正論は人を救わない
クィントゥス侯爵の低く渋いダンディな声には、背筋を震わせる威厳があった。その威厳に気圧されて、さすがの小夜も声優の誰かを連想して堪能する余裕を失った。
「お前は、既に決めたはずだ。王妃となることを」
ナプキンで口許を拭いながら、侯爵は続ける。
「そしてそれは、王太子殿下もご了承くださったはず」
「!」
ギロリと、眼光鋭くエヴィエニスを見る。だがそれは一瞬で、すぐに栗色の瞳が小夜のもとに戻ってきた。
「それをぽっと出の素性も分からぬ者に簡単に奪われ、簡単に諦める。更には実のない言葉を弄しての恥の上塗り。お前の決意とはその程度のものか」
「簡単なんかじゃないわ……!」
遠く、そう声を張り上げたのは、トリコが先であった。
「ずっと、ずっと……諦めてなんかない……!」
それは今にも擦りきれてしまいそうに苦しげな声であった。それまでもずっと堪えていただろうことが、ありありと分かる。
それもそのはずだと、小夜は思った。
(トリコが言わなきゃ、先にキレてたわ)
それくらい、侯爵の言葉は一方的であった。
だから、この言葉は小夜の冷静な怒りだ。
「その程度って、何ですか?」
睨み付けてくる栗色の瞳を、同じだけの冷たさで返す。
トリコをまた悲しませてしまうと思ったが、それでも問いたかった。
「簡単って、何ですか?」
「さ、小夜!」
「あなたは、セシリィが簡単に好きな人を諦めたと思ってるんですか?」
「……何だと?」
トリコの制止の声も、侯爵の訝む声ももう関係なかった。知っていてほしかったという思いばかりが、小夜の口を動かし続ける。
「セシリィはいつも、自分の中の信念に従って行動していました。ファニを怖がらせたのはさすがにやりすぎたと思うけど、それでも全ては殿下のためでした。あなた方が押し付けるような、王妃という地位のためなんかじゃありません。それなのにあなたは、セシリィが謹慎になった時、事情を聞きましたか? 聞いてないでしょう」
トリコから直接聞いたわけではないが、そのくらいは小夜でも分かる。
(だって聞いてたら……家族で話し合っていたら、私を喚んだりしないでしょ?)
それなのに、この男はセシリィの今後を決める場所に、仕事を理由に同席しなかった。それだけでも耳を貸さない理由には十分過ぎるというのに。
「知る努力もしないで簡単とかその程度とか、よく言えたもんですよ」
最後には、吐き捨てていた。侯爵の眼光が益々強くなっても、もうひるむ気持ちなどどこにもない。
「お前は、何を言って、」
「分かりませんか? 自分の娘のことなのに。それだけ、見てないって言ってるようなもんですよ」
「……よくも父に向かってそんな口が聞けたな」
ついに、侯爵が立ち上がった。豊かな眉を吊り上げ、今にも怒声を放ちそうな形相で小夜に指を突き付ける。
その意味を、小夜はもう正確に理解している。その上で、言い放った。
「それ、いま関係あります?」
冷静になれと自分に言い聞かせても、高ぶる感情に握り締めた拳が小刻みに震えるのはどうしようもなかった。
「今、私があなたに言ってるのは、セシリィの個人的な気持ちを理解しているかという話です。親子関係についてなんか、一言も言及していない」
「……そうか、それがお前の意見というわけだな」
「小夜……もういい……っ」
「良くない!」
絞り出すようなトリコの声に、小夜は堪えていた怒りが吹き出すのを抑えきれなかった。
「トリコが――自分の娘がこんなに苦しんでるのに、それを簡単にとか言った奴に何で引き下がんなきゃいけないの! セシリィがほんとはあの時泣いてたこと、私だけしか知らないのに!」
この世界に初めて来た時、目が腫れていると感じたのは、眠気のせいなどではなかった。
彼女があの夜、人目を忍んで準備を進め、泣きながら魔方陣を完成させたことを、小夜はもう十分に知っていた。
「セシリィの気持ちもちゃんと見ないで、王妃って形ばっかり押し付けて、苦しめて!」
バンッ、とついに我慢ならず、テーブルを叩いて立ち上がっていた。
魔法を撃つなら撃て、という言葉が、すぐ舌先まで出かかった時、
「おやめなさい、セシリィ。これ以上みっともない真似をしては、侯爵家の恥さらしですよ」
「……姉上」
メラニアが、呆れたような語調で割って入ってきた。例によって指がこちらを向いている。だがその言葉は、火に油であった。
「恥!? 他者の不理解を嘆き、理解を求める行為のどこが恥ずかしいの!?」
「名家の淑女が人前で声を張り上げることがです」
「そ!……れは、確かにそうかもしれないけど……」
小夜はあまりの正論に、思わず言葉を詰まらせた。正論だからではない。今この正論を持ち出すということが、つまりは小夜が何に怒っているのか、そんなことは二の次だと言っているようなものであるからだ。
(トリコは怖いって言ってた。こんなにも言葉を聞いてもらえないのは、怖いよね)
俯きかけた顔をキッと上げて、メラニアの冷たい瞳を睨み返す。
「正論は人を救わないって、知ってますか?」
「……何ですって?」
少しだけ取り戻した冷静さに、今度はメラニアの方が僅かに瞠目した。と同時に、ヒュン、と風音が鼓膜を揺らす。髪が何本落ちたかは、もう見なかった。
「小夜!」
トリコが羽ばたこうとして、ヨルゴスに止められているのが見えた。
トリコは言っていた。メラニアはいつも清廉潔白で完璧だと。そして小夜は、いっつも不出来だ。完璧だった記憶など数える程しかない。だからこそ分かる。
正論は、時に罵詈雑言よりも人を傷付け、追い詰めると。
「私が今言ったこと、聞いてくれていましたか?」
「聞いてましたよ。ですから、」
「今だけでなく、セシリィがあなたに訴えてきた今までのこと、ちゃんと真剣に向き合ってくれてましたか?」
「……論点をすり替えるつもりですか」
ヒュン、とまた髪が数本宙を舞う。
「伯母様、やめて!」
「論点? 論点って何ですか?」
「それは、」
「淑女らしからぬ行いですか? 王妃を諦めたことですか?」
「分かっているのなら、」
ヒュヒュン、と風が唸る。数本の髪がまた体から離れる――その前に足を踏み出していた。
「いま私が話してんのは、娘の話を聞けってことだ!」
「小夜!」
「バカ!」
トリコが暴れて飛び出し、その前にルキアノスが小夜を引き倒した。
「へっ?」
と間抜けな声を上げて、テーブル上の皿をガチャガチャと薙ぎ倒す。その上を、バォゥッと危険な音を立てて何かが通りすぎた。
(……焦げ臭い)
嫌な既視感に、小夜が冷や汗を垂らしながら視線を上向ける。
横向けになった視界に映ったのは、今まさに指先で黒煙の掻き消えたメラニアの鬼の形相、そして嘆息するクィントゥス侯爵。
そして二人を隠すようにーー否、二人の視界から小夜を守るように両翼を広げたトリコの背中であった。
クェェ……! と、犬が威嚇するような唸り声が沈黙の降りた室内に響く。
「大丈夫か?」
必死で現状を整理していると、右手を軽く引っ張られた。ルキアノスである。テーブル越しに小夜を引っ張って、火の魔法から守ってくれたようだ。
「あ、はい」
ルキアノスがいなかったら今ごろ丸焼けかと背筋を寒くしながら、どうにか頷く。同時に、何故助けてくれたのかとか、今の一言もまた短くも良い台詞だとかも過ったが、それに言及する時間はなかった。
「伯母様、ここまでするなんて……」
「姉上、やりすぎです」
トリコの怒りに震える声に、侯爵の低い声がかぶさる。しかしメラニアは、指を下ろすことなく不敵に口許を緩めて見せた。
「いいえ、結構なことです」
そして、続けてこんなことを言った。
「ようやく、正体を現しましたね。三人とも」
「…………誰のこと?」
意味深な、けれど心当たりのない単語に、小夜はついポカンと返していた。
正体を別に持っている者は、確かにこの場にいる。セシリィの中にいる小夜と、トリコの中にいるセシリィ。
(でも、三人って)
どういうことか、とメラニアの視線を見定める。彼女の栗色の瞳が見ているのは小夜たち二人と、そして――
「……ファニ?」
レヴァンによって片腕を押さえられ、強ばったエヴィエニスの視線を受ける、ファニであった。




