代替品
「……怒ってるのか?」
膝に両肘をつけた前屈みの姿勢で、ルキアノスが問う。距離と体温にばかり意識を奪われていた小夜は最初、何を言われたのか全く分からなかった。仕方なく、関節が許す限界まで体を細く畳んで、問い返す。
「えっと、何のことでしょうか?」
「突然、こちらの世界に喚びつけたことだ」
「あぁ、そんなこと……」
確かに突然は困るし、三十路の体に時差は辛い。だがそれはセシリィの時も同じだ。それに今回は肉体ごと喚ばれたのだから、植物状態の心配もない。帰れる手段も明確にある。
「怒るどころか、感謝しているくらいです」
それは誤解だと、小夜は苦笑した。
「もし、セシリィに何かあっても知らないままだったら、私は必ず後悔します。だから、喚んでもらえて感謝しています」
「お前には、少しも関係のないことなのにか?」
「それを言ったら、ルキアノス様も大して関係ない気がします」
失礼な言い方と承知しながら、そう言った。ルキアノスはセシリィの婚約者でもないし、血縁ですらない。ルキアノスがここまでする理由の方がないはずである。
「オレはあいつの監視役でもあった。オレの不手際だ」
「いえ、それは違います」
沈痛な面持ちのままそう自分を責めるルキアノスに、小夜は咄嗟にそう否定していた。
本当はセシリィの監視は小夜が帰った時にほぼ解除されていたし、行動も制限されていなかったはずだ。動向こそ報告されていたし、所在も把握されていただろうが、それだけだ。
ルキアノスに非はない。あるとすれば、セシリィに入っていた時の小夜にだろう。小夜がルキアノスの侍女を希望しなければ、監視の役目も押し付けられたりはしなかった。
「セシリィが侍女として学校に戻るとき、ルキアノス様を選んだのは私が勝手にしたことです。私がどうしても、その……ルキアノス様のお側でそのお声を聞きたかったので」
さすがに振り返ると実にアホな理由だと恥ずかしくなるが、セシリィが真相を話していないのだとしたら、これは小夜がきちんと謝らなければならないことだ。
「本当に、申し訳ありま」
「聞きたかったのか? どうしても?」
「!」
座ったままの姿勢で頭を下げようとしていた小夜は、突如割り込んだその低く艶を含んだ声に、びしりっと硬直した。耳がまず真っ赤になり、続いて顔、首と赤みは広がっていく。そして。
(い、い、色っぺー!!)
一瞬、隣にいるご尊顔を見ようとしかけ、いや出来ないと両手で顔を覆っていた。背筋がぞわぞわして、足をその場で小さくバタバタさせる。
(何ですか今の不意打ちはー! 動揺するでしょうよ! あぁ録音したかったぁー!)
座席の隅で散々悶えていると、フッと空気が抜けるような笑声が聞こえた。ハッと手を離すと、ルキアノスが苦笑気味ではあるが笑っていた。
「出たな、奇行」
「! か、からかいましたね!?」
もてあそばれた! と小夜はやっとそこで気付いた。年下にからかわれるなんて、と地味に落ち込む。
だが意に反し、ルキアノスの笑みはすぐに陰ってしまった。
「オレは、好きではないがな。兄上と比べ、掠れて通らない」
「それは腹から声を出していないだけです!」
思わず、分かったようなことを言ってしまった。言ってすぐ、後悔する。だが我慢できなかった。
(私はこんなに、ルキアノス様の声が好きなのに)
それを否定されるのは、とても悲しいことだった。
勿論、小夜には腹式呼吸のなんたるかなど分からない。それでも、確実なことはある。
声優さんはみな良く通って聞きやすい声ばかりだが、それは全て地道な発声練習の賜物なのだ。普段の話し声と役とでは全く違うという方も多い。
王者の声や惹き付ける話し振りも同じだ。資質とか個性といわれるものも確かにあるだろうが、声は努力で良くしていける。
「声優さんの中には、声にコンプレックスを持つ人も少なからずいます。でも声優という職に就くことで、短所が長所になって、しかも収入にもなるんです。これって、長所を長所のまま仕事にするよりも、ずっと凄いことだと思いません!? だから、本人が思う短所なんかどうだっていいんです!」
「……熱弁のところ、すまん。『セイユウ』が何か分からん」
「あぁっそうだった!」
ガッデム! と頭を抱えた。
「私の世界には、ゲームや絵本に声だけを当てる役者という職業があるのです」
と、馬車で帰る道中、小夜はいつかセシリィにもした説明を繰り返した。そのゲームに出ていた声がルキアノスと全く同じで、その声の役者の方のお陰で色んな辛いことを乗り越えることができたのだと。
だがその声がどんなに素晴らしく天才的で唯一無二で千変万化で麗しいかを説明しようとした所で、「つまり」という声に遮られた。
「オレはそいつの代替品というわけだな?」
大好きな声優さんの話が出来るとあって舞い上がっていた熱が、氷河に落ちたかのように一気に覚めた。というか青褪めた。
「……ち、違います!」
妙な間とどもりが入った。心臓が違う理由でばくばく言い出す。
「そ、その声優さんはもう大ベテランでもう立派なおじさまで! 結婚もしてますし、好きな話題はいつも下ネタだし! だからルキアノス様とは全然ちが」
「もういい」
冷たい声だった。いつものように麗しい、けれど少しも喜びの沸き上がってこない、低い拒絶の声。
「…………」
小夜は、何の言葉も出なかった。ただ呆然と、隣の席からはす向かいに戻っていく姿を見ていた。
(違う……違うんです……)
声に出して、呼び掛けなければならない。そう頭では分かっているのに、胸が緊張に圧迫されて苦しくて、喉はカラカラに乾いて、少しも思い通りに動かなかった。
これ以上拒絶されるのが怖い。軽蔑されるのが怖い。失望されるのが怖い。
(これが、他の人だったら……)
きっと、同じことの素晴らしさを説いて、その価値を高らかに歌っただろう。それで嫌われても、寂しいとか残念には思っても、ここまで恐怖したりはしないだろう。
それが分かるからこそ、こんな時なのに小夜は改めて思い知るしかなかった。
(やっぱり、好きみたいだ……)
それが単純な憧れなどではなく、年甲斐もない恋だということに。
◆
寮に帰ると、ルキアノスは黙って先に降りてしまった。それを子供っぽいとは、小夜は思わなかった。むしろ当然の反応だと思う。
ずっと、好きだ何だと言っていた奴が、実は別の人間と似ているという理由で騒がれていたと言われたのだ。腹が立つのが普通だ。
「……さいってー」
ルキアノスの背が扉の向こうに消えるのを見送ってから、やっと出てきた言葉がそれだった。全くだと思う。そんな人間だから、仕事は長続きしないし、新人は育てられないし、大切な人を傷付ける。
こんな時ばかりは、空気を読めない自分を呪う。
(いや、人の気持ちか?)
つまり空気とは相手の感情だとは分かるが、それが読めたら人間やめてるとも小夜は思う。
(じゃあ仕方ない……わけあるか)
ばーかばーか自分のばーか。
と、どんなに罵ってみても、虚しいだけである。
小夜は深呼吸を五回もしてから、後ろでずっと馬車の片付けもせず残ってくれていたヨルゴスに向き直った。
「あの、ヨルゴスさん」
「…………」
「この外套、ルキアノス様にお返し頂けますでしょうか?」
「……承ります」
十分な黙考を挟んで、ヨルゴスさんが低い声でそう承ってくれた。相変わらず、良い声である。だが今は寡黙なことに助けられた。事務的な方が、感情の抑えが効く。
小夜は外套を渡すとぺこりとお辞儀をして、自身も寮へと戻った。エレニに外套のお礼を言い、軽食をもらって自室で食べる。
トリコのいない部屋は、同じ場所のはずなのに酷く広くて、うすら寒かった。
くらい……。




