走って逃げた
幾つかの爆弾発言を投下したラリアーは、爽やかに手を振って去っていった。
「……何だったんでしょうか」
「ただの別れの挨拶だろ」
結局寮に戻っていったラリアーの後ろ姿を見送りながら呟くと、既に踵を返したルキアノスに冷たくいなされた。その背を追いながら、聞こえていなかったのかと遅れて気付く。
(どうしよう、言っても良いのかな?)
一応、良識として悩む。ルキアノスに言っても良いのなら、ラリアーが声を潜める必要はなかった。
(とか悩みながら結局言わないでおくのがお約束な気もするけど)
小夜なので、勿論言う。
「そっちじゃなくて、最後の一言です」
「一言?」
「寮生会に裏切者がいるって」
「! あぁ、それでか」
反応は、存外普通であった。ルキアノスが顎に手をあて、何やら納得する。
「もしかして、ご存知だったんですか?」
「いや。だが怪しいとは思っていた。だからまずここに来たんだが」
初耳であった。今度は小夜が驚く。
「確信があったなら、教えてくれてもよかったのに」
「確信なんかあったら、お前を喚んではいない」
「……おお!」
正論であった。ぽん、と手を打つ。
「ただ、ラリアー嬢があんなことを言い出した理由が分かっただけだ」
「理由?」
「彼女は今回の件には関わっていない。そして何かに気付いている」
「ああ! そういうことかぁ」
身内が怪しいと気付いて、自ら捜査しようと思い立ったということか。
(行動力のあるお嬢さんだなぁ)
「それじゃあ、婚約の話、乗ってあげるんですか?」
そこまで分かっているのなら、と思ったのだが、やはりルキアノスは首を横に振った。
「いや。寮生会の仕業なら身内に手を出す可能性は低いし、他に犯人がいるなら危険だ。守りきれない」
確かに、セシリィがまだ監視対象として警戒されていたなら、その目を縫って誘拐されたということになる。安易に囮を作るのは危険だろう。
「そうなると、もっと合う条件って誰ですか?」
「お前とオレだ」
「…………」
「…………」
「い! 嫌ですよ!」
走って逃げた。
◆
結論から言うと、瞬殺で追い付かれた。
それもそうだ。運動不足なアラサー女に対し、相手は現役の男子高校生である。勝つ要素は皆無であった。
「待て! なぜそこで逃げる!?」
建物の前で呆気なく追い付かれて、目を白黒させたルキアノスに腕を掴まれた。バッと振り返る小夜の顔は真っ赤であった。羞恥と、息切れで。
「いやいや、冗談にも程がありますって! それは無理です!」
「誰が冗談だ。本気だぞ」
「余計に嫌です!」
腕を離してもらおうと必死に抵抗するが、ルキアノスの手はびくともしない。それをルキアノスが呆れたように見下ろして、はぁーと大きく溜め息をついた。
「なんなんだ、お前は。相変わらず唐突すぎる。何が嫌なんだ?」
「それは……」
見上げるルキアノスの鉄灰色の瞳が実に面倒臭そうで、小夜はその先が出てこなかった。言いたいことはあるが、多分伝わらない。
(なんて言ったら……)
諦めてもらえるのか、と小夜が一人まごついていた時。
「いけませんよ」
ふわりと、後ろから抱き締められた。腕を掴んでいたルキアノスの手も、さりげなく離させる。
え、と思ったのは一瞬であった。
(こ、この声は!)
少し高めながら柔らかい大人の男性の声。その声はこれ、という傾向が言えないほど変幻自在で、ドスの利いた声など背中が痺れる美声である。その声の主といえば。
「歩く天然空気清浄機のツァニス・ヴァシレイノ!」
振り返ると同時に叫んでいた。腕も自然に外れる。だが小夜にはそんなことはどうでも良かった。
背後から小夜を抱き締めていたのは、肩まであるさらさらの金髪に、青と茶の混じったアースカラーの瞳を持つ、爽やかな青年であった。年齢は確か二十六歳。白地に赤と金の刺繍で纏められた聖職者の装いで、手には聖職者が腕にかける布……ではなく、草を握っている。
(スチルと違う……)
それでも、それ以外はゲームで見たものと寸分違わない好青年である。学校の聖拝堂に司祭として務める、精霊に愛されすぎて歩くだけで周囲の空気を浄化するという天然素材。
乙女ゲームでは、イデオフィーアと同じく、王子たち少年組を攻略したあとにしか選択できない大人組の一人であった。攻略は勿論できていないが、ルキアノスのルートでも数回出てきている。
寮生会室で聖拝堂という単語を聞いてからそわそわしていた理由は、ひとえにこれであった。
「歩く、天然……?」
突然目を潤ませて拝み始めた小夜に、ツァニスが困ったように繰り返す。だがすぐに天使のような柔らかな微笑を浮かべて、同じく(では全くないのだが)祈りだした。小夜が祈っていると勘違いしたらしい。
「あなたの敬虔なる祈りは聞き入れられ、あなたの真摯な心は神の御前で覚えられるでしょう」
「ありがとうございます。なんとお美しいのでしょう。耳が洗われます……」
「全然意味が分かんねぇ!」
その横で、一人置き去りにされたルキアノスが堪らず叫んでいた。さもありなん。
少し話を聞きたいのだと説明すると、ツァニスは快く二人を教会に招き入れた。
存分にツァニスを愛でたあとで気付いたのだが、小夜がルキアノスに捕まったのは丁度聖拝堂の目と鼻の先であった。
建物周辺の草むしりをしていたところ、揉めている様子の二人に気付いて仲裁してくれたのだという。
(草の謎が判明した)
「最近は、学校でも物騒なようですからね。出過ぎた真似かとも思ったのですが」
控えめな苦笑を浮かべながら、ツァニスがお茶まで用意してくれた。身廊脇に並ぶうちの一室で、談話室らしい。
小さな教会では、聖拝堂の長でもある司祭がほとんどの雑務をこなすともいう。特に学校の聖拝堂ともなれば助祭などが行う仕事は聖職者見習いでもある神科生がこなすのが通例だ。正式な聖職者はせいぜい二、三人ぐらいらしい。
「その件で、セシリィ・クィントゥスが最近こちらに出入りしていたと聞いて、話を伺いたかったのですが」
ルキアノスがふてくされた顔のまま早速本題に入る。ルキアノスは何故かずっと機嫌が悪かった。
しかし小夜は違う。
「えぇ、彼女のこともとても心配です……」
本気でセシリィのことを思い、ツァニスは再び祈り出す。
「我らが神よ。精霊よ。どうか我らを助け、苦難からお救いください。あなたの耳を彼らに傾け、慈悲をお与えください。人間の与える救いはむなしいものです」
目に見えない何かに祈る姿は、無宗教者の小夜にでさえ不思議と神聖に思わせた。彼の声と、空間の問題であろうか。小夜は本能に任せるままま、その声に延々と耳を澄ませていた。
常に語ることを仕事とする聖職者だからかその声はどこまでも良く伸び、耳触りがとても良い。草むしりの説明すら、神々の逸話やの祈りの基本が纏められているという神識典の朗読に匹敵すると思った。
つまり幸せであった。
(子供の頃に初めて聞いた役は先生だったけど)
彼は苦労性で世話焼きであった。その次に聞いたのが腹黒の指揮官で、その圧倒的な落差に衝撃を受けたものだ。
「この節操なしが……」
「へ?」
隣から呪詛が聞こえた気がした。ルキアノスが冷たい瞳で睨んでいた。
「彼女は、いつも資料室に本を読みに来ていましたね」
祈りを終えたツァニスが、二人の妙な沈黙にはまるで気付かず会話を再開した。
「何か気になることがあるとかで、フラテル寮からの帰りにはよく寄ってくれました」
「それが何だったのか、聞いていませんか?」
「十九年前の戦争の資料の場所を聞かれたので、恐らくそちらかと」
「戦争の?」
気を取り直して受け答えしていたルキアノスが、すっと目を細めた。




