血が引き金
小夜は、そろりと顔を上げた。
フィイアに掴まれていた腕を振り払いながら、イディオが小夜を睨んでいた。
「なんで、そんな期待を持たせるようなことを言うの?」
それは、酷く淡々とした声であった。怒鳴るでも嘆くでもなく、ただ失望と呆れがある。だからこそ、その言葉は小夜の胸を鋭く抉った。
だって、その通りでしかなかったから。
「……ご、ごめ」
「訂正する? 先祖の――あの愚かな女の願いを? もうやめてって?」
謝罪など聞きたくないとでもいうように、イディオが続ける。その緑眼が、柔らかく細められる。
「今まで、ぼくがそれを願わなかったとでも?」
「……っ」
その表情は、まるで泣き笑いであった。お前はなんて愚かなんだと、小夜を責める。
「ひどい……酷い暴論だよ」
その声があまりに幼子じみて、小夜はたまらずその肩に手を触れていた。ふわふわの赤毛に隠れてしまいそうな顔を恐々と覗き込む。
「ご、ごめん。本当にそんなつもりじゃ……イディオ、な、泣かないで?」
「じゃあ、埋めよう」
「え」
思わぬ反撃に、小夜の良心が一旦停止した。
「ぼくと一緒にエレスフィを埋めにいこう? 今から」
「い、今から?」
「そう。小夜はぼくの聖女だもんね? あ、天の御使い様もお連れしよう」
また幼い外見に騙された、と気付いた時には遅かった。何でもするとまでは言わなかったが、既にその一歩手前まで来ていることは明白であった。
(またやってしまった……! 中身は絶対もっと年上なのにっ)
背後のルキアノスが、言質を与えるなと無言で睨んでくる。神殿長は思うところがあるのか静観を決め込んでいるし、フィイアは先程から考え込んでいる。
ここで頷いたら破滅である。
「……っとぉ……で、でも、そのぉ……」
小夜は滝のような冷や汗を流しながら目をキョロキョロと泳がせた。最早狭い海峡なら渡れるくらい泳がせた。
今のイディオの言葉が小夜を嵌めるためだったとしても、それが全くの演技かといえば、恐らく違うのだ。イディオは小夜に失望したし、利用できるからまだ笑うのだ。
きっと、これ以上の説得など意味はない。
しかしである。小夜も(多分)人生がかかっている。
小夜は無意識に退いていた足に走ったピリッとした痛みに、縋るように訴えていた。
「あ、足が! まだ痛いっていうか!」
「足?」
唐突な単語に、イディオが首を傾げる。
先に理解したのはイスヒスであった。
「あぁ、そう言えば……まだ血が出るのか?」
「そう! そうなんですよ、イスヒスさん!」
イディオと出会った時、小夜は森で逃げている際に靴が脱げ、足の裏を石や小枝でズタボロにしていた。それを手当てしてくれたのがイスヒスであった。
もう血は止まったが、年のせいか傷はまだ治りきっていないのは事実である。
しかし反応したのはルキアノスであった。
「足を怪我したのか? いつ……」
「あの、逃げてる途中に靴が脱げてしまって」
思いがけず心配され、小夜は場違いにも面映ゆくなった。近付く綺麗な顔を身をよじって距離を取る。ルキアノスの至近距離は、どんな顔でも直視しがたい。
などということをやっていたら、
「ふーん……。じゃあ、いま治してあげる」
イディオが、笑顔でそう言った。
(わ、忘れてた……!)
イディオは魔法は使えないが、代わりに自分の血と聖泉を混ぜてどんな傷病も治せるのだった。
今度こそ詰んだ、と小夜は思った。二人で鍬を持って聖泉の外周を掘り起こすのだ。そしてそれを泉に埋め終われば、小夜は立派な罪人である。
「……ル、」
ゾッと鳥肌が立って、小夜はギュッとルキアノスにしがみついていた。だがそれ以上は、震えて声にならなかった。
(助けて、なんて……言えない)
なんて間抜けな絵面と理由かと、小夜は嫌になるほど自分を罵った。こんなことでルキアノスを頼ることなど出来ないし、してはならない。彼はそんな安い人物でも、身分でもないのだ。
何より、こんな馬鹿な事態を招いたのは自分に他ならない。
小夜はちっぽけな覚悟を決めると、震えと唾を飲み込んだ。
「さ――」
「分かった。行く」
「小夜!」
ルキアノスよりも一瞬早く、小夜はそう言い切る。ルキアノスが強く名を呼ぶが、敢えて応えなかった。
イディオが刹那の瞠目のあと、唇を押し開く。
「……じゃあ」
「でも埋める前に、もう一度話をしてみるって約束して」
その前に、最も大事な条件をつけた。
案の定、イディオは詰まらなそうに目を細めた。
「そんなの、無駄だよ」
「トリコも連れていくから」
「……分かった」
イディオが渋々ながら頷き、小夜は内心で激しく安堵した。
イディオはトリコを天使だと断言したが、その態度からその存在を完全に理解しているわけではないのではないかと思った。僅かでも希望があるなら無下にしないのではないかという推測は、外れていなかったようだ。
「なら、俺が天使様をお呼びしてくる」
「あ、お願いします」
イスヒスが善は急げと早速部屋を後にする。あの性格と外見と声に天使様という単語が似合わなくて、小夜は少しほっこりしてしまった。
だというのに。
「じゃあ、足を出して」
「へ?」
言いながら、イディオが懐からナイフを取り出した。きらりん、と短い刃が光る。
「も、持ち歩いてんの?」
「切れ味が悪いと、無駄に痛いからね」
あまりにも持ち方が堂に入っていて、小夜は少々頬が引きつった。自分の血を採るためだとは分かるが、絵面がなんとも怖い。
小夜は苦笑しながら辞退した。
「えっと、怪我はそのままでいいよ。切れ味が良くったって、痛いもんは痛いでしょ?」
普通に歩くくらいにはそこまで痛まない。イディオを傷付けるほどではない。という意味であったのだが。
「……変なの」
イディオが笑みを引っ込めて、怪訝そうにそう言った。ちょっと傷付いた。
「その怪我、溺れた時にも血が出ていたのか?」
ちーんと沈んでいると、別の所から声を掛けられた。やっと黙考から帰還したらしいフィイアである。
「はい、多分。出てたと思います、けど」
あの時は逃げるのに必死で、足のことなど気にする余裕もなかった。そこに入水自殺を目撃してしまったのだ。目視はしていないが、出血は既にしていたと思われる。
何がそんなに気になるのだろうと首を傾げる。見れば意外にも皆フィイアの続きを待っていた。
そして、再びの黙考の末。
「――――血だ」
そう言った。
何のことか、すぐには分からなかった。
(血……が何だろ? 聖泉に血が入ったからって……汚れ……)
ハッと理解した。そして青褪めた。
「ま、まさか、血の穢れがとかですか!?」
神聖なものと血との相性は、基本的に悪い。血は不浄とされ、接触や食事は勿論、女性を拒んだり、輸血を禁ずるものさえある。
聖泉もまた御神体のようなものと考えれば、そこに血を混ぜるなど言語道断であろう。
「す、すいません! いやでもこれはもうここぞとばかりに不可抗力を訴え」
「違う」
「たいぃ……って、え?」
知らずルキアノスにしがみついて平謝りしていた小夜は、フィイアの思わぬ眼力に、垂れ流していた弁明を飲み込んだ。
「俺が唯一声を聞いた時も、出血していた」
「なぁんだ、それなら私別に悪くない……」
と安堵する小夜には誰も構わず、イディオが息を呑んだ。
「! 聖泉の乙女もだ……!」
緑眼を大きく見開き、イディオがフィイアを見上げる。それを真っ直ぐに見つめ返す兄の瞳は強く、いつもの気怠げな色はどこにもなかった。
「血が引き金なんだ」
強く、微かな熱さえ込めて、フィイアが答えを導く。
「ほぉ。それはまた、興味深い」
ずっと無言だった神殿長が、ほくほくと白髭を弄んだ。