驚くほど氷点下まで
「……は」
「駄目だ」
い、とファニが言い切るのを許さぬようにそう拒絶したのは、無論というかエヴィエニスであった。
三人の女の目が、それぞれの意味合いを持って直立する男を見上げる。
「エヴィエニス様。これは真実を知るために必要なことなのです」
「ならば俺が先に内容を聞く。ファニに聞かせるかどうかはその後だ」
セシリィの反論は淑女の体裁を完璧に保っていたが、対するエヴィエニスはすっかりスレているという他なかった。聞きようによっては、敵対分子に対する単なる情報操作とも取れるが。
(過保護か)
小夜の中ではただのこじらせ男子であった。ファニが明らかにどちらの意見を支持すればいいか迷っているところからも、今の二人の関係がなんとなく推察できるというものだ。
セシリィは、これみよがしの嘆息こそしなかったが、笑みを保つその声には少なくない呆れが滲んでいた。
「そう言って、わたくしの意見がファニに届いたことはいまだかつてないように思われます。わたくしは、ファニを傷付けたいわけではありませんわ」
「そんな言葉など信じられるか。お前は」
「エヴィエニス様」
ギッと目元を険しくしたエヴィエニスを、呑気な声が呼び止めた。小夜である。
「アップルパイはいかがですか? 味が染みてて美味しいですよ」
「お前は……」
一切れのアップルパイが載った取り皿を持ち上げる小夜に、エヴィエニスが敵意丸出しの顔で睨む。会話を邪魔されたのだから、苛立ちもひとしおであろう。
隣のセシリィも、何を言い出すのかという顔をしている。
しかし小夜は気にせず皿を置くと、立ち上がって一礼した。
「この姿ではお初にお目にかかります。小夜・畑中と申します」
「……お前が」
俺の傷口を抉って塩を塗り込んだ奴か、と言われた気がした。勿論被害妄想ではあるが、あながち的外れでもあるまい。
「その節は大変なご無礼を申し訳ありませんでした」
ひとまず謝っておく。特にこのあとの発言を考えれば、敵意を持ってないことを示しておくのは重要だ。
「……俺は、感謝はしていないぞ」
「? ほぼ諸悪の根源ですのでね。それで結構ですけど」
微妙に噛み合ってない返しに、小夜ははてと首を傾げた。
最大の元凶は勿論次兄クレオンのあることないこと吹き込んだ愉快的犯行のせいだが、あの晩餐会での会話運びを失敗したのは大方小夜である。異存はない。
「それよりも」
と、小夜はそそくさと本題に移った。
「エヴィエニス様。セシリィはまだ、何も言っていません」
「……なんだと?」
「小夜。いいのよ」
小夜の言いたいことを察したセシリィが、淑女の笑みを止めて下から囁く。それは少しトリコの時の掛け合いを思い出させて、尚更言わなければと思わせた。
「確かにセシリィは、一時期ファニに辛く当たったかもしれません。でもそれは過去のことです。これからのことではありません」
「同じだ」
言下に切り捨てたエヴィエニスに、視界の隅でセシリィが痛みを堪えるように笑みを消す。その二人のあまりの隔たりに、小夜は酷く寂しくなった。
エヴィエニスのそんな言葉をセシリィに聞かせてしまったこともそうだが、初めて会った時、エヴィエニスはセシリィの立場を慮り、感情的な思考と葛藤しながらも真摯に対応してくれた。
それが今は、余裕のなさなのかどうか、暗く翳ってしまっている。
溜め息一つ、小夜は言った。
「待ってくれると、仰いました」
「なに?」
「セシリィが『私が私でない方がよろしいですか』と聞いたとき、エヴィエニス様は即答をせず、猶予を下さったはずです」
「……そんなもの」
「その答えが、それですか?」
僅かな逡巡を挟んでの声に、勿体無いと思いながら被せる。
エヴィエニスが、たった一つの目的か、或いは概念のために、視野が狭まり短絡的になっていることは、この短い間でもすぐに分かった。この状態で性急に答えを求めるのが逆効果だいうことも。
それでも、エヴィエニスには思い出してほしかった。
「一度は好きになったあなたのために、あなたを支えるために、見当違いでも気位高くても努力を続けてきた女の子は、あなたにとっていない方が良かったですか?」
ファニの登場に迷走するセシリィを、それでも信じていたエヴィエニスを。大事なものに優先順位をつけても、決して切り捨てようとはしなかったエヴィエニスを。
「……論点をずらす気か」
「ずらすことなんて出来ませんよ。そう思うのは、あなたの視野が狭くなっているからです」
肩を竦める。気付いてほしいと願いながら。けれど往々にして、その思いは届かない。
「たかだか世界の外からきたというだけの異界人が、誰に向かって口を利いてるか分かっているのか」
ファニに愛を囁くときにはあんなにも甘やかに蕩ける主人公声が、苛立ちに低く掠れながらその手を小夜の額に向ける。その威圧に、さすがの小夜も瞠目し、青褪めた。
エヴィエニスは魔法も剣の腕も一級品だ。そしてこの世界の魔法は、呪文はあるが高々と読み上げる必要もない。つまりその気になれば、小夜が瞬きをする暇もないうちに、目の前の手が火でも氷でも吹いて小夜の息の根を止められるということだ。
そしてこの場に、エヴィエニスに敵対する者はいない。レヴァンは王太子の護衛だし、ファニもセシリィも、独り手放すべき恋心に折り合いをつけられないまま苦しんでいる。
(……やばい)
厄場い、という単語を、小夜は恐らく今初めて、古来よりの意味で用いた。つまり、身の危険。
異世界人に戸籍はない。政治的関与もない。加えて相手は王族。躊躇う理由も、手段を選ぶ必要さえ、ない。
そんなことを考えた時間はけれど、恐らくそんなに長くはなかった。
「――恋が」
涼やかに良く通る硬質な声が、すぐ横で聞こえた。いつの間にかエヴィエニスの掌だけを見詰めていた視界が、パッと晴れる。
すぐ横で、ドレスに包まれたすらっとしなやかな腕が、エヴィエニスへと向かって伸びていた。
セシリィが言う。
「今、冷めました。自分でも驚くほど氷点下まで」
濃茶色の豊かな髪を揺らし、碧眼を細め、魔法を向ける意思表示でもある利き手を迷いなく向けるその声は、驚くほど平板であった。そのどこにも、最前まで元婚約者の言葉に胸を痛めていた少女はいない。
ただ稟然と、混迷のただ中にいる男を見つめる。
「……どういうつもりだ」
「それはこちらの台詞ですわ。あなたが悩むのも苦しむのも、お好きになさって構いませんけれど、わたくしの大事なものに手を出そうというのなら黙っている謂れはありません」
「……自分を一番にしない男は、用済みだというわけだな、女は」
「……解釈はお任せします」
この世界で魔法を使える者が掌を向け合うというのは、剣を向け合うことに等しい。どちらの手にも魔法の燐光はないが、それが安心できる材料にはならないと、小夜は身をもって知っている。
だがそのこと以前に、二人は既に、言葉の刃で互いを斬り付けあっていた。
(私の、せいだ……)
小夜は、いつも間違える。追い詰めないように、そう配慮しても、言葉が先走る。
一触即発の緊迫に、小夜は何も出来なかった。その目の前で、二人の手の間に、黒髪の少女が立ち上がる。
「エヴィエニス。……エヴィ」
頭二つ分ほども上にあるエヴィエニスを見上げて、ファニが名前を呼ぶ。呼び直したことの意味を、小夜は分からないけれど。
「散々あなたを惑わせて、傷付けた私が言えることじゃないと分かっている。でも……お願い」
少し震えた、けれど透明感のある声が告げる。
「信じて」
「…………っ」
誰をとも、何をとも、なかった。けれどそれだけでエヴィエニスは手酷く傷付いたようにその整った顔を歪め、息を飲んだ。伸ばしていた手を強く握り締める。
それから、逃げるように踵を返した。
「殿下!」
小夜たちの後ろで構えていたレヴァンがすぐさま動く。だがファニだけを残して行けないのか、すぐに足が止まる。その背に、幾分和らいだセシリィの声がかかる。
「レヴァン。命令よ。出ていって」
レヴァンの垂れ気味の瞳が、一瞬険しく光り、それから小さく頷く。
「ありがと。今度お礼に」
「早く」
投げキッスをしようとしたレヴァンをしっしっと追い払う。セシリィがレヴァンを無理やり追い出したという形で、エヴィエニスに言い訳できるようにしたのだと、既に理解したらしい。
こんな時なのに何だかんだとブレない二人だな、と思う。ブレているのは主に、ゲームではメインヒーローのはずのエヴィエニスだけである。
「可哀想なことしちゃった……」
今更ながら滲む冷や汗を拭いながら、うじうじと後悔する。怒っている声は申し分なかったが、十八歳の青年を再び傷付けてしまった罪は大きい。
(どうやって謝ろう)
二度と会ってくれない気もするが。
「気にしなくていいわ。自分でも察することのできなかったファニの不安を、小夜がすぐに見抜いたから嫉妬してるのよ」
「そうなの?」
落ち込む小夜の横で、セシリィがあくまで優雅に椅子に座り直す。ファニもまた、明らかに力が抜けた顔で椅子に沈み込んでいた。小夜も脱力して腰を落とす。
「じゃあもっと強引にアップルパイ食べさせれば良かった」
「どういうこと? 気を逸らせるために言ったのではないの?」
「いや、イライラしてるなら糖分かなと」
「相変わらずねぇ」
紅茶も渡せば良かった、と悔やむ小夜に、セシリィは優しく苦笑した。




