ニコスの健康
「……お前、何を知っている?」
笑顔で指先をトリコにかじられ続けているクレオンに、ルキアノスが怪訝な視線を向ける。だというのに、クレオンは変わらず笑顔であった。
「そう怖い顔をするな、殿下。俺が知っていることは、常に興味のあることだけだ!」
「今はそういうことを聞いてるんじゃない」
輝く笑顔で親指を立てるクレオンを、ルキアノスが冷淡に切り捨てる。それをセシリィが、至って冷静な眼差しで補足した。
「教科書で分からないことはイアソンお兄様に、教科書に載っていないことはクレオンお兄様に聞く。我が家の鉄則ですわ」
「そんなどうでもいい鉄則なぞ知らん」
「聖拝堂で調べものをしていたのは事実ですが、それ以前から図書館でも同じことは調べていました。ですが先程の疑問に当たったので、お兄様にご助言を願ったのです。そうしたら、『神殿側から調べてみろ』と返事が来たものですから」
「またお前が元凶か……!」
ルキアノスが再び青筋を立ててクレオンの襟首を掴み上げた。二次被害に遭ったトリコがグェーグェーと文句を言う。
「仕方のないことなんだ。偽りやご都合主義で仕上げた箇所には大なり小なり不自然がある。気になって調べるのは学生の本分というものだ!」
「その労力を本業に使え!」
「それでは詰まらない!」
「そんなひん曲がった見方ばかりしているから図書館は出入り禁止にされるし、教師からは質問禁止を言い渡されるんだ!」
「おぉ殿下! 何やら短気になっている模様。気分を緩めるお香も覚えたのだ。焚いてしんぜよう!」
「断るっつってんだろ!」
「殿下は遠慮深いなあ!」
HAHAHA!(と小夜には聞こえた)と尚も爽やかに笑うクレオンの首を、ルキアノスが無言でぐわんぐわんと振り回す。
その間もセシリィは涼しい顔を崩さなかったので、これもまた通常運転らしい。
「お前が関わるとろくなことにならん……」
「そんなことはない。速やかに解決するぞ?」
結局残る苛立ちとともにクレオンを放り投げたルキアノスが、ぜぇはぁと息を整えながら諦めた。頭を回されたはずのクレオンはしかし、何故か元気である。
「そうなると、やはり戦争のことは直接関わりがあるわけではないのかもしれないな」
ルキアノスはついに無視をすることで方針を決定したらしい。腕を組みながら、学校から戻る道中でニコスから受けた途中経過報告を話す。
女生徒二人は戦争について特別に調べた形跡はないとのこと。男子生徒の編入前の学校は調べられなかったらしいが、編入理由は引っ越しであったこと。ファニは勿論調べていたらしいが、常にエヴィエニスの監視下にあったと確認が取れている。
(ニコスさんがその調べ物頼まれたのって、昨日の夕方じゃなかったっけ?)
そして今はまだ昼前である。先程見たニコスの過労死寸前の青い顔に徹夜疑惑が浮かび、小夜の方がひょえっと青くなった。
(お願いニコスさん倒れないで!)
更に現在進行形で犯人の隠れ家や行方を追っているはずの仕事中毒者の健康を祈る。だがそんなニコスの健康を更に追い詰める発言があった。
「それでも、念のため神殿には確認を取った方がいいだろうな!」
「それは勿論手配する。だが今は出払っている」
クレオンの提案にルキアノスが嫌そうに頷くが、それは聞くまでもなくニコスのことであろう。嗚呼と嘆く小夜。その耳に、クレオンの予想外の提案が飛び込んだ。
「では俺が出向こう!」
「まぁ、名案ですわ」
「嫌だ!」
無視する方針は早くも頓挫していた。クゥイントゥス兄妹の実に雄弁な沈黙が第二王子を詰る。
「殿下、好き嫌いは良くないぞ?」
「そうですわ。使える手段は全て行使した方がよろしいですよ」
「お前らにだけは言われたくない」
切実な訴えであった。
そのあとも兄妹は「丁度用事があってな」とか「神殿はまだ立ち入り禁止ではないし」などと話していたが、悲しい平行線が続いていた。小夜は僭越と十分承知しながら、致し方なく折衷案として問題の先送りを提案した。
「とりあえず、ニコスさんの報告を待ってからでも良いのでは?」
「うぅむ。だがそれでは詰まらな」
「お前は黙ってろ!」
真っ先に異論を述べたクレオンを、ルキアノスがすかさず退ける。在学中は意外と息が合っていたのかもと思う小夜である。
(ルキアノス様が学校で別行動なのは私のせいかと思ってたけど)
もしかしたら、以前から別の学友でグループを作っていたのかもしれない。その中にクレオンがどのような立ち位置でいたかは、知りたいような知りたくないような。
などと関係ないことを考えていると、ルキアノスが「それに」と続けた。
「神殿に行くなら、婚約者と不仲な者という点についても、もう少し関連を調べておく必要がある」
「婚約の話が神殿に関係があるんですか?」
「婚約も結婚同様、神殿が管理するものだ。何もないとまでは断言できない」
婚約の段階でも当人と家族が神殿にて誓約し、指輪などを交わし合うという。もし婚約から結婚に至らなかった場合、神殿の蒙る不利益はあっても利益は思い付かないと、ルキアノスは続けた。
「つまり、神殿に不利益を与えたい者が犯人ってことでしょうか?」
「又は、その結婚によって神殿に不利益が発生するかだが」
「けれどそんなことがあれば、神殿は婚約をそもそも認めないはずですわ」
「神殿を嫌ってる人って多いの?」
セシリィの意見に、小夜は不躾を承知でそう聞いた。篤信家が聞けばそれだけで怒られそうな問いではあるが、小夜の中のイメージといえば、やはり乙女ゲームに準拠する。
ゲームの中で、神殿は利権のために妨害工作をする邪魔者だ。聖職者であるツァニス・ヴァシレイノを攻略対象に選べばまた違うのだろうが、生憎ルキアノスしか攻略していない小夜には知る由もない。
だが現実のこの世界では、信仰を集める聖なる存在のはずだ。広場にあった神殿にも、参拝者らしき姿が途切れず出入りしていた。
「神殿にとっては、不仲よりも仲は良好な方がいいはずなの。けれど貴族の反感を買いたくない神殿は、基本的には色々と言い訳を捻り出して不介入の姿勢を取っているらしいわ」
そう答えるセシリィの意見は、明らかに平民寄りであった。寮生会に出入りするようになって、貴族の立場からでは分からないことが見えてきたのかもしれない。
(それにしても)
身分の低い者たちに対する労りがあるなら、貴族側の横暴を諭すなどの融和策を取ってもいいだろうに、自分達の権益を守るために見て見ぬふりをしているということか。
(やな感じー)
小夜の中で、なけなしだった神殿の好感度がみるみる下がる。その隣で、ルキアノスも腕を組んだまま思案げな声で呟いた。
「となると、犯人像は神殿に不満を持つ平民、ということか」
「ぶほっ」
「は!?」
小夜が吹いた。ルキアノスが突然の奇声に目を剥き、クレオンも目を大きくしている。唯一セシリィだけが、呆れたように小夜を見ていた。
(しまった! 油断しているところにリアル名探偵の美声が……!)
ポンコツな口を慌てて両手で押さえても、もう遅い。小夜は真っ赤な顔で謝罪した。
「す、すみません、何でもないです。お続けください……」
「相変わらずねぇ、小夜は」
低頭したまま顔を上げられない小夜の耳に、クスクスとセシリィの嬉しそうな声が届く。小夜はますます赤面した。
何を今さらと自分でも激しく思うが、今までは思考と会話が結び付いていたために、脳が勝手に声よりも内容を優先していたのだ。それが途切れ、気を抜いた所に低い理知的な声が聞こえたものだから、体が勝手に反応してしまったのだ。
(ということにしたい……)
穴があったら入りたいのに、更に別の声がそれを引き留めた。
「これが噂の奇声か?」
クレオンである。妙に残念そうな顔をして小夜を見ている。
「母上にお見せしたら喜ぶだろうと思って楽しみにしていたのだが……」
「あら、お兄様。今のはほんのさわりです」
「さわりって何!?」
兄妹の会話に何となく理由を察した小夜は思わず突っ込んでいた。二人が手紙で近況をやり取りしているようだとは分かっていたが、自分の行動まで報告されていたとは知りたくなかった。
早速好奇心が復活したクレオンが、うきうきした顔で手を伸ばす。
「そうなのか? ではここはひとつ、連れて帰って」
「ダメだ!」
その手を、ルキアノスの鋭い制止とともに伸びた手が力強く引き掴んだ。クレオンが掴まれた手首を僅かに持ち上げ、初めて真剣な眼差しでルキアノスを見詰め返す。
「…………」
「…………」
「……俺は殿下でも全然大丈夫だ」
「もっとダメだ!!」
ルキアノスが総毛立って拒絶した。
(……意外とときめいてしまった)
何にとは言わない。
がちゃりとドアが開いたのは、そんな時であった。
「…………。お邪魔でしたでしょうか」
ラリアーが、仄かに頬を染めてそう言った。




