天上に還られた
最終話となります。
少し長くなってしまいましたが、良ければお付き合い下さいませ。
神の子は、新たに現れた本物の聖泉の乙女と天の御使いに導かれ、ついに天上に還えられたという噂が、数日の内にカノーンの町全体に行き渡った。一月もすれば、北部のめぼしい町や村にも噂は広がるだろう。
神の子の奇跡を求めて旅をしてきた人々の落胆ぶりは凄まじかったが、一方で、神の子はもう三十年もあの幼い姿で聖泉の乙女が現れるのを待っていたのだという話も広まった。善行を積み続け、ついに念願が叶ったのだと、カノーンの町の人々は更に信心を篤くした。
それは神殿に拾われて十三年間、当たり前に成長していた時のイディオを知る者たちが密かに、けれど積極的に広めていたことは、身近な者だけが知ることだ。
「最初から考えていたんでしょうか?」
王都へと帰還する馬車にルキアノスと対面で座りながら、小夜はずっと気になっていたことを口にした。
ルキアノスが、トリコを真剣に観察していた瞳を上げる。
「最初というのは?」
「ほら、神殿長様と国王陛下は、今回のことをまるっと仕組んでいたって言ったじゃないですか」
白の広間で、ルキアノスが神殿長に詰め寄ったことを思い出す。
あの後も少し話を聞いたが、国王が神殿に対して不利な施策を上げたり、対立司教を送り込んだりしたのも、神殿長に話をつけた上での合意的な敵対行動だったのではないかとは、ルキアノスの見解である。
その上で、神殿長がトリコを利用して小夜を召喚し、イディオに引き合わせるまでが計画のうちであるなら、小夜をどのように利用しようとしていたのかという点が気にかかる。
トリコを最初から天の御使いだと確信していたなら、何となく分かる。だがファニを聖泉の乙女として軟禁していた点からも、そこまでの確信はなかったのではないかと、小夜は思っていた。
「保険の一つだろ。どう転んでも自分だけは損しないように、目的を果たすことができるように幾つも仕込んでいただけだと思うがな」
相変わらず、長い反抗期のような私見である。
表面的には否定のしようもないが、小夜はそれだけでは少し据わりが悪いような気もしていた。
「そう、でしょうか。なんか、考えれば考えるほど、神殿長様は最初からイディオを解放するためにファニを呼んだんじゃないかなぁって思えて。そこに私が現れるとなると、今度は陛下がファニを普通の……というか、元の女の子に戻してあげられると思ったんじゃないかって気がしてきて」
小夜は元々この世界の人間ではない。何かしらの現象や人物を利用して、イディオもともに天上に還るという演出は、魔法を使えば非現実的ではない。
そしてこれが成功すれば、ファニは聖泉の乙女でなかったという副次的な結果も得られる。そうなると神殿から狙われる理由がなくなり、エヴィエニスとの婚約も障害が一つ減ると言える。
「……どのみち、小夜を利用して、犠牲にして、最後には使い捨てるつもりだったってことだろ」
「うーん。そんなに悪意はなかったと思うんですけど」
納得も称賛もしたくないと言いたげなルキアノスに、小夜は苦笑気味に頬を掻く。
自分で言いながら、小夜も適任と言えばこれ以上の適任はないなと改めて思った。複雑な生い立ちの二人よりも、元々この世界に存在しない者の方が消しやすいのは当然のことである。
それで二人の若者の未来が開けるなら、利用されるくらい大したことではない。
「でも、あの時はさすがに肝が冷えました。二人っていうから、てっきり私とルキアノス様のことかと」
大精霊クレーネーに訂正しに行くために聖泉に向かったあの日。神殿長が消すと言った二人とは、小夜とイディオのことであった。
二人の姿を物理的に見えないようにして、一時的にカノーンの町中に避難させるために、フィイアに姿を眩ます魔法をかけるようにと指示したのだ。
どうやらフィイアは事前に聞いていたらしく、あの時に聞いたのは、「イディオを消せば、神殿は神の子という奇跡を失うが良いのか」という意味合いだったらしい。
「まぁ、消すというわりには敵意がまるでないとは思っていたが」
ルキアノスが頬杖をつきながら応じる。
あの後、ルキアノスは神殿長とフィイアの三人で司教館に戻っていった。
一方、魔法をかけられたイディオと小夜は反対側を進み、カノーンの町中に続く道を辿った。小夜には魔法は効かない可能性もあるからと、ルキアノスから借りた外套を羽織って進むと、案の定クレオンに見付かった。
クレオンは、ルキアノスが全力で振られた演技をしていたという話をしながら、小夜とイディオを隠れ家に連れていってくれた。
(どんな風に嘆いていたのか、すんごい興味があるんだけど)
一度その話を振ったことがあるが、冷ややかな眼差しで拒否されたので諦めた。今、馬車にクレオンが同乗していないのはそのせいではないと思いたい。
「クレオンさんは、後から来られるんですよね?」
「イディオとフィイア先生の用意ができ次第と言っていたから、もう出たかもしれないな」
現在、二人が乗る馬車にはトリコの他、馭者台にシェーファとフィオナがいるだけである。
ちなみにルキアノスが引き連れてきた軍隊は、国王の軍隊と合流して別に帰還している。
「本当に学校に通えるといいですね」
白の広間で、フィイアがイディオに言っていた言葉が甦る。
フィイアがこの結末を迎えるために神殿長と国王に協力していたのなら、学校に通うという話も既に実現できるように具体的な手回しをしていても不思議ではない。
もしかしたら、王都のタ・エーティカ専学校に入学するかもしれない。あそこなら、フィイアが臨時ながら教師として側にいられる時間も増える。
(そういえば、本当は何歳だったんだろ?)
結局聞けずじまいであった。
だがどちらにしろ、随分小生意気な後輩になることは間違いないであろう。同級生に同情してしまう。
「嬉しそうだな?」
「はい?」
突然ぶすりと言われ、小夜はぱちくりと目を瞬いた。イディオの学生姿を想像して、知らずにやけていたらしい。
「そりゃぁまぁ、誰も傷付かなかったみたいだから、良かったなぁと」
「オレは大いに傷付いた」
「へ?」
どこまでも真面目に言われたが、小夜は何のことかさっぱり分からなかった。という考えが筒抜けだったらしい。ルキアノスは顔をしかめて言葉を続けた。
「オレは、半ばは本気で求婚に行ったんだ」
「え、うそ……」
言いかけて、あっと続きを飲み込む。
ルキアノスのことだから、父王の言いなりになるのは癪と、最初から破談にさせるつもりで乗り込んできたとばかり思っていた。その証拠に、振られるつもりがあったことを匂わせていた。
だが目の前のルキアノスが明らかに落胆していて、とても混ぜっ返す雰囲気ではなかった。
「それを、二度も断りやがって」
「そ、その節は大変申し訳ありませんでした……」
思えばきちんと謝罪していなかったと、遅まきながら頭を下げる。公衆の面前であんなに拒絶しては、王子でなくとも体面が傷付いたのは確かである。
と思ったのだが、傷付くの意味はそちらではなかったようで。
「分かってないだろうから言うけどな。小夜が天上に還ったってことにされたら、そもそも第二王子との結婚もできなくなるってことだぞ」
「……あ」
確かに分かっていなかった。だが言われてみればその通りである。
次に会うのは婚約式とまで断言するほどに根回ししていたルキアノスなのに、世間的にはその相手が存在ごと消えてしまったのである。
「折角、すげぇ苦労して誕生会のお披露目まで漕ぎ着けたのに……」
全ては水の泡である。今後は召喚されても、ルキアノスの想い人として公然と目立つわけにはいかなくなってしまった。
(あちゃぁ……。そんなこと、思いもよらなかった)
盲点というべきか、考えが足りないというべきか。
トリコは天上からの使いだから行き来しても不自然ではないらしいが、聖泉の乙女は還ってこない。小夜が今後ルキアノス近辺で活動するには、何かしらの口実か工作が必要になってくるであろう。
(でも、神殿も国王様も反対なら、誰も協力してくれなさそう)
はっきり言って望み薄である。こんなことなら、誰かに恩を売るか、弱味の一つや二つ見付けておくべきだったかもしれない。
「あの……本当に色々と、すみませんでした」
イスヒスの一件はきっと使い物にならないだろうなと思いながら、深々と膝に額を押し付ける。
小夜が神殿に囚われることは必要事項だったと今は思えるが、それでもルキアノスにかけた心配や迷惑は言葉一つで清算できるものではない。
一体今度はどんな要求をされるだろうかと、内心戦々恐々としていると、
「別に、謝ってほしいわけじゃない。ただ……」
ぽつりと、そんな言葉が返ってきた。それは少しいじけたような、思案げなような、どこか定まらない声であった。
だが続く声調がそっと低まったから、小夜は少なからず身構えることができた。
そろそろと顔を上げる。
鉄灰色の瞳が、小夜だけを見ていた。
「小夜の本音を知りたい」
それは小夜の魂を震わせるような、確固たる声であった。
来ると思っていたけれど、やはりぞくりと肌が粟立った。
(その声はずるいんだってば……)
けれど今ばかりは、大好きな声に流されてはいられない。
小夜はついに、ずっと考えていたことを言葉にする覚悟を決めた。
「……私は、やっぱり、ルキアノス様のこと、好きです」
ぽつりぽつりと、ずっと心の真ん中にある真実を再確認する。
階段の間でも改めて感じた、大事な気持ち。
まだ、揺らいでいない。
だから、言える。
「でも……まだ、結婚はしたくありません」
言えるけれど、怖気に似た何かが全身を駆け上がった。
本心だからこそ、それは決別に最も近い。怒らせるとか悲しませるとか以上に、二度と会えなくなるかもしれない恐怖。
けれど、今このタイミングで結婚について聞かれれば、小夜にはそう答えるしかない。
出会って一週間。
好きだと自覚して一週間。
好き合っていると知って一週間。
こちらで過ごした期間も含めればもう少し長いが、それでも半年もない。たったそれだけで、二十八歳の女が、十九歳の未成年と結婚に踏み切れるものだろうか。
ビビッときたという者なら、できると答えるかもしれない。あるいは、愛こそ全てといえる情熱的な者ならば。
けれど小夜は、そんな人間ではない。掴んだばかりの愛に妄信的にはなれないし、結婚には夢より不安が先立つ。
(ごめんなさい、とは……まだ、言いたくない)
それは終わりの言葉だ。小夜はまだ、終わりたくはない。それがとても狡いことだと、百も承知の上で。
だから、真っ直ぐに小夜を見るルキアノスのあまりに綺麗な双眸を、必死で見つめ返した。
「……何故だ?」
「理由は……色々あります。世間体とか常識とか倫理観とかの建前も勿論ですが……」
言いながらも、既に手が震え出していた。
それでも、ルキアノスの問いかけにはまだ、怒りや悲しみは感じなかった。だから、小夜は続けられた。
「一番は……やっぱり、怖いです」
美しい鉄灰色の瞳を見つめて、小さくちいさく、息をこぼしていた。
自分の弱さに、つい苦笑気味に眉が下がる。
「目に見えないものを信じるのは、怖いです。自分の気持ちも、ルキアノス様の気持ちも。ましてやそれが、何十年も先のことなら」
「信じさせてやる、と言ってもか?」
ぐっと、ルキアノスがいつかのように身を乗り出した。小夜の膝の間に、ルキアノスの膝が割り込む。
鼻先が触れ合い、二人の距離がゼロになる。眼差しが瞳を穿ち、吐息が唇を濡らす。
けれど、その唇は触れ合わない。
「信じるのは、私自身です」
日常の、ほんの些細なことですぐに揺らいでしまう自分を信じるのは、いつだって難題だ。
それを少しずつ支えてくれるのは、ルキアノスの愛か、ルキアノスへの愛か。
それはまだ、分からない。
「……そこで頷くような女なら、こんなに苦労してない、ってな」
果たしてルキアノスが、何故かとても優しく、そう微笑んだ。
どきりと、今更になって心臓が大きく脈打った。どくどくと血流が激しく全身を駆け巡り、体のあちこちがぽつぽつと熱を帯び始める。
(……好きだ)
諦めないでくれることが、見捨てないでくれることが、小夜の存在を肯定するようで、堪らなく嬉しい。勢いでも状況でも知的好奇心でもなく、確かなものだと信じられる、その一歩を見たような気がして。
(好きだなぁ)
馬車の揺れもものともせず、優雅に席に戻るルキアノスを見詰めながら、何度も思う。きっと、これからも何度も思うだろうこの気持ちを、宝物のように抱き締める。
「……それに」
と、ルキアノスがやっと小夜から視線を外して、傍らのトリコを膝に抱き上げた。
「阿呆親父よりも先に、この奇々怪々な鳥を納得させなきゃならないらしいことが判明したしな」
「あ」
言われて、小夜も思い出した。
思えば、最終的に小夜とルキアノスの結婚に異議を唱えたのはこの珍妙な鳥であった。血の繁殖において妥当ではないという、いわゆる血統問題である。
「そう言えば……どうなるんだろう?」
首を捻ってみるが、よその世界のことも分からないのに、天上の使者の説得など端緒も掴めない。
しかしトリコを真正面から睨みまくっているルキアノスは、何故か自信に満ち溢れていた。
「絶対に善しと言わせてやる!」
「クェー」
「仲良しだねぇ」
標的がトリコに移ったことで、小夜はやっと安堵の息を吐く。やはりいくら慣れたとはいえ、ルキアノスの美声と美貌を間近で浴び続けるのは大変な労力を要するものである。
などと思っていたのがいけなかった。
「隙あり」
「?」
フッと視界に影がかかる。と思ったら、口の端にチュッと唇が触れた。
「ッッッ!!?」
何故いま!? 何故そこ!? と目を白黒しながら、小夜は背後の壁に張り付いた。
犯人は既に席に戻り、いかにも満足げな様子で足まで組んでいやがる。そのにやつきに隠れた頬の赤みに気付いて、小夜は益々羞恥心を呼び起こされた。
最早顔は真っ赤で脳は沸騰寸前で、言いたいことはまるで声にならない。
王都までは、あと三日。貞操と自制心を大いに心配する小夜であった。
ここまで読んで頂き、ありがとうございました。
イデオフィーア編(と言いながら『イデオフィーア』は出てこなかった……)はこれにて終了となります。
色々と消化不良な面も多々あるとは思いますが……温かい目で読んでいただければ幸いです。
また、本編で書けなかったことを書けそうでしたら、投稿するかもしれません。
改めて、ありがとうございました。