年上特有のただの強がり
(何で時と場所を弁えないのよこのポンコツが……!)
ルキアノスからの冷ややかな眼差しを右頬に一心に受けながら、小夜は深い自己嫌悪の穴に落ちていた。
しかしイディオは一刻も早く話を進めたかったのか、一切構わずに用件を切り出した。
「ちゃんと協力したでしょ。いい加減、兄さんを解放して」
敵意すら込めて神殿長を睨んでいる。
だが小夜には、その言葉と現状が少しだけ噛み合っていないように思えた。
「解放って……」
フィイアが神殿に縛られているということであろうか。だがフィイアほどの実力があれば、逃げるなど容易いことのように思える。
しかも相手は老齢と弱い足腰が演技だったとしても、七十歳は軽く越えている老人だ。
一体何がフィイアを縛り付けているというのか。
全員の視線が、眉毛の下の瞳に集まる。
「残念ながら、わしは一度も引き留めたことはないぞい」
「嘘だ!」
飄々と否定する神殿長に、イディオが言下に食いついた。
「兄さんが間諜なんてやらされてるのはぼくのせいだって分かってる。どいつもこいつも、兄さんを好き勝手に使って……!」
「まぁ、便利ではあるのぉ」
苦しげに言い募るイディオだが、髭を揉みしだきながら相槌を打つ神殿長はどうにも呑気であった。
(なぁんか、意味が違う気がするんだけど)
温度差に違和感を覚えるのは小夜だけであろうか。
当のイディオは、それを真っ正直に受け止めた。
「よくも……!」
「イディオ」
細い眉を吊り上げて腰を浮かしかけた弟に、フィイアが静かに呼び掛ける。
「俺が勝手にやってるだけだ」
宥めるような、諭すようなその声は、小夜に先日の二人の言い合いを思い出させた。あの時は小夜自身が切羽詰まっていてまるごと横に置いてしまったが、二人の仲違いは恐らく保留のままのはずだ。
『奪うなら、俺だけにしとけ』
あの言葉が咄嗟のものでないなら、フィイアは既にイディオのためだけに生きる覚悟を決めているということではないのだろうか。
しかし、イディオの解釈は違っていた。
「……ぼくが、いつまでも死なないからでしょ」
底冷えのするような低い声が、フィイアを切りつける。だが痛そうな顔をしたのもまた、イディオの方だった。
(そういえば、イディオって本当は何歳なんだろ)
最後の末裔と、聖女の呪い。呪いを誰かに移すことでしか解放されないなら、イディオはいつまで十四歳でい続けるのか。
一族の血を繋げるのがフィイアしかいなくて、彼が赤子を犠牲にする気がないのなら、小夜にはもう手詰まりのように思えてしまう。
「知ってるんだから」
と、イディオが細い声で言う。
「兄さんはもう自由なのに……エレスフィから離れられるのに、まだ神殿にいるのはぼくがいるせいだって」
緑眼に緑眼が映り込み、合わせ鏡のように色を重ねる。それはとても美しいのに、フィイアだけしか映らない世界は、酷く空虚で。
「ぼくを見るたびに、罪悪感に苛まれてるって。それが嫌で、ぼくをイスヒス兄に押し付けたんだ。ぼくが……」
ぼくが、と、イディオが声を震わせて続ける。
「嫌いだから」
それは多分間違いなのに、そう言うだろうと、小夜にさえ予想できた。だからフィイアは、きっと傷付くだろうと思った。
けれどそっと視線を追った先にあったのは、いつもと同じ、面倒臭いと言い出しそうな顔であった。
自己規制という名の、年上特有のただの強がり。小夜にも覚えがあるから、分かる。
(本当は関係ないって頭では分かってても、見せたくないって、思っちゃうんだよね)
失敗や弱気は恥ではないと、頭では分かっている。年上やどうでもいい他人相手なら、それほど気にしない。
だがそれが年下や大切な人や、守るべき相手となると、違ってきてしまう。そしてそれは、理屈じゃない。
だからフィイアは、あえて何でもないように徹するのだ。
「それは違う。俺がここに留まっているのも、陛下に協力しているのも、見返りがあるからだ」
「……嘘」
「嘘じゃない」
「……見返りって、なに」
イディオの問いに、フィイアが初めて言葉を止める。それだけで、イディオが怒るような内容だと察せられた。
兄弟が無言で見つめ合う。
神殿長は知っているはずだが、敢えて沈黙しているように見えた。
その時、叩扉とともに「失礼します」の声がかかった。
「イスヒスさん?」
どうやら、ラコン司祭の糖分補給要求を片付けてきたらしい。
神殿長が頷き、フィイアが扉を開ける。そこに見えた顔から、彼が扉越しに話を聞いていたことが伺えた。
どうやら、矢も盾もたまらず口を挟みに来たらしい。こちらもまた喧嘩別れしたままだったフィイアを睨み、嘆息一つ。
「いい加減、教えてやればいいだろ? 弟が、ここを出て普通に生活できるようにだって」
「…………」
フィイアは顔をしかめただけで、反論はしなかった。神殿長もまた、どことなく微笑んでいるような気配を感じる。
だが、当のイディオは、
「ここを、出る? ぼくが?」
幻聴でも聞いたかのように一度瞬き、それから、
「有り得ない」
そう吐き捨てた。祈りを聞き届けて現れた時にはもう誰もいない、遅すぎる神様でも嘲笑うかのように。
「ぼくは神の子だ。ぼく以外の誰をも治せる。神殿が手放すはずがない。第一ぼく自身がここから離れられないのに!」
最後には椅子を倒して立ち上がっていた。苦しそうに肩で息をし、自分の爪先ばかりを睨む。まるで、そうしないと今にも涙がこぼれてしまうとでもいうように。
けれどそれは、すぐに前を向くこととなった。いつの間にか眼前に来ていたフィイアの手によって。
「いいや。お前はここを出る。シェフィリーダの国籍を取って、学校にも通う。その後は好きな仕事をして、好きに年を取る」
「……何、それ。夢物語なんかする質だっけ?」
泣き笑いのように、イディオが冷やかす。けれどその声は、頬に触れた手を払いのけようとして出来ないでいるその左手と同じように、曖昧で覇気がなく、寂しげであった。
「バカみたい。兄さんに子供を作る気がないなら、次の乙女はもういない。ぼくがずっと、最後で、……独りだ」
「独りじゃない。俺はお前の側を離れる気はない。お前の呪いが解かれるまで、ずっと」
「どうやって? あの女も、小夜もダメなら、もう何人現れようと一緒だよ……」
希望などはないと、イディオは言う。
聖泉に認められた女たちがいても役には立たず、大精霊クレーネーは返事をしない。唯一の味方のはずの兄とは分かり合えない。
何も進まない。何も変わらない。
たった独り、永遠に十四歳のまま。
「イディオ……」
フィイアが、痛みを隠して呼ぶ。そんな風に呼ぶから、罪悪感に苛まれているとか思われちゃうんじゃないのと、小夜は思った。
けれどそんなことを言うとまた話をこじらせて、先に進まなくなるような気がした。
だから、代わりに昨日からずっと考えていたことを口にした。
「埋めてみたら?」
それは、小夜としては常識の範囲内の、良心的で現実可能な提案であった。
だが小夜を見た全員が、耳を疑うというような顔をしていた。
「「…………は?」」
たとえばイディオとイスヒスがそう言い、フィイアは瞠目し、神殿長でさえ目を大きくしているらしく、左目が眉毛の下にちらりと覗いていた。
一方、小夜免疫があるらしいクレオンは、また突拍子もないことを言い出したとでもいうように口元を緩め、ルキアノスは頭痛を堪えるように額を押さえていた。
最も回復の早かったらしいルキアノスが、場を代表するように疑問を口にする。
「埋めるというのは、何をだ?」
「えっと……」
こうなることは分かっていたのだが、全員の視線の圧があまりに強くて、小夜はまごついた。
本当は、先回の言い合いの時には小夜の私情を優先したために物別れとなってしまったから、今回は最後まで口出ししないでいようと思っていたのだ。
けれどフィイアが、イディオの名前を呼んだから。常にどことなく投げやりで、一歩引いていて、その分全体を見ることで明確な答えを持っていたフィイアが、ついに答えを言わなかったから。
イディオと話していて疑問に思ったことを、口にしてみてもいいのではないかと思ったのだ。
「だから、その、聖泉を埋めてみてはどうか、と……」
冷や汗たらりと思いながら、絞り出す。問い返すルキアノスの声が責めているわけではないことが、唯一の救いであった。
しかし返されたのは、沈黙と、長い長い嘆息。そして。
「それは、また……豪気な発想じゃのぉ」
神殿長の、天井を仰いでの気の抜けるようなお言葉であった。