恋する女の子
「あの……さっきのって、本当ですか?」
改めて三人が椅子に座り直して、銘々が気を取り直してから。
ファニがセシリィを見詰めながら、言いにくそうにそう切り出した。
「さっきのとは?」
「その……恋が、冷めたって」
平静を装いながらも、ラピスラズリの瞳は何度も瞬きに隠された。それを静かに眺めながら、セシリィはティーカップに手を伸ばす。
「……小夜を傷付けられると思った時、自分でも驚くほど迷いなく立てたわ」
少しも減っていないお茶に目を落としながら、セシリィがその時の感情をなぞるように呟く。長い睫毛の下の瞳がそっと隣の小夜を見、水面を見、ファニを見る。
「ずっと、エヴィエニス様のことは吹っ切れないのかもしれないと思っていたのに……自分でも、不思議な気分よ」
「セシリィ……」
その寂しげなような、少しだけ晴れがましいような口元に、小夜は何と声をかければいいか分からなかった。こうなったのは全て、小夜のせいだからだ。
「……ごめんね」
情けなくも謝る。セシリィが苦しむのは見たくないとは思っても、こんな風に強引に掻き乱して、辛い決断を急かすつもりはなかった。
だが返されたのは、叱責でも糾弾でも罵倒でもなく、鋭い問いであった。
「なぜ謝るの」
「だって、セシリィはまだずっと」
エヴィエニスのことが好きだったでしょ、と続ける前に、凛と名を呼ばれた。
「小夜。わたくしは、誰の言葉にも揺らいだりしないわ」
「……あんなに挑発するようなこと言ったくせに?」
「……聞こえないわね」
ぷいと、セシリィが視線を外してお茶を啜る。セシリィは、やっぱり優しい。優しくて強くて、弱い自分を知ってもなお、強く在ろうとする。
「セシリィ、可愛い」
「なぜそうなるのよ!?」
トリコの時のような感覚で呟いてしまった。セシリィが顔を赤くして怒る。
だが小夜は、どうにかいつもの調子が戻ってきたような気がして、内心でそっと安堵していた。
だが、それは二人のことだけの話であった。
「……羨ましいです」
ぽそりと、テーブルの向こうからそんな声が聞こえた。小夜は驚いて、セシリィはどこか憐れむように、声の主を見る。
「とことん鼻につく女ね」
それは字面だけを見れば典型的な高慢女そのものであったが、そこに今までのような嫌悪はなかった。それを受けるファニもまた、下手な悪女の顔を作ってふっと笑う。
「往生際が悪いもので」
その答えで、小夜はやっと「羨ましい」の意味を理解した。
(諦められて、羨ましい、か)
エヴィエニスもファニも、相手への恋心にとっとと見切りをつけることが互いにも周囲にも最善手であることを、十分に理解しているのだ。それでも、それが簡単にいかないから、二人はこの邸宅にいて、刻一刻と削られる時間に戦慄ている。
(恋する女の子は可愛いって)
ルキアノスへの気持ちを自覚する前なら、もう少し簡単に言えたのに。恋する女の子は、苦しくて惨めで可哀想だ。
それでも。
「ファニも、可愛いね」
睨み合うというには覇気のない二人を見ながら、そう呟いていた。ファニがハッと目を見開き、セシリィは呆れたように半眼になる。
「小夜さんは、相変わらずですね」
「この浮気者」
二人からそれぞれに言われ、小夜はとりあえず「申し訳ない……」と謝っておいた。
◆
「殿下。……エヴィエニス」
冬でも濃い緑の葉を残す常緑樹の根方に佇む主へ、レヴァンは逡巡の末に声をかけた。話しかけるなという無言の圧は感じたが、今更だ。
エヴィエニスはファニの正体が発覚して以降、陰鬱と塞ぎ込むことが多くなった。元来生真面目な性質で、思い悩むと視野が狭くなる上に、問題はセシリィを捨ててまでとった女のことだ。
容易に諦められるような話では、そもそもないのだ。
(僕には分かんないけど)
レヴァンは二歳の頃に王弟イリニスティスの元に連れてこられてからずっとここで暮らしているが、イリニスティスよりも大事なものに、まだ出会っていない。
『僕のやんちゃなレヴァン』
それは、宮廷からも屋敷の誰からも、事情を知る者全てに疎まれているレヴァンへの、ここにいてもいいよ、という意味を込めた秘密の暗号だった。
何度も、何度でも、独り声を圧し殺して泣くレヴァンを肯定してくれた。だからレヴァンは、イリニスティスのためにエヴィエニスに仕えるし、ファニのことも排除しない。
単純でない憎しみが、ないといえば嘘になるけれど。
『僕の親愛なるファニ』
あれもまた、かつては姉のように慕った従姉妹を受け入れるための言葉だと、レヴァンは知っている。
『髪、お揃いだね。こんなに色が濃いのは僕だけだったから、嬉しいよ』
『瞳に星があるなんて、君には神々の守護があるんだね』
カティア姉様、と呼んだのは、ファニがこの屋敷に移った最初の一度きりであった。そのあとは優しく柔らかく、そんな風に言葉をかけた。天上の星々は、死んだ英傑が神々に召し上がられた証の輝きだ。それが瞳にあるのだから、その姿は呪いなんかじゃない、と。
それはもしかしたら、まだ複雑な自分自身へ言い聞かせる言葉なのかもしれないと、大きくなった今は思うけれど。
「俺は……」
と、エヴィエニスが誰にともなく言った。物思いに沈んでいたレヴァンは、その声に刹那に思考を切り換える。
「ファニを信じていた。ずっと、お前たちが裏でこそこそと動き回っていても、彼女が何を隠していても」
「……えぇ、そうですね」
虚しい言葉だと、お互いに理解しながら交わす会話は夕べの風よりも寒々しい。エフティーアであればもっと親身に答えたろうが、レヴァンはこういったことは苦手だった。
だがエヴィエニスは、共感がほしいわけではないのだろう。冬の風に揺れる枝葉を睨みながら、吐き捨てた。
「小夜とかいう女がいなければ……セシリィが喚ばなければ、ずっと信じていられたのに」
「殿下の首を切り落とす、その瞬間まで?」
「…………」
「殿下はそれで良くても、周りは困ると思うんですけどねぇ」
突き放したような言葉に、反論はなかった。エヴィエニスだとて、そうなった後のことが想像できない馬鹿ではない。とりあえず、修羅場が二、三度は発生するだろう。
これは、ただの八つ当たりだ。だがその矛先が自分達に向いてもいいことはないので、間違いは指摘しないでおく。
(小夜には悪いけどねぇ)
「……俺は、愚かか?」
ぼそりと、葉音にさえ負けそうな声でエヴィエニスが問う。そこには、その通りだと断罪を求めるような響きも感じたが、レヴァンには是とも否とも言えなかった。
レヴァンは、本気の恋をしたことがない。するべきだとは分かっている。イリニスティスから距離を取るためにも。
けれどレヴァンにとって、女性と言えば母であった。夫を亡くし、子供を奪われ、どこかに消えた母。記憶など一つもない。
けれどイリニスティスは母を愛せと言った。怨んではならない、とも。だからレヴァンは女性を手当たり次第に口説く。それが母への愛を知るためなのか、いつか見付けた真実の愛を粉々に打ち砕くためなのかは、分からないけれど。
「……さぁ。僕には分からないですけど」
無言のままというのも据わりが悪いので、レヴァンは代わりにどこかの古典にあった一文を引用する。
「男が誓うと、女は裏切るものらしいですよ」
「……世の習い、か」
フッと、エヴィエニスが自嘲を漏らす。結局、セシリィが作ってくれた言い訳を使うことはなかった。




