聖泉エレスフィ
「……本気でついていく気か?」
二人で納得し合っているイディオとフィイアを横目に見ながら、ルキアノスが小夜にそう耳打ちした。
「自分の失言が原因ですしね。大丈夫です、自分の尻拭いぐらい自分でします」
心配をかけてはならないと、からりと笑う。
本音を言えば今すぐ元の世界に送り返してくださいと言いたいところだが、そこまでの無責任を働いてのうのうと生きていけるほど無神経を極めてもいない。
それに、逃げる前に出来ることを精一杯するくらいなら、万年運動不足の腐女子にも出来る。
「……トリコは絶対に離すなよ」
「? 別に、いいですけど」
珍しく脈絡のないこを言うルキアノスに、小首を傾げながらも頷く。イスヒスがトリコを連れてきてくれれば、どうせトリコの居場所は小夜の肩か腕の中である。
「いざとなればその場で送り返す」
「え!? 一人で出来るんですか?」
「お前の世界には無理だが、侯爵邸か、それが出来ずとも森の外か……ともかく、逃がす」
「そんなの――」
ダメですよ、と言おうとした時、扉の向こうから声がかかった。
「お連れしました」
イスヒスである。
肝心のトリコはというと、何故か頭の上に留まっていた。心配していた羽毛は、ひとまず保持している。
「トリコ? 何でそんな所に」
「クェー」
入室した途端、トリコが羽ばたいて部屋の奥――クレオンの近くにあった側机に留まった。どうも、微妙に距離を取られている気がする。
(まさか、怒ってるのかな?)
正体を知る前ならばそうとも取ったが、あのトリコである。幾分げっそりしているように見えるのも、気のせいに違いない。
ということで、早速本題に入る。
「トリコ。一緒に聖泉に行こう」
側机まで近寄り、おいでと腕を伸ばす。しかし反応がない。
「トリコの可能性に私の未来がかかってるんだ」
「…………」
ビー玉のような金の瞳が、じっとりと細まる。さすがに意味が分からなかったかと、簡単に事情を説明しようと言葉を探す。
だがその前に、トリコはその嘴を開いた。
「我々は小夜を監視しているが、その生命の与奪については天上の秩序に抵触しない限り関与しない」
「……ん? いま何気に怖いこと言った?」
「…………」
「あの、ちょっと助けてほしかったんだけど」
「救助が必要なようには見受けられない」
「…………」
この台詞に、小夜はそろそろ確信した。
これは腹いせではないか、と。
「あの、トリコさん?」
「…………」
「……怒ってる?」
「我々に感情はない」
返されたのは、やはりいつもと少しも変わらない、平板な声であった。鳥の表情からも変化は読み取れないが、それでも分かるものはある。
「ごめんね。悪ふざけが過ぎました……」
群がる神職者たちの前に放り出してしまったことを、小夜は今更ながら謝った。天上の秩序を維持するだけのシステムだから何も気にしないと考えるのは間違いだと、ちゃんと知っていたのに。
「大変だったね。怖かった?」
「……クェー」
もう一度両手を伸ばすと、トリコは小さく鳴いて右腕に留まった。もしかしたらこの側机に留まったのも、クレオンがどうのというよりも、反対側に集まった神服たちが嫌だったということかもしれない。
「可愛い奴め」
「……我々は、目的を持たないヒトの主観において回答をしかねる」
「はいはい」
◆
大神殿長クリストドゥルは、部屋を出る前にイスヒスに伝言を託した。
「居場所を尋ねられたら、こう言いなさい。『神の子と聖泉の乙女は、聖泉に行かれた。全ては天の御使い様のお導きである』と」
小夜などは随分仰々しい言い方だなと思ったのだが、イスヒスは丁寧に低頭した。
「御意に」
部屋を出ると、神殿長は前室にいたフィオンにも同様に告げて下がらせた。
同じく御意と承ったフィオンの様子からは、彼らがずっと沈黙していたのか、少しでも会話があったのかは感じ取れなかった。けれどフィオナは彼を引き留めなかったから、小夜もルキアノスも何も聞かなかった。
そのあとも、神殿長はこれを会う人ごとに繰り返した。
そうして再び司教館の一階に戻ると、その場にイスヒスとクレオン、フィオナ、シェーファを残した。聖泉へ向かうのは、イディオとフィイア、小夜とルキアノスとトリコ、そしてイスヒスから法具を借り受けた神殿長の面々である。
一行は角灯を二つ用意し、外に出た。雪は止んでいたが日は既に沈み、残照が樹冠をほんのりと染めていた。
半円の石門をくぐり、薄暮に沈む森の中へと向かう。先頭は、なんと二本の鍬を自ら担いで運ぶイディオである。
重たげな神服はとっとと脱いで、既に最初に見た簡素な服に着替えている。お陰で緊張感が微妙にそがれた。
だがそれも、聖泉エレスフィに辿り着けば否応なしに高まった。
イディオは聖泉の前に立つと、自前のナイフで指先を切りつけ、躊躇うことなく水の中に身を投げた。
森陰の薄闇の中、水面が淡く光るさまは、白の広間にあった大精霊クレーネーの絵画を思い出させて、ひどく儚げで蒼然として見えた。
だがイディオの姿が完全に沈み、さざ波が徐々に小さくなっていくと、それに比例するように不安が広がった。それは残る四人も同じようで、皆無言でまんじりと見守った。
そうしてざっばん、と岸に上がったイディオの第一声は、
「………………クソが……!」
であった。
その据わりきった目と、地底を這うような低い声に、小夜はひょえっと震え上がった。だがフィイアは、声もなく駆け寄るとずぶ濡れの弟に構わず抱きついた。
「イディオ……イディオ……!」
くぐもった声でそう呼ぶばかりで、何かを確かめるでも聞くでもない。それでも、イディオがそれを振り払いもせずその肩に額を埋めている姿に、トリコの新たな可能性も鍬も必要なくなったことだけは分かった。
そうして、少しの時間が微かな嗚咽とともに過ぎた頃。
「ついに御姿を拝見できるかと思ったのじゃが、残念じゃのぉ」
神殿長が、なんとものんびりとそう言った。病弱高齢を装っている神殿長が何故ここまで同行したのかと思っていたら、成る程そういう期待があったらしい。
(トリコに群がったりしないから、もうすっかり達観してるのかと思ってたけど)
意外にも違ったらしい、などと呑気な感想を抱いていたら、目が合った。と思う。実際には白眉の下に隠れて見えないけれど。
だがそんなことは、次の一言に吹き飛んだ。
「さて、フィイアよ。二人を消す用意は良いかの?」
「へ?」
消すとは何のこと、と問うよりも前に、ルキアノスが小夜の前に立ちはだかった。イディオの体を拭っていたフィイアが手を止め、ゆらりと立ち上がる。
その顔は、今までで一番困惑しているように、小夜には見えた。
「……宜しいのですか?」
フィイアが、小夜を注視したまま問う。
「くそ、油断した……!」
武器を持ってくれば、と呟く声に、小夜は真冬の寒さだというのにじっとりと嫌な汗を感じていた。
神殿同様、司教館も武装は禁止だった。ルキアノスも挨拶の前に預けて、そのままここに来たのだ。
対抗するには魔法があるが、フィイア相手にそれが頼みの綱となるかは甚だ疑問であろう。
小夜は、ルキアノスの強張った背中にしがみついて声を震わせた。
「け、消すって何ですか? 精霊さんは分かってくれたんじゃないんですか? 何で、こんな……」
こんな人気のない所で、と続けようとして、小夜はぞっとした。ここは人目につかず、限定された人物しか出入りができず、犯行には最適ではないか、と。
「分かってくれたからじゃろう?」
まるで用済みだと言わんばかりに、神殿長が問い返す。
「始まりの聖泉の乙女も還られた。何の不思議があろうか」
「不思議って……じゃあまさか、最初からこうするつもりで……」
「全ては、天の御使い様のご意志じゃて」
うむうむと、やはりどこか呑気に神殿長が頷く。
フィイアが、躊躇を振り切って小夜に手を伸ばした。
拗ねたトリコに、思いの外分量を取られた……。