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お兄様が来た

 何故こんなにも腹が立つのか分からなかった。


 ルキアノスはエヴィエニスの代替品だった。生まれたときからずっと。長男に何かあった時のための予備スペア

 子供の時には、ただ慕っていた。頭が良くて、優しくて、少し寂しそうにする兄を、羨んだり疎んだりするなど考えられなかった。

 だが次第に「第二王子として」と言われることが増え、その意味を理解するに至れば、その心中は嫌でも複雑になった。

 エヴィエニスが優秀であればあるほど、ルキアノスに求められる素質は高まり、劣等感だけが肥大化した。

 エヴィエニスは嫡子で、王太子で、優秀で努力家で、自分の立場を誰よりも弁えている。だからこそ余計に、ルキアノスにかかる重圧は酷かった。

 ルキアノスは自然と兄と距離をおき、自分を磨き、兄に勝るように努力もした。だがどんなに頑張っても、教師はみな「兄のように」と言った。


『これでお兄様にどうにか追い付いたというところでしょう』


『上出来です。ですがまだお兄様には敵わないでしょうね』


(『兄』と枕詞を付けなければ、オレは評価もされないのか)


 それはまごうことなき怒りであったが、それも長続きはしなかった。兄が変わらず優しかったというのもある。

 だがそれ以上に、弟の存在があった。

 六歳下の第三王子アフェリスは、運動が苦手で動きも鈍く、喋りも遅く、特に上がり性で会話が大の苦手であったが、魔法だけはずば抜けて優秀であった。

 そのために、弟は予備とは扱われなかった。


(なぜ……!)


 怒りよりも哀しみが、ルキアノスを支配した。ルキアノスは常に努力した。けれどどれも人並み以上にはできても、人より優れることは出来なかった。


(兄には王者の、弟には魔法の才がある)


 けれど自分には何もない。それは、空しいほどの恐怖であった。


(気付かれてはならない)


 愚かな凡人だと、誰にも悟られてはならない。だがそれは政治利用されないためにとか、兄の足を引っ張らないためになどという、綱紀のための思考では到底なかった。

 ただ、怖かっただけだ。自分が、王族でありながら、血統以外に何の価値もないと知られるのが。

 けれど。


『私にとっては世界一素敵な声なのに』


 ぼそりと呟いたその声が、あまりに素朴で普通だったから。

 今まで何万回と聞いた世辞とも媚びともまるで違う、単純に少し拗ねたような驚いたような声。

 だから、ルキアノスはつい聞いてしまったのだ。相手はあのエヴィエニス至上主義のセシリィ・クィントゥスと承知していたのに。


『兄上よりもか?』


 そんなはずはないのに。兄は誰よりも努力し、自分に厳しく、常に大局を見ていた。そんな兄に、ルキアノスが勝てるものなどあるはずがなかった。ファニだって、兄を選んだ。

 ましてや、目の前にいる女は兄を愛してやまない頑固者だ。

 だというのに。


『もちろんです!』


 この時、セシリィは見たこともないような笑顔で、そう頷いたのだ。その時の輝きを、ルキアノスはいまだに覚えている。

 思えば、別人に見えたのもこの時が最初であった。

 セシリィがセシリィに戻ってからも、実はこっそり何度か観察したが、あの輝きは二度と見られなかった。


 だから、メラニアが小夜に助けを求めると聞いたとき、一も二もなくトリコを貸した。後から思えば、あれは適切な判断とは言えなかったと、今なら分かる。

 そもそもセシリィが世界の外側に逃げようとして失敗したのは、世界を作った神々がそれをお許しにならないからだ。だから成り立ちの違う外の世界の人間を気安く喚ぶのが誉められることでないことも、分かる。

 それでも、ルキアノスは諫めるどころか、補佐として協力した。何故かとは、その時は深く考えなかったが。


 けれど。

 『声優』という単語を知り、小夜があんな顔をして喜んでいたこの声も、好きな役者に似ていたというだけの理由だったと知り。


(実に、オレらしい)


 久しぶりに忘れられていたはずの空しさが、胸を占めた。

 まただ。また、自分は自分という価値を確立できない。

 今までにも何度も味わってきたことだ。今さら怒るようなことでもない。諦め方は既に知っている。

 それでも、言葉は溢れ出ていた。


『オレはそいつの代替品というわけだな?』


 あの言葉は、思えば制御機構ブレーキだったのかもしれない。そこで何か口にしなければ、代わりに体が馬車の中を滅茶苦茶にしていただろう。

 結局ルキアノスは、十七歳にもなってこんな単純な怒りさえ制御できない。だがその怒りの底には、深い失望があったのだと、あとで気付いた。小夜へというよりも、自分への。

 だから。


「ルキアノス様は優しかったんです」


 そう言ったときの小夜の顔が、あまりに素朴で普通で、優しかったから。


「ル、ルキアノス様?」


 腹が立って腹が立って、仕方がなかった。

 小夜は誰にだってそうだ。あのセシリィにだって、悪女ぶったファニにさえ、当たり前のようにそう接した。なんの衒いも誇張も誤魔化しもなく、当たり前のことを当たり前のように伝える。エヴィエニスが頑なに隠していたことも、クィントゥス侯爵の不器用な親愛も、単純な言葉で暴いていく。

 それをはたで見ているだけなら、爽快だった。だがいざ向けられてみれば、それは子供が刃物を振り回すような乱暴さで、心の内側に踏み込んでくる。

 それは、怖いことだ。


「知った風な口をきくな」


 まるで予防線を張るように、そんなことを言っていた。それがどんなに情けなくみっともないことか、ルキアノスはすぐに知ることになる。


「……ごめんなさい。自分の正しさを示すためにルキアノス様を傷付けるんじゃ、本末転倒ですね」


 小夜は、笑った。眉尻を下げ、困ったように。焦げ茶色の瞳は潤んでいたけれど、泣くことはなかった。

 その時初めて、ルキアノスは小夜が年上に見えた。ふっと、襟首を掴んでいた手が緩む。

 一方的に怒り、小夜を馬車に置き去りにし、話も聞かない自分のやり方が、子供じみていることは分かっていた。

 けれど自分を見る小夜の瞳に、まるで頑是ない幼子を諦めの眼差しで見るような色を見つけて。


「……小夜」


 知らず、名を呼んでいた。そしてすぐ、そのことを後悔した。


「よ、呼ばないでください」


「……なに?」


「名前は、呼ばないでください。ちょっと……困ります」


 小夜が、みるみる顔を赤くした。真っ直ぐに見ていた瞳を逸らし、もごもごと口ごもる。

 それが誰を想像しているせいなのかが容易に分かって、ルキアノスはまた腹が立った。

 少し離れていた手を、今度は顔のすぐ横の壁にダンッと押し付ける。小夜が驚きに目を見開き、さっと頬の赤みが引く。


「あの……ルキアノス様?」


「お前は、その男が好きなのか?」


 気付けば、そんな問いが零れていた。


「……はいぃ?」


 丸くなっていた小夜の目が、さらに大きくなる。愚かな問いだと、その顔を見なくても分かる。それでも、口は勝手に動いてしまう。


「その名前を呼んでいいのは、そいつだけか」


「え、えぇ? ち、違いますよ。だから、その人は役者で、雲の上の人で……」


「お前の、想い人か」


「それは……!」


 サッと頬に朱が戻る。それを見て、また苛立ちが増す。だが小夜はその先を言わなかった。自分でも険悪になっていると分かる顔で、その先を迫る。


「『それは』、なんだ?」


「それは……」


 パクパクと口だけが動く。パクパク。そして。


「お、大人をからかってはいけません」


 顔の赤みが引かないまま、しかつめらしい表情を作って妙なことを言った。

 ルキアノスは内容を理解するのに数秒を要し、それから鼻で嗤った。

 

「お前が、大人? 言うほどに見えないがな」


「そ! それでも、私は二十八歳ですし、私からすればここの学生も全員幼く見えます」


「つまり、オレを愚弄してるということだな」


 言いながらも、なんと愚かで無意味な掛け合いだろうという自覚はあった。そして、


「どうしてそういうことになるんですか!」


 ついに小夜が憤慨した。バシッとルキアノスの手を振り払い、眉を吊り上げる。


「いいですか? 私も、あなた方の年頃にはすっかり大人でいる気でいました。けれどこの年になってみると、どうしようもなく子供に見えるのです。でもそれは、ルキアノス様の努力とか個性とか価値とか今までの行いとか、そういったものとは一切関係がありません。ただ、あなたは若い。それだけのことなんです」


 それは、ただの身勝手な大人の言い分であった。そしてそれにすぐ言葉が出てこない自分にも苛立つ。論点が二転三転するのは結局小夜の言う通りルキアノスが幼いからのような気もするし、明確な回答をしない小夜もまたズルいと思ってしまう。


 結局、子供ガキなのだと、どうしようもなく思った。


「それでも――」


 そう、ルキアノスが何かを言おうとした時であった。


「やあやあ愛しき我が妹よ! お兄様が来たぞ!」


 けたたましい扉の開閉音よりも更にけたたましい大音量が、部屋中に響き渡った。



予想外に二人が頑固すぎて、めげる……。

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