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王弟イリニスティス

 ファニが起居する王弟イリニスティスの離宮は、学校からさほど離れていない。

 現在三十三歳のイリニスティスが足を怪我したのは、在学中のことであった。そのため寮から出て自宅から通学できるようにしたためで、その後も利便性から同じ邸宅に暮らしているのだという。


(王権乱用で通学時間ゼロ分とは)


 小学校の時、自宅が校門の目の前にあった男の子を思い出す。忘れ物など実質ないようなもので、羨ましいと思ったことを覚えている。実際にはこの学校では、敷地内に入ってからも校舎が遠いのだから所要はもっとかかるのだが。


「どうぞ、こちらへ」


 エレニが急な訪問の謝罪と理由を告げると、漫画から抜け出したような執事姿の初老の男性が招き入れてくれた。


(ほ、本物の執事!)


 声が声優さんの誰とも違ったため、小夜はこの時初めて外見ビジュアルに興奮した。今更ながら写真を撮りたくなるものがいっぱいあるなと、改めて周囲を見渡す。

 やっと足を踏み入れた離宮は、イリニスティスのために急造されたためにこじんまりとしていると言われたが、ド庶民である小夜からすれば十分に大きかった。クィントゥス侯爵家に比べれば確かに建物も庭の面積も劣るが、肩を寄せ合うような分譲住宅の小さな実家に住む小夜からすれば十二分に豪邸である。

 立派な玄関ホールを抜け、派手ではないながら品の良い応接室に通される。薄青と白のコントラストが綺麗な暖炉には火が入って温かく、足元には短い毛足ながらふわふわの絨毯が床全面に敷かれている。家具は濃い木目で、椅子も同色の革張りで統一されている。


(思えば私はファニに会いにきたつもりだけど、家主にご挨拶しないわけにはいかないのかも)


 何の気負いもなく王族に対面するのは、流石にハードルが高すぎる。既に王族ルキアノスには会っているという話はあるが、国王やその弟となると格が違い過ぎる。二人はゲームにも出てこないからイメージも湧かない。


(……しまった……冷や汗が止まらない……)


 瞬間的に、ニュースでしかお目にかからない各国の高貴な方々が脳裏を駆け巡る。あんな御方たちに、何も考えず歩いてきて、普段着で会う。自分の世界であったなら、まず有り得ない状況である。


(やばい、やばいぞ……心構えって、どうしたらいいの!?)


 ファニだけに会うつもりでいた小夜は、突然自分の立ち位置を客観的に理解して蒼褪めた。噂に聞くイリニスティスが傍若無人な御方で、失言一つで首が飛ぶなどと思っているわけではないが、いつもの奇声や一言余計を完全に封印できる自信はない。願わくば、小夜の知っている声優さんの声でないことを願うばかりである。


「……小夜、大丈夫? 何だか顔色が悪いわよ」


 二人掛けの椅子の隣に座ったセシリィが、挙動不審になり始めた小夜に耳元で囁く。ちなみに、エレニは椅子の後ろで立ったままだ。


「わ、私も立ってた方がいいかな!?」


「相変わらず急ね。なぜ?」


「だって、私、庶民……」


 などとあたふたし始めた時であった。


「やぁ、お待たせしてしまって済まない」


 かちゃり、と扉が開き、先程の老執事に車椅子を押されながら青年が入室してきた。セシリィよりも少しだけ明るい栗色の髪に、どこまでも柔らかな青灰色の瞳。目尻も口許も、見ているだけで穏やかな気持ちにさせられる雰囲気が滲んでいる。

 青年はセシリィの前に車椅子を止めてもらうと、改めてにこりと微笑んだ。


「セシリィ、無事戻ってきて本当に良かった。皆心配していたよ。体の調子はどうだい?」


「イリニスティス様。ご心配をおかけしてしまい、本当に申し訳ありませんでした。ご覧の通り、問題ありませんわ」


 セシリィは車椅子の足元に膝を付くと、ドレスの裾を形式的に摘まんで低頭した。その笑みは相変わらず完璧ではあったが、どこか柔らかい。その理由をなぜと思う時間は要らなかった。


「あぁ、僕の可愛いセシリィ。君が行方不明になったと聞いたときは心臓が止まるかと思ったよ。本当に無事で良かった」


 イリニスティスはそれまでの余裕のある大人の顔を崩して、がばりとセシリィの首に抱きついたのだ。その背を、セシリィが苦笑しながら優しく撫でる。


「まぁ、イリニスティス様。わたくしが悪漢などにどうにかされるとお思いでしたの? 少しも怖くありませんでしたわ」


 その様子があまりに普通に見えて、小夜は思わず後ろに立つエレニを振り返っていた。こちらは侍女としてか表情を抑えているようだが、驚いている様子はない。つまり珍しくはないらしい。


(どっちが年上かって感じなのね)


 容姿が整っている分、余計に幼く見える。だがその感想は、次の言葉に少しだけ裏切られた。


「そんなはずはない。怖かったはずだ。君はまだ、愛らしい少女なのだから」


 目尻を少しだけ赤くして、イリニスティスがセシリィの顔を真っ直ぐに見つめる。頬に触れた手には、小夜にでも分かる労りに溢れていた。


「……ありがとうございます。でも、もう平気ですわ」


 セシリィが、はにかみながらそう答える。何だか、貴重なものを見てしまった気がする。という小夜の視線に気付いたのかどうか、セシリィが少しだけ居住まいを正して視線を後ろに向けた。


「イリニスティス様。紹介しますわ。世界の外側からやってきた小夜です」


「! さ、小夜・畑中です。突然の訪問をお許しください」


 突然名前を呼ばれ、小夜は慌てて椅子から立ち上がった。新人配属時並みに頭を下げてから、ハッと気付いて膝をつく。貴人よりも目線が高いなど、あってはならない。

 小夜は日本人のくせにこの時初めて、正座で頭を下げるという座礼を行った。絨毯が柔らかいため、膝は全く痛くない。


(見惚れてる場合ではなかった!)


 どんどん鼓動が速まる中、小夜は次に何を言っていいのか分からなかった。頭を上げるタイミングまで分からなくなる。

 助け船をくれたのは、面白そうに苦笑するセシリィであった。


「小夜、そこまでしなくてもいいのよ?」


「それが、座っている方への礼の取り方が分からなくて……」


 戸惑いながら頭を上げると、セシリィが立ち上がって椅子を促してくれた。失礼にならないよう、尻を向けないように気を付けながら二人で座る。

 その小夜の顔は真っ赤であった。社会人として十年も働いているくせに、こういった礼儀作法をきちんと知らないと思い知る時の恥ずかしさたるや。

 そんな小夜をどう思ったのか。イリニスティスが、憐れむような目で小夜を見た。


「セシリィ。僕のこと、話していないのかい?」


「イリニスティス様にお会いするのに、余計な情報は不要ですわ」


「いやいや、要るでしょ! せめて挨拶の仕方と口上だけでも教えてほしかった!」


 にやりとするセシリィに、小夜は思わず泣き言を言っていた。そしてすぐに、貴人たちの会話に割り込んでしまったと青くなる。

 さーっと血の気の引く音を聞く気分で膝頭を見つめる。短い沈黙のあとに上がったのは、叱責ではなく穏やかな笑声であった。


「聞いていた通り、忙しくて面白い子だね」


 白い頬をほんのりと上気させて、子供のように微笑む。またセシリィが何やら吹き込んでいたのかとも思ったが、その笑みに毒気を抜かれて、文句は出てこなかった。

 代わりにセシリィが、どこか得意気に答えた。


「そうでしょう? 小夜といると、大抵の深刻なことは深刻じゃなくなるの」


「それはとても良いことだ。新しい人に会うのは苦手なんだが、小夜なら平気だな」


「そう思いましたわ」


 全く誉められていないことは分かっていたが、二人がにこにこと嬉しそうに頷きあうので、小夜はまぁいいかと沈黙を守った。


 これは後で聞いた話であったが、イリニスティスはその立場と身体的な問題から、政治上では随分複雑な立場にあるのだという。現国王を快く思わない派閥には密かに王弟を次期国王に据えようという動きがあり、その反対派閥もある。

 だがそのどちらでも、セシリィのように目線を合わせて挨拶する者はほぼないという。必要なのは王の血だけで、一人では身動きさえままならないイリニスティスを道具と見ていることが、どうしても分かってしまうのだという。反対派であればそれは更に顕著になる。

 だからこそ、イリニスティスは滅多に王宮には上がらず、時折訪れる実姉である王妃の話し相手をするだけ、という形を取っていた。結果、真実を知らない者達の間では王弟は気難しい人嫌いの偏屈者として通っているらしい。

 そしてイリニスティスを子供の頃から慕っているセシリィは、そんな偏見を小夜に持ってほしくなかったのだ。


「もっと話したいが、今日は僕に会いに来てくれたわけではないのだってね?」


「えぇ、残念ながらそうですわ。ファニ……カティア様に」


 どこか嬉しそうにするイリニスティスとは反対に、セシリィが名残惜しそうに頷く。カティアとは、元々王族であるファニの本来の立場での本名だ。


「ファニでいいよ。僕もそれで通している」


 イリニスティスはそう言うと、車椅子のすぐ後ろに控えていた老執事を振り返った。


「セルジオ、ファニを呼んできてくれるかい?」


「はい」


「あぁ、あと、折角女の子たちが揃うから、家にある菓子をあるだけ出してあげて。アップルパイと、栗のグラッセと、クッキーと、あと」


「糖蜜をナッツと固めたタフィーなどもございます」


「うん。女の子には、甘いものが必要だ」


 老執事――セルジオの相槌に、イリニスティスが莞爾と微笑む。


(三十代半ばって聞いたけど、なんだか可愛い人だなぁ)


 子供のようで、放っておけないようなのに、大事なところは芯がある。けれど少しも大人ぶらない。セシリィが心を許すのも、何となく分かる気がする。

 小夜もまた、短い時間ではあるのに、気分はすっかりなついた猫であった。


(糖分糖分)


 甘味に絆されたともいう。

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