幸せに酔ったままで終わりたい
何となく書きたくなったので、一話追加しました。
読まなくても支障のない内容ではありますが……。
作者の趣味です。よろしければお付き合いくださいませ。
元の世界へと戻る空間魔法は、いつもの通りクィントゥス侯爵邸の地下室にて行われた。
行使者は家主でもあるセシリィ・クィントゥスと、その伯母メラニアが引き受けてくれた。
第二王子ルキアノスとの別れは、その前――秘密裏に侯爵邸に寄る直前に済ました。
聖泉の乙女として天上に還った(という設定の)小夜は、誰かにその姿を見られるわけにはいかない。
ルキアノスとしては王宮に招いて、ディドーミ大神殿と元・神の子イディオに奪われた日数分は共に過ごさなければ割に合わないらしいが、実際には逃亡中の犯罪者のようにこそこそと行動する必要があった。
「本当の功労者であるお前をこんな風に扱って、すまない」
「え? いやいや、功労者はルキアノス様の方ですって。私は別に何も……」
眉根を寄せて謝罪するルキアノスに、小夜は驚いて首を横に振った。
何もしていないどころか、思い返せば恥ずかしい言動の数々を繰り返していただけのような気がして、肩身が狭いくらいだ。今までのルキアノスの苦労を台無しにした上に、小夜にはそれを改善する術も策もない。
「次に喚ぶのは婚約式のつもりだったのに……」
ルキアノスが、実に悔しそうに歯噛みする。だがこれは馬車に揺られていた三日間でもう二桁は聞いた台詞でもあった。小夜は、まだ引きずってると思いながら苦笑するに留めた。
「少し、手立てを考える。時間が空くが……浮気するなよ」
「相手もいないのにそんな高等技術ができるわけないじゃないですか。無用な心配ですよ」
場を和ませるための冗談かなと、小夜はあははと笑って請け負った。
死にかけの羽虫を見る目で見られた。
「あの……、はい、絶対しません……」
小夜はすごすごと頭を下げた。
返る沈黙は数秒、そのあとには、呆れたような嘆息が続けられた。
「小夜」
「はい」
なんか怖いなと思いながら、ここは素直に返事をする。すると、ちょいちょいと手招きされた。
「…………」
小夜は高速で逡巡した。
先に断っておくが、この三日間、二人の間には特に何も無かった。
前回の召喚で両想いであることを確認した二人ではあるが、状況は馬車内で、御者には護衛の二人――シェーファとフィオナがいて、夜には立ち寄った町でも比較的賑わっている宿を借り、小夜の顔を見られないように細心の注意を払った。
その間ルキアノスがずっと腰に手を回していたり、事あるごとに抱きしめてきたり、甘い言葉を囁いてきたりはしていたが、特筆するべきことは何も無かった。
(何も、ないよね?)
もうクィントゥス侯爵邸は目の前にある。到着時間も、夕方以降になるように調整していたのか、車窓の外はもう暗い。今ここで近寄っても、きっと何もないはずだ。
小夜は軽くそう予想すると、そそっとルキアノスの隣に腰かけ直した。
近くなったルキアノスの横顔を、ちらりと見上げる。
真剣な眼差しをした鉄灰色の瞳と、目が合った。
それだけで心臓はすぐ高鳴るのに、次には男の人らしい武骨な手が、そっと小夜の右頬を包み込んだ。
「!」
「お前の世界の方が、時間の流れが遅いんだよな?」
「……はぁ。まぁ」
内心、口付けされるのではと身構えていた小夜は、拍子抜けしたようにそう答えた。
(そりゃそうだよね。別れ際にイロイロしても、余計に名残惜しくなるだけだしね)
期待と落胆が入り混じる感情をルキアノスに気付かれまいと、小夜は少し焦りながら自分に言い聞かせる。目と鼻の先にあるルキアノスの白貌が妙に色っぽいのも、伏せられた睫毛が妙に切なげなのも、きっと気のせいだ。
そう考えていたせいで、続く言葉に構えることができなかった。
「お前が、いつか、オレがいないと取り乱すくらいダメになればいいのに」
「!?」
脈絡の全くない不穏な単語に、小夜は声もなく目を剥いた。突然のヤンデレ気味な台詞に、胸が鷲掴みにされたかのようにきゅうきゅうする。
けれどその役得な台詞に舞い上がるには、眼前のルキアノスはあまりにも真剣だったから。
心の底から願うように、小夜を見ているから。
だから、小夜は何も言えなかった。是とも否とも、冗談として混ぜ返すことも。
(だって、私はそんな風にはなれない)
恋に恋する乙女には、もうなれない。何かに夢中になっても現実はいつもすぐそばにあるし、がむしゃらになれても、頭の片隅は常に冷めている。
きっとこのまま「さよなら」を言われても、小夜は笑顔で「さよなら」と返せるだろう。離れたくないなどとは、決して叫ばない。
まるでその心の声が聞こえたかのように、ルキアノスの目元がふっと緩んだ。
「お前はきっと、そんな風にはならないんだよな」
「…………」
それは単に、小夜の方が別離の時間が短いからとか、愛情が少ないからというわけではないことは、互いに承知していた。それが年の差なのか性分なのかは、小夜にも分からないけれど。
「……ごめ」
「なぁ。キス、してもいいか?」
「!!」
ぶっ飛んだ。んなさいがどっかに行くくらいぶっ飛んだ。
一度は伏せた目を小夜は再び限界まで見開き、そして後悔した。今すべきは、目を瞑って両耳を全力で塞ぐことだった。
けれどそれを許さないように、ルキアノスの左手が耳たぶを、右手が小夜の左手の上に重ねられる。
「ずっと我慢してたんだ。一度したら、止まらなくなる自信があったから」
そう囁く間にも、ルキアノスの熱い吐息が小夜の唇を濡らす。何の自信だと言い返す力は、早くも消えていた。
「でもやっぱり、お預けくらったままじゃ……離してやれない」
語尾を震わせる低めた声が、小夜の大好きな声が、甘く辛そうに囁く。耳に媚薬でも流し込まれたような気分だった。
それだけじゃなく、骨ばった指が触れた耳はぞくぞくするし、掴まれた左手は心なし力が入っているし。
「……はい」
小夜は、そうとしか言えなかった。
受け入れるように瞼を下ろせば、じれったくなるほどゆっくりと、唇に温かい熱が押し当てられた。
確かめるように、味わうように、二度、三度と唇を重ね合わせる。合間に零れるルキアノスの吐息があまりに艶めかしくて、益々頭の芯がぼうっと痺れる思いだった。
蕩けるように幸福で、他には何もいらないと思えるほどに満たされて。
唯一自由な右手が、小夜が無意識に抑えている望みを暴くようにルキアノスの胸に触れていた。
そんな中だからこそ、ずっと頭の片隅にある冷静さが、余計に小夜の心を無情に乱れさせた。
(もう、二度と会えないかもしれないのに)
天上に還った聖女・小夜は、この世界にはもういられない。この結末が、小夜には父であるテレイオス国王が、息子に見込みのない恋を諦めさせるためでもあったように思えてならない。
もしそうだとすれば、たとえルキアノスがどんな手を使おうと、もう二度と召喚は行われない。
だから、小夜はいつルキアノスがそう切り出すか、その時になんと返すか、ずっと考えていた。
けれどルキアノスは、とうとう一度もその可能性について言及しなかった。それは取りも直さず、ルキアノスでもどうしようもないことだ考えているからなのではないか。
(だから、ずっと『我慢してた』……のかな)
終わる恋に口付けなんて、冗長な虚飾だ。考えれば考えるほど、体の中心が冷めていく。
でも、ルキアノスが去るまでは決して気付かれたくない。
幸せなままで、幸せに酔ったままで終わりたいから。
「小夜。必ずまたお前を呼ぶからな」
体を離し、馬車を降りる直前。
「オレのことを、好きでいろよ」
ルキアノスが、優しい声と眼差しで、そう言った。
「……勿論です」
小夜は、自信満々の笑みで請け負った。
一つ目の言葉には何も返せなくても、二つ目の言葉には、永遠を誓える自信があったから。