎこちなく振り返る。止めを刺す寸前、エヴィエニスを助けるために離脱したせいで、女は数秒気絶しただけだった。
今、女は椅子の背に手をかけて這い上がりながら、その右手をレヴァンに翳していた。レヴァンの背中を深く抉った風の残滓に、その濃灰色の髪を揺らしながら。
「……くそ、あとちょっと、だったのに……」
毒づく間にも足の踏ん張りが効かなくなり、レヴァンはその場に頽れた。
「レヴァンッ!」
悲鳴を上げたファニだが、その体も所々赤く腫れ、凍傷になりかけていた。ドレスも肌も溶けた氷でびしょ濡れで、どんどん体温を奪われている。
「エヴィ、逃げて! 私はいいから、早く!」
「そんなこと出来るか!」
一人で逃げることも、二人を殺すことも恐らくできる。だがその間にファニの足は腐ることになるかもしれない。今は氷を溶かしきることが先決だった。
だが、ファニは寒さのせいだけでなく、愕然と蒼褪めた。
「いや……ダメよ。そんなの嫌! 私は」
「駄目だ!」
「……良い判断です」
二人の押し問答に、癇に障る声が入り込む。床の血溜まりから起き上がった男だ。ふらふらしながらもその場に立ち上がり、エヴィエニスとファニを睨む。それから、同じく肩の傷口を押さえて立ち上がった女を一瞥した。
「ラウラ様、ご無事です、か……」
その声と視線が、ある一点で静止した。
十数秒の酸欠で顔を赤くし、いまだ噎せ続けている小夜の、その顔に。
「…………クラーラ、様……?」
お小夜さん、キレた。




