ファニ
(……ちょいちょい。あのゲームってこんな話じゃなかったでしょうよ!)
誰とも分からない相手に現実逃避の突っ込みを入れる小夜の目の前で、ダン! と鈍い衝突音が上がる。レヴァンが背中を強か打ち、そのままずるずると床に倒れ落ちた。凹んだ壁にはヒビが走り、中央には筋を引く血痕がある。
「レヴァン!」
「動かないで」
駆け出そうとしたエヴィエニスを、ファニがすかさず手を掲げて制止する。
「出来るだろうなぁとは思ってたけど、これほどとはね……」
ずり、と上半身を引きずるように顔を上げながら、レヴァンが苦しげな声を誤魔化して笑う。それに視線も向けぬまま、ファニは艶然と微笑んだ。
「これでも王族の端くれですもの。血が濃いのよ、あなたよりも」
「それもそうか。おばさん」
にやりと口元を歪めたレヴァンの皮肉を、ヒュン、と風切り音が襲う。
「危ない!」
トリコの悲鳴と、ブワン! という鈍い爆発音が上がったのはほぼ同時だった。視界が濁る程の埃が舞い、一瞬レヴァンの姿を掻き消す。
「大人をおちょくるものじゃないわ」
そう言うファニは、やはり少しも背後を見ていなかった。
「レヴァン!」
「殿下!」
思わず呼び声を上げたのは小夜で、同時に上がった声は小夜の知らない声であった。
(殿下って、今の声……)
思考するうちに視界が晴れる。その向こうにいたのは、壁に寄りかかるレヴァンを守るように身構えたルキアノス、そして剣を抜き放ったヨルゴスであった。
それらを視界の端に捉えて、ファニが呆れたという風に呟く。
「動くなと言ったのに、誰も言うことを聞かないのね」
それを全員で警戒しながら、レヴァンがどうにか身を起こす。
「助かりました、ルキアノス殿下」
「こんなに大事にする気なら、先に一言相談しろ」
「それは、殿下が……」
振り返らずに文句を言うルキアノスに、レヴァンが困ったように笑う。だがその先は、エヴィエニス自身に遮られた。
「ファニ」
「私の名前はカティアよ。知ってるでしょう?」
「……お前の要求はなんだ」
「ふふ、もう忘れちゃったの? あなたの、命よ」
可愛らしい笑みを浮かべて、ファニの指がエヴィエニスの心臓を指す。その瞬間に歪んだ瞳を、小夜は確かに見た。だがそれも束の間、ファニの指から放たれた火炎が一直線に襲いかかった。
「「殿下!」」
「下がっていろ!」
前後からレヴァンとエフティーアの声を受けながら、エヴィエニスが眼前に氷の壁を織り上げる。そこからは乱戦だった。
蒸気を上げて溶ける氷壁を踏みつけてエヴィエニスが前に出る。その顔面目掛けて再び火の矢が走り、そのファニに向けて前後から水と風の刃が迫る。
狭くないはずの広間はたちまち視界が濁り、あちこちで皿や椅子の破壊音が派手に上がる。
二人が乗っていたテーブルもそれは例外ではなく。
「小夜!」
「トリコ!」
互いが互いの名を呼んで手を伸ばす。ジャンプしたトリコの体を抱き留めた、と思った瞬間、横から爆風が叩きつけられた。
「きゃあっ」
トリコを深く胸に抱き込んだ小夜の体が、抗いきれずにぶわりと浮く。その体を、上から強引に押さえられた。
「お父様!?」
胸の中でトリコが驚きの声を上げる。その通り、小夜の上には覆い被さるようにクィントゥス侯爵がいた。
「な、なんで……っ?」
「お前にはまだ、話を聞いていないからな」
大きな手に背中を押さえられながら、小夜の疑問に侯爵が低い声で答える。視線を上げれば、その前にはメラニアもまたドレスを風に揺らしながら立っていた。
(逃がさないように? それとも……)
だがそれをゆっくりと考える時間は、この場にはなかった。
「兄上!」
「殿下!」
ルキアノスとレヴァンの声が響き、と同時にズズ……と鋭い擦過音が鼓膜を這う。壁際に追い込まれていたエヴィエニスの頭上に、風の刃で斜めに切り落とされたドアの上半分がゴ……ッと落下する。
「来るな!」
エヴィエニスの拒絶の言葉に合わせるように、その金髪に触れる寸前で半分になった扉がボッと一瞬で消し炭に変わる。その灰が肩にかかるよりも早くエヴィエニスは駆けだしていた。
(早すぎて……ホントに呪文とか唱えてるの?)
目で追うのですら必死の小夜の疑問に、抱きしめたままのトリコが腕の中で小さく答えてくれる。
「殿下は火との相性が最も良いのよ。逆にルキアノス様の良相性は土だから、室内では有効打が少ないの」
成る程、道理で魔法の実技の時のような魔法を使わないと思った。
それでもエヴィエニスたち五人に対し、ファニはたった一人だ。何より王位に近い程魔法が強いのなら、エヴィエニスとルキアノスも条件は同じだ。実際、ファニは一方的に押されているわけではないが、ドレスはあちこちビリビリに破れ、頬にも服にも火傷や切り傷が幾つも生まれていた。
それでも、ファニは苦しそうな顔を無理に笑ませて、右手を翳す。接近したエヴィエニスの顔面目掛けて、ファニの手から放たれた水の塊が飛ぶ。それをエヴィエニスが片手で払いながら次の攻撃に移る――ことは出来なかった。
「!」
水の塊はそのままエヴィエニスの頭を包み込み、ぼこり、と呼吸を奪う。
「殿下、息を止めてください!」
その前にエフティーアが叫んで両手を翳す。エヴィエニスの頭を取り巻いていた水が激しく波打ち、ビシャッと音を立てて剥がれる――その雫が弾丸のようにファニに打ち込まれた。
「ッ!」
ファニが一瞬怯む、そこにレヴァンが風の刃を、ルキアノスが氷の矢を同時に打ち込んだ。両手を翳したファニを中心に再び煙霧が上がる。
ついに仕留めたか、と誰もが思った中、
「止めろ!」
立ち込める白煙の中にエヴィエニスが突っ込んだ。
「エヴィエニス様!」
「ダメッ」
飛び出そうとしたトリコを小夜が慌てて掴み直す。その小夜を更にクィントゥス侯爵が引き戻す。そのやり取りの間に白煙は徐々に薄まり、状況が見えてきた。
無残に荒らされた床の中、ファニは髪やドレスを氷の矢に縫い付けられて仰向けに倒れ、エヴィエニスはその上に覆いかぶさるようにして、握りしめた氷の矢をその首筋に押し当てている。
それなのに、エヴィエニスが勝ったのだ、という喜びが湧かなかったのは、こうなってもなおファニの笑みが消えなかったからであろうか。
「やっぱり、五人を一挙に相手取るのは、無理があったかしら」
「…………」
一回り以上体格差のあるエヴィエニスに両手足を押さえ付けられ、氷の冷気も感じているだろうに、ファニは嗤う。エヴィエニスは微動だにしない。
果たして、他の誰も口を開かぬまま、エヴィエニスが零したのは。
「……お前に、俺の全てをやると、誓ったのに」
苦しいばかりの声であった。
「エヴィエニス様……」
腕の中でトリコが届かぬ名を呼ぶ。小夜の位置からエヴィエニスの表情は見えなかったが、今にも泣きそうだと、小夜は思った。
(やっぱり、殿下はファニのことが本当に好きだったんだ)
たとえ素性が分からなくとも、嘘があると知っていても。復讐のために現れたのかもしれないと知ってさえ、エヴィエニスはずっとファニの側にぴたりとついていた。
あれは、ファニを逃がさないためでも警戒でもなく、ただ純粋に、そうしたかったのではないかと、小夜は思う。
(ファニは)
寮や学校で、ファニがエヴィエニスに寄り添い、背中に隠して手を繋いでいたことを、小夜は知っている。
(殺したい程憎い相手に、あんな顔が出来るかな)
それは多分に願望があると言わざるを得なかったが、それでもエヴィエニスの甘い声に照れるファニに嘘はなかったと思いたい。
けれど。
「残念。もう少し待てば良かったかしらね」
エヴィエニスの苦々しい声に、ファニはどこまでも軽口で返すのだ。
「王位についたエヴィエニスを民衆の前で殺して、私が聖泉を光らせる。完璧な演出だと思わない?」
挑発だ、と思った。今までの十五歳の仮面をとことん壊して潰して、魔女のような熟女を演じるような。それは単純で見え透いた手で、だからこそエヴィエニスには効果があった。
「……最初から、なのか」
絞り出すようなエヴィエニスの声に、ファニが瞳を細めて、ふふと笑う。
「最初からって、どの辺のことを言ってるの? 聖拝堂の聖泉に飛び込んだ時から? 死にそうに苦しかった時から? 知らない内に十九年も経ってたって気付いた時から? それとも……突然反逆者の娘だって言われて殺されそうになった時から?」
「!」
「あの時は、本当に怖かったわ。いつも優しくしてくださったテレイオス様が、血塗れのお顔で突然やってきて、父を匿っているだろう、ですって。リアナ様もご承知って聞いた時の私の気持ち、分かる?」
くすくすと笑うファニは酷く無邪気で、懐かしむような口振りから、従妹であった王妃とも親しかったことが窺える。だからこそ、そこに宿る憎悪は生々しく、痛々しかった。
「聖拝堂の聖泉はどんなに深くても限りがあるけど、上がれば殺されるんだもの。必死で潜ったわ。苦しくて苦しくて……でもどうして死ななきゃならないのか、結局最後まで分からなかった」
「……だったら、いつ」
「いつ、復讐を決意したか? それとも、いつ罪を自覚したか、かしら」
床に広がった黒髪を揺らして、ファニが身を捩る。ギ、と氷の矢が軋む。
「そんなことを聞いて何になるの? 私を殺す方法でも変わったりするのかしら」
「…………」
エヴィエニスは、もうそれ以上問いを口にはしなかった。何を聞いても無意味だと悟ったのだろう。ファニはエヴィエニスを嘲弄するばかりで、少しも本音を語りはしないから。
「殿下」
それを慮るように、遠巻きにしていたエフティーアが遠慮がちに声を掛ける。見ればレヴァンこそ床に座り込んでいるが、ルキアノスも、メラニアでさえ、二人を囲い込むように距離を詰めていた。
「ヨルゴス、何か縛る物を」
「御意」
警戒は解かないまま、ルキアノスがヨルゴスに命じる。ヨルゴスが剣を収め、半分になったドアから出ると、事前に事情を聞いていたらしい使用人たちがすぐに顔を出した。すぐに丈夫な縄がルキアノスの手に渡る。
「兄上」
だが、それにもやはり返事はなかった。
ぽたり、とエヴィエニスが握りしめていた氷が溶けて、ファニの頬に雫を落とす。
「エヴィエニス様……、もうそれ以上お聞きにならないで……」
小夜の腕の中で、トリコもまた堪えきれないように声を震わせる。
エヴィエニスがこれ以上傷付かないようにと願う心がひしひしと伝わって、やるせなくて。
「え、どうして?」
小夜は思わず声に出して聞き返していた。
シリアスだと出番のない主人公。




