やっちった
「……不思議ね。あなただけは、モノの見え方がまるで違うみたい」
しみじみという風に、ファニが零す。そこに先程までの無理に作った敵意はなく、棘が抜けたようであった。
「あー……、ついていけてなくてごめんなさい」
批判とは思わなかったが、部屋の空気が空気だけに、小夜は先手を打って謝った。常識を共有できていない以上に空気を読めていない自覚はある。
ちらりと盗み見ると、ファニは小さく苦笑し、ルキアノスは呆れていた。
「謝るくらいなら兄上の方にしておけよ」
「あ」
言われてやっと、確かに、と思う。
悪意があったわけではないが、あそこまで赤裸々に扱き下ろしておいて謝罪の一つもないのは、不敬罪以前に失礼千万であろう。
改めて、殺人光線を放つエヴィエニスに向き直る。
「すみません」
「――何を」
「でしたっ」
「……聞けばよかったんだ?」
「……はい?」
直角に下げた頭をちろりと上げて、エヴィエニスを見る。質問された気がする、と脳がゆっくりと理解すると同時に、小夜は静かに驚いた。
エヴィエニスは王太子として勉学も実技も優秀で、性格も真面目で実直だ。ゲームの中でもそうだったが、少し接しただけでも思慮深さと鋭い洞察力があることは分かる。だというのに、こんな簡単なことが分からないという。
どうしたものかと思いながら、小夜はずっと疑問に思っていたことを口にした。
「赤面する演技って、出来ると思いますか?」
「……何だと?」
「息を止めたり、怒りを堪えたりすれば出来るかもしれませんけど、それでも難しいと思うんですよね。特に、照れ笑いしながらっていうのは」
「ッ」
そう息を呑んだのはエヴィエニス、ではなくファニの方だった。その反応で、小夜はやっぱりと思う。
(知らないうちに十九年経ってたってことは、精神年齢だって育ちようがないはずだしね)
「だから聞くなら建前や事情じゃなくて、本心を聞けばよかったんじゃないかなと思います」
あっさりと当たり前のことを言う。当たり前すぎて、エヴィエニスはついに黙ってしまった。見かねたように、ルキアノスが葛藤を代弁する。
「でも、聞いても誤魔化されるだけだろ。さっきみたいに」
「それはそうでしょう。好きじゃないって必死に嘘をついてる女の子が途中で手のひらを返すのなんて、両想いの確信ができたときか、玉砕の覚悟ができたときくらいですよ」
そしてファニは、多分まだ迷っていた。そうでなければ、確信した上でエヴィエニスのために嘘を突き通すと決めたとしか思えない。
この結論は小夜の中ではほぼ決定であったが、男性陣の間ではまだ物議を醸すようだった。
「殿下。こんな女の言葉に惑わされてはなりません」
それまで眉間にシワを刻んで沈黙していたエフティーアが、苦々しげに忠言する。
「男冥利に尽きるってやつだよねぇ」
いつの間にか応急手当てをされたらしいレヴァンが、背中を庇いながら反対意見を上げる。
相変わらずの対極な二人に、エヴィエニスが取ったのは。
「あの時、お前は確かに記憶を失っていた」
目の前に座ったファニだけを見ることだった。
前屈みになり両膝に肘をついた格好のまま、南の海の瞳に宇宙を映して、二人が出会ったあの日を振り返る。
「知らない場所と、知らない顔に戸惑い、自分の名前も分かっていなかった。もし覚えていたというのなら、王族が祭事に出向いたあの日にわざわざ現れる危険を侵す必要はなかったはずだ」
祭事って何だと首を傾げていると、トリコがこそりと教えてくれた。
「聖泉の森は普段は立ち入り禁止で、年に数回ある祭事や神事にのみ許可が降りるの。あの日は十九年前の終戦の日で、穢れの浄化や平和祈念をしていたはずよ」
成る程、その祭事の最中にファニが光りながら現れたということらしい。
(そりゃ崇められるわな)
ファニは、やっと視線を合わせたエヴィエニスを数秒見つめ返してから、「……そうね」とその長い睫毛を伏せた。
「助けられてしばらくは、自分がどこの誰なのかも思い出せなくて、こ……困ってたわ。でも神学に触れ、歴史で聖泉の乙女や父や兄のことを知って……思い出したの。全部」
「……では、俺のせいか。お前を学校に行かせた」
強く慚愧しながら、エヴィエニスが金髪を掻き上げる。
その通り、ゲームの中で異世界に困惑するヒロインには王宮よりも学校の方が安全で有用だと勧めたのは、エヴィエニスであった。だがエヴィエニスがそうせずとも、この世界で生き続ける限り結果は同じであったろう。
「父や兄が何をしたかは、結局調べても出てこなかったけれど。あなたの側にいて……王妃になることが、最も真実に近付けるのは間違いないから」
「結局、利用したのだろう」
淡々と告白するファニにそう冷たく糾弾したのは、最早嫌悪を隠そうともしないエフティーアであった。
今までのファニであったらそれだけで震えてエヴィエニスの背に隠れたであろうが、幼い少女を止めた彼女はただ興味薄く一瞥するだけであった。
「そうね。あまり、役には立たなかったけれど」
「……悪女め」
ファニの小馬鹿にしたような言い回しに、エフティーアが忌々しげに悪態をつく。その様子に、小夜はすっかり手の平で転がされているなと嘆息した。上手く本題から逸らされて、質問が置き換えられている。
(でも、ここでまた口を挟んでさっきみたいになっても怖いしなぁ)
ルキアノスが殺人級の美声や蕩ける台詞を発さなければ、小夜にも程々の理性と常識はある。と遠い目をして沈黙を守っていると、ちょん、と腕を嘴でつつかれた。
「言えばいいじゃない」
「ん?」
「今さら小夜が遠慮したって、もう手遅れよ」
「ひどっ」
オブラートを知らない正論に、小夜がぶすりと声を上げる。
バッと全員の視線が釣れた。
敵意も露わに反論したのは、やはりエフティーアであった。
「何が酷いというのです」
「…………」
やってしまった、と思っても後の祭りである。
小夜は心の中でトリコにぶーぶー文句を言いながら、自分の言葉をまとめることにした。
「酷……いかどうかは、まだ分からないなぁと思って。ほら、エヴィエニス様の疑問にまだ答えてないじゃないですか」
「……それは、」
「意外ね、庇ってくれるの? セシリィは私のこと、最初から疑っていたのに」
エフティーアの反論を遮って、ファニが笑う。相変わらず、可愛らしい笑顔だ。
(でも、見せられるたびに悲しくなってくるんだよなぁ)
つい、眉尻が下がる。けれどそれが誘導だとも分かるので、先にこれだけは言っておく。
「断っておくけど、私はファニの味方にはならない。誰を優先するかは、ここにきた時にもう決めてるから」
トリコを不安にさせるのだけは嫌だった。
するとファニは、どこか羨望するように眼差しを細めた。
「そう。素敵ね」
「で、答えは?」
「内緒。……って言ったら、私は死刑かしら?」
おどけたような声に、怯えは微塵もなかった。
(なんだ、もう答えは出てるのかな?)
どうやら、またもや野暮をしてしまったらしい。
「いえいえ、全然。恋の始まりを暴こうなんて、そんな無粋な真似はいかんですよね」
両手を振って意思表示する。が、それを言下に否定する者がいた。
「いいや、死刑だ」
「で、殿下、さすがにそれは……」
エヴィエニスである。公明正大な正統派王子のまさかの職権濫用に、さすがのエフティーアも動揺している。
「言え」
「嫌よ」
即答であった。
あまりに突然の緊迫に、小夜は自分が当事者なのか部外者なのか分からずにおろおろしてしまう。
と、一拍の沈黙のあと、おもむろにエヴィエニスが立ち上がって、ルキアノスに近付いていく。そして、
「借りるぞ」
「は?」
言うなり手を伸ばして、ヨルゴスの腰の剣を引き抜いていた。ルキアノスが止めるよりも早く、その切っ先がファニの顎先に向く。
「これが最後だ。言え」
「実に紳士的ね。嫌よ」
にっこりと、にべもなく繰り返す。瞬間、白刃がヒュッと音を立てて後ろに引かれ、
「エヴィエニス様!」
ガッ、と蹴り落とされた。
悲鳴を上げたトリコが小さく息を飲む。
「!」
得物を失ったエヴィエニスは、手を押さえて背後を振り返る。
片足を床につく寸前のルキアノスが、呆れをたっぷりと乗せた目で兄を見ていた。
「……何のつもりだ」
「突けばいいだけの場面で振りかぶった馬鹿兄に言われてもな」
怒気を含んだ低声に、ルキアノスが呆れきった声で返す。
「確かに、諦めるのは良くないな。兄上がお手上げなら、オレが後を引き受けてもいいぜ。……どうせ、もう婚約者には出来ないしな?」
意味深に、ルキアノスが片目を眇めて口角を上げる。その後は、一瞬の出来事であった。
いつの間に拾い上げたのか、エヴィエニスがルキアノスの首めがけて剣を振りかぶり、突然現れた氷の短剣が直前でそれを食い止めた。ガッと硬質な音を立てて氷は削れ、破片が床に敷かれた絨毯に染みを作って消える。
「ルキアノス、お前……!」
エヴィエニスが唸る。ルキアノスは冷や汗を隠しながら嗤う。それを。
「男の嫉妬は醜い――な!?」
ざっぱーん!
「「!?」」
二人の頭上に撒き散らされた大量の水が台無しにした。
「…………」
「…………」
一瞬で濡れ鼠になった二人は見事に言葉を奪われ、ぽたぽたと滴の床を打つ音だけが雄弁であった。
「む……」
次いで隣でずっと静かに成り行きを見守っていたクィントゥス侯爵が、厳めしい顔で小さく声を上げる。
「致し方ありません」
それを何故かメラニアが、達観したような声で慰めていた。事を構えるもやむなしの覚悟で晩餐会を開いたと思ったが、どうやらここまでの被害は想定以上であったらしい。
だが問題は。
「え、ど、どういうこと?」
「水、の魔法?」
小夜とファニだけがこの事態を飲み込めていないことであった。まるでコントの盥のように落ちてきた水に、目を白黒させる。
救いを求めるように解説のトリコさんを見ると、
「久しぶりに見たわね」
先程までの必死さが嘘のように、気が抜けていた。しかしこれでは答えはさっぱり分からない。と思っていると、
「っいい加減にしろ、このコンプレックス兄弟が!」
耳を劈くような大音声が爆発した。見ればエフティーアが、顔を真っ赤にして肩を震わせている。怒りのボルテージが見えたなら、多分針は振り切れている。
「あーあ。やっちったー」
レヴァンが、実に愉しそうににやついていた。