どうか助けて
「エフティーアはエヴィエニス様の乳兄弟ではあるけれど、二人まとめて面倒を見る時間が長かったのよね。だから二人が兄弟喧嘩を始めると、ああやって頭を冷やさせるのよ」
「物理的に?」
やっと解説をしてくれたトリコに、小夜はそれは言葉のあやであろうと思いながら聞き返した。
「そう。意外と効果的みたいよ」
エフティーアの良相性が水だからというのもあると言われた。問題は多分そこではない。
「毎度毎度お前たちは同じものを取り合ってはいがみ合って! 少しは成長したかと思えば全然だ! 劣等感抱えたままいちいち相手を僻むんじゃない!」
水に打たれた勢いのまま項垂れ続けている王子二人を交互に指差して、エフティーアがぷんすかと怒鳴り散らす。最早そこに、いつもの丁寧さや冷静さは微塵も残ってはいなかった。
「自制できないのなら離れてろ! この話が終わるまでお前たちは接近禁止だ! 魔法も禁止! 分かったか!」
頭から湯気を吹きそうな勢いで怒りながら、エヴィエニスの手からふんっと剣をもぎ取る。行動は荒々しいのに、小夜にはもうエフティーアがお母さんにしか見えなくなっていた。
(大変なのねぇ)
ぶすくれた顔で部屋の両端に別れる兄弟を、しみじみと眺める。と、もう一人も程々に理解したようで。
「エヴィが叱られて……」
ふっ、と堪えきれずという風に口の中でそう溢すのを、小夜はしっかり聞いてしまった。しかしエフティーアのお陰で沈黙が戻った部屋では、その声量でさえ十分で。
「そっか、ファニの前じゃ初めてかー。子供の頃はしょっちゅう二人して水かぶってたんだけどな」
いてて、と言いながら、レヴァンが楽しげに相槌を打った。
「エフが普段敬語なのも、その方がボロが出ないからなんだよなー?」
「お前も水ぶっかけられたいのか?」
けらけら笑うレヴァンに、エフティーアがいつも以上に低く淡々とした声ですごむ。
(おっと、思わぬところで良い声が)
以前はエフティーアが受けと見たが、逆も悪くないなどと不謹慎なことを考える小夜である。
「水に濡れるならやっぱり女の子に限るよねぇ」
「…………」
「はい、黙りまーす」
金の沈黙――ではなく鬼の一睨みが効き、レヴァンが挙手で恭順を示す。エフティーアは、役に立たない男三人に見切りをつけて、改めてファニに向き直った。
「ファニ様」
「カティアよ」
間髪を容れずファニが訂正する。先程の一言はなかったことにするようだ。
エフティーアもまた今までのように馴れ合う気はないようで、厳めしい顔を崩さずに本題を切り出した。
「……あなたの処分をこの場で決定することはできません。陛下にお伺いを立て、然るべき手順を踏むことになるでしょう」
「前王兄ハルパロスの娘カティアとして? 大精霊の恩寵を受けて助かったと公表するの?」
「それは……」
「出来ないわよね。ただでさえ今上陛下は、亡き王太子から王位を横取りした血塗れ王と呼ばれているんですもの。今度こそ王弟殿下を引っ張り出されて、宮廷が真っ二つよ」
王兄の謀反を公表していないとなれば、確かに現王の正当性に疑問を持つ者は少なからずいたであろう。加えて第二王子の問題点が身体面だけなのであれば、血統を重視しようとする輩がいても不思議ではない。
「殺してしまえばいいわ。父や兄を殺したように。そして、またセシリィ様と婚約して頂いたらよろしいのではなくて? きっと慰めてくれ――」
パチン、と軽い音が、その先を断ち切った。
ファニはゆるゆると驚き、左頬に手を当てる。そして視線を上げた。
その瞳があまりに幼いものだから、小夜は真っ先に謝っていた。
「ごめんね? でも鉤爪で顔引っ掛かれたら痕残っちゃうし」
十五歳の新陳代謝は侮れないであろうが、傷はないに越したことはない。
だがのんびりとした口調とは裏腹に、小夜の手はバッサバッサと暴れるトリコを捕まえるので必死であった。
「どうして……どうして止めるのよ、小夜! こんな女、この女のせいでエヴィエニス様は……!」
グェーグェー! と、金の瞳に涙を散らしてトリコが責める。その声は引きつれ、鉤爪は大きく開き、飛び散る青や緑の羽がその心情をまざまざと表していた。
けれどそれを許しても良いことはないし、かと言ってファニの言葉を聞いても誰も喜ばない。折衷案として、小夜が代わりに手を上げたのだが。
「よしよし。でも、それは止めた方が良いよ」
「何も知らないくせに分かったような口を利かないで! あなたなんか……どうせ部外者のくせに!」
下ろした右手で頭を撫でようとしたら、パシリと翼で払われた。
けれどその直後、ハッと息を呑む音が聞こえたので、小夜は気にせず小さな頭を撫でた。
「でも、部外者だから分かることもあるよ? 例えば、相変わらずトリコはエヴィエニス様のために怒るし、ファニはファニで最後まで強がって最善を探るし、男たちは女心が分かってない」
「……小夜……」
困ったように笑う小夜に、トリコは先程の激昂をまごつかせてただそれだけを言う。そしてその先が続くよりも先に、呆然としたままだったファニが口を開いた。
「セシリィ、あなたは何を……誰と喋っているの?」
「あっ……と、これはその、親友第一号と、ちょっと」
平手打ちしたくせに軽く放置してしまった気まずさに、小夜は笑って誤魔化す。しかしそれで理解できるのはこの場ではルキアノスくらいで、ファニは警戒と困惑を強めてしまった。
「その鳥……、怒ってるの?」
「鳥というか……まぁ、怒ってるのは皆かな」
どうにか落ち着いたトリコを腕に抱え直しながら、成り行きを見守っていた男たちに視線を巡らせる。皆傷付いた顔をしている――と思ったら、一様にポカンとしていた。目を赤くしたエヴィエニスでさえ。
(……しまった、でしゃばりすぎたか)
わりと冷静なつもりの折衷案であったが、どうやら外したらしい。
大分優しくやったんですよ、という言い訳は今は恐らく要らないとみた。
だが冷や汗の小夜とは反対に、ファニの声は最も低くなった。
「怒ればいいのよ、全員。私の怒りを知ればいいわ」
「そういう言い方はさ、良くないよ。求める結果が同じでも、それじゃあファニだって悲しいだけだ」
「……何が言いたいのか分からないわ」
「うーん。頑固だなぁ」
ラピスラズリの瞳に頑なな拒絶が見えて、小夜は早速困ってしまった。
一度覚悟を決めた者の決意を翻すのは容易ではない。
しかも相手は多感な十五歳で、小夜は中身は三十路だが見た目は一つ年上なだけだ。恋敵の話など、素直に聞く方がおかしい。
「やり方も考え方も人の数だけあるってのはいいんだけど、それでもやっぱり、誰かの好意の結果を踏みにじるのは好きじゃないな」
「……好意、なんて、そんなもの」
ハッ、と蔑むように顔を歪める。それがあまりに痛々しくて、幼稚で、ついしゃがんで目線を合わしていた。
トリコが、そっと隣に降りる。
「記憶が混乱してるとき、本当は困ったとかの程度じゃなく、怖かったんじゃない?」
小夜は自分のことも状況も十分に自覚があったから困るぐらいで済んだが、それがなければきっと恐怖だったはずだ。
「自分が何者か分からないのって、すごい恐怖だよね。良い者か悪い者かも分からないし、分かったら分かったで周りは記憶と全然違うし、自分は恩人の敵かもしれないなんて」
深酒しすぎて記憶がない時と比べるのは情緒が無さすぎるが、翌朝の呆然ぶりと周囲の視線の怖さは半端ではない。
(……いや、たとえが最悪だな)
こんな大人になってはいけない。
それはともかく、そんな時、小夜だったらどうするだろうと考える。
相手が常識外の不審人物を助けてくれるような出来た人物なら、相談するかもしれない。けれどその人のことを好きになってしまったら、どうだろう。
「好きな人に嫌われるかもしれないと思ったら、誰だって必死で隠すよ。気付かれませんようにって、毎日祈るかな。それとも、知られても受け入れてくれるかどうか、何度もシミュレーションするかな。でもその度に心が折れるのは、辛いよね。だってファニは何にも悪くないのに」
「!」
その瞬間、ファニははっきりと形相を変えた。そして、
「知ったようなことを言わないで!」
初めて声を荒らげた。ずっと笑みを貼り付けて大人ぶっていた仮面がやっと剥がれる。けれどそこに痛快さは微塵もなく、自分こそが正論で追い詰めていると思うと、嫌気がさした。
「うん、ごめんね」
眉尻を下げて謝る。けれどここで引き下がったら、ただ傷付けて終わりになってしまう。だから続ける。
「だから知らないついでで勝手な憶測を言わせてもらうんだけどさ、折角王様が内緒にしてくれたのに、ファニがそんなんじゃ勿体ないよ」
「な、にを、言ってるの……?」
「だって王様は、死体を聖泉から引き上げようともしなかったし、探させようともしなかったんでしょ? それって、立場上は追いかけたけど、見逃せるのならそうしたかったからじゃないの? だって、不思議な水が光ったんだし、そりゃ期待もするでしょ。罪もない女の子を、どうか助けてって」
もしかしたら、建国神話に最後の希望を持って、聖拝堂に逃げるように誘導したのかもしれないとさえ、小夜は思った。
普通に町の外に逃げても、十五歳の深窓の令嬢に逃げ切れる宛も力もないであろうし、兵士に先に見付けられたら殺すしかない。生きて逃がすなら、王族しか入れない場所は最適だ。
「でもそれでファニが味わった恐怖が帳消しになったりはしないし、許さなくて全然いいんだけど……もう少しだけ、話を聞かせてよ」
殺す殺さないの極論ばかりじゃなくて、自分だけの思いを。好きな人のそばで、ずっと隠して悩んで、苦しんできたことを。
そんな思いで言葉を重ねたのだが。
「許す……?」
ファニが呆然として拾った単語は、それであった。星を散りばめた宇宙が、ぽとりと雨を降らす。
「許すのは、私じゃないわ……」
ぽとり、ぽとりと、大粒の滴がボロボロになったドレスを濡らす。けれどその涙を隠す手は背中で縛られているから。
「そっか。許してほしかったんだね」
小夜はそっと立ち上がって、その小さな頭を胸に隠した。
好きな人を諦めるために強がる女の子が誰かに涙を見られるのは、きっと嫌だろうから。




