神がいる
「苛められても知らないわよ」
いそいそ。
「絶対に他の令嬢たちに侮辱にされるわ」
うきうき。
「すぐに後悔することになるわよ。第二王子の声が聞きたいなんて理由だけで突進したら!」
るんるんるん。
「聞いていて、小夜!」
今にも小躍りしだしそうな小夜の肩で、トリコがクェッと怒る。聞いてなかったと言うと更に怒られそうなので、小夜は平和的解決を得るために首肯した。
「勿論。でもその話はもう何回もしたでしょ?」
あの後、美声の二人が帰ってから今に至るまで、トリコは何度もこの手の忠告を繰り返した。
今まで自分がした行いをつまびらかに説明した後、国外へ逃げなさいとか、セシリィの体で魔法を使ってみろ等々。
だが小夜はやると決めたので、今の段階での逃げはなかった。新しい環境はやっぱり怖いし、苛めも怖いし、些細な失敗でお手打ちになったらと思うととても怖い。
『それなのに、どうして……』
トリコが鳥の顔で沈痛な面持ちをするものだから、小夜は思わず笑ってしまった。
『なぜ笑うのよ』
『だって、そんなに心配してくれるんだもん。優しいなぁと思って』
『し、心配なんかしていないわよ! わたくしはただ、』
『ただ?』
『侯爵家令嬢セシリィ・クィントゥスとしての、立場や面子というものが……』
『全部捨てるつもりだったのに?』
くすくすと笑って聞くと、トリコはむすりと押し黙ってしまった。怒るというよりは、自分でもどうしたいのか、まだ思いあぐねているといったところだろう。
(人生の一大事を他人に勝手に決められちゃったんだし、そりゃ戸惑うわな)
だから、きっとまだ気付いていないだろうことを示す。
『もし嫌なら、学校にはついてこなくても大丈夫だし、何なら自由に飛んでいったっていいんだよ。今のセシリィならそれが出来る』
でも、セシリィは一度もそうしようとはしなかった。倒れた小夜を心配して、鳥の身ながら人を呼んでくれた。
『そんなこと……』
トリコは一瞬驚いたように固まり、そのあと気まずげに視線を彷徨わせる。その様子にどうにも生真面目さが滲んでいて、生き辛いだろうなぁとまた苦笑が零れた。
『優しさって、発揮する相手がいないと、自分でも分かりづらいのかもね』
『は? わたくしは優しくなんてないわよ』
つん、と嘴がそっぽを向く。おっとこれが噂のツンデレか、と小夜はまた一通り羽根を撫でまわした。
だがこのままトリコが一方的に負担に思うのは公平ではないので、小夜は素直に自分の知識と予測を伝えた。
『ゲーム? 小夜の世界では、ボードゲームの駒に一つひとつ人名を付けているの?』
ちょっと違うのだが、コンピュータゲームの説明は小夜には難しかったので、そういうことにした。結果、
『駒が喋るの? 小夜の世界の魔法は、少し……気色悪いのね』
ひどい誤解が生まれた。
(声が好きだから、是非本人のお声を確認したいという邪念があるだけだから気にしないで、っていうことを伝えたかっただけなんだけど)
まぁいいか、と流す。
「仕えるのは貴人で、貴人といえば衆人環視の対象みたいな人でしょ? その人に引っ付いている間は、そう大っぴらに苛められたりしないって」
「それは少し楽観的にすぎると思うわよ」
いまだ納得できないようなトリコをまた撫でて、部屋に置かれてあった椅子に座り直す。
現在一人と一羽がいるのは、件の学校の一室だった。
小さな村や町であれば、教会に付属している低年齢向けの全学校しかないのだが、大きな町になれば、進学者向けの専学校も増えてくる。
特に王都にあるうちの一つ、ここタ・エーティカ専学校は唯一の王立で、進学者は貴族や富裕層が多い。その為、寄進される額も文字通り桁違いなのだという。
それを証明するように、小夜たちを取り囲むのは学校の一室とは思えない豪華な装飾だ。色味としては全体的に落ち着いた焦げ茶色だが、使われている素材は明らかに高級品だと分かる。何度か入ったことのある中学校の校長室など目ではなかった。
(こんな立派な部屋で待たされるということは、やってくるのもまた高位の貴人)
期待はいや増すばかりである。
「そうかもしれないけど、そうじゃないかもしれないよ? だから、大丈夫だって」
何の根拠もないが、とりあえず笑顔で応じる。始まる前から不安がっていても仕方がない。という意味だったのだが。
「……とりあえず」
「ん?」
「その口元を引き締めてから言ってちょうだい」
「ぅおっふ」
トリコの視線は冷たかった。
◆
「…………何なんだ?」
長い長い沈黙の果てに、全ての生き物をたちどころに震撼させる美声がそう言った。
「……神はいた。否、神がいる……!」
震える鼻声でそう言ったのは、無論、小夜であった。
鼻声の理由は、今にも泣きそうだからである。
「気色悪い……」
そんな類いの言葉を、トリコが多分十回は繰り返したし、室内にいた全員が侯爵家の応接室並みにざわついていたが、やはり聞こえてはいなかった。
ただ、目の前に立つ特上の美声を放つ人物を、顕現した現人神がごとく手を組み合わせて拝む。その脳内は人生でもっとも高速演算処理をしていたとも言えるし、無心とも言えた。
(浄化……浄化されてゆく……)
気分は悪霊退散されていく悪霊の方であった。
そんな時間が、どれ程過ぎたのか。
「早く侯爵令嬢に戻らないと、二度と喋らないと思うわよ」
「ッんハ!」
正気に戻った。
両目をかっぴらいて視界を広げる。
実家の六畳間の自室、ではなかった。
「あ、あれ? 私は今まで何を……?」
わりと本気で、取り憑いていた悪霊を祓われたばかりの人みたいな台詞を放ちながら周囲を見渡す。と、まず肩に留まったトリコと目があった。殺意を感じた。
(え、なんで?)
とりあえず、すごすごと元の椅子に戻った。そして記憶を遡る。
まず、複数人の足音が聞こえて、緊張感が高まったところに、コンコン、というノックの音がしたのは覚えている。
そのあとにお仕着せを来た男性(学校で働く使用人や小間使いが何人もいるらしい)がドアを開け、五人の男女が現れた辺りで小夜はショートした。昇天したとも言う。
現れたのは、長身の男性が四人と、可愛らしい女性が一人。だがこのときの小夜の目は、たった一人の顔(より正確には口元)に釘付けになった。
運命の女神が紡いだ糸で整えたような金髪に、今にも全能の神が降りてきそうな白雲の如く輝く肌、鉄灰色の瞳を縁取る目元や鼻筋は稀代の彫刻師に芸術の神が憑依したかのように完璧で、唇は美の女神が生まれる寸前のホタテ貝のように光を放っていたーーように、小夜には見えた。
(まさか、まさかこんな日が来ようとは……!)
出会いは小三、学校から帰ると丁度始まるアニメの主人公だった。好きになったのはアニメの方だが、気付けば声そのものに興味を持った。声優、という職業を知った瞬間だった。
(あれから早ウン年……!)
十九年である。
大人になり、財力を身に付け、独身にものを言わせて趣味に没頭し続けた結果、運命の出会いを果たした。あの乙女ゲームである。
チュートリアルから始めて一年、無課金で地道にキャラが降臨するのを待ち、愛情度をひたすらに上げ、アイテムを片っ端から注ぎ込み続けた、愛しき男性。
その声を聞くためだけに日々アプリを立ち上げ、攻略ルートを全制覇し、美麗スチルをゲットし、イベントも欠かさなかった。
その愛しき声の持ち主が、今、目の前に現れたのである。
声ヲタ腐女子としては致し方のない症状であった。
(おぉぉ……神よ、その玉声を聞かせ給え……!)
そして冒頭へと至るのであった。