絶対に近寄りたくない
大神殿長と呼ばれたご老人は、衛星中継かと思うくらい間をあけてから、うむと小さく頷いた。すかさずフィイアが、その口元――があるはずの白髭に耳を近付ける。
何故か全員が固唾を飲んでその光景を見守っていた。
少しして、フィイアがゆっくりと身を起こす。
「『ここは祈りの場である。神の御心と自分に向き合う以外にすることはない』と仰っておられる」
どうやら、ご老人の拡声器の役目を担っているらしい。声が小さいのか、喉を労っているのかは定かではない。
しかし。
「……ケッ」
柄の悪い爺さんが小さくそう言い、
「……チッ」
テレイオスまでもが、先程までの余裕を消して舌打ちした。
(……こわ!)
理由は全く分からないが、取り敢えず怖かった。あの三角形には絶対に近寄りたくない。
しかし神職者たちの感想は違ったようである。
「クリストドゥル大神殿長様! このような所までいらっしゃって、お体に障ります!」
年長の一人が、困惑しきりの顔でその側に走り寄る。それが合図のように、他の者たちもまた神殿長の前に壁を作った。
「大神殿長様はどうぞお休みになってください! この場は私どもだけでも大丈夫です」
「そうです! ここは危険です。大神殿に匹敵するほど神聖な場所だというのに、野蛮な行いを……」
それぞれに言い募る彼らだったが、神殿長が右手を少しだけ持ち上げた途端、ぴたりと口を閉ざした。
再びフィイアが屈み、お声を賜る。曰く。
「『鎮まりなさい。全ては承知している』」
「では……!」
「『私が話しましょう』」
「おおっ、大神殿長様が!」
小さなどよめきが上がり、フィイアに介助された神殿長がゆうっくりとテレイオスのもとへと歩き出す。
「…………。チッ!」
テレイオスが我慢できたのは三歩までであった。痺れを切らしたように自分から大股で歩み寄る。
これに、ずっと小夜を囲っていた黒服二人がついに動いた。慌てたように階段を降り、テレイオスの前に立ち塞がる。
「これ以上は、」
「待て」
恐らく先程のイスヒスと同じ警告を発しようとした二人に、小さな老人が制止をかけた。
「テメェらじゃ力不足だ」
「ラコン司祭様、しかし……」
言い淀む二人に、ラコンと呼ばれた老爺は羽虫でも追い払うように手を振る。だが当のテレイオスは更に酷かった。
まるで眼中にないとでもいうように、その間を素通りしたのだ。
「まったく、いい度胸してやがる」
すっかり当事者意識を無くしたらしいルキアノスが、欄干に寄りかかってそう呟く。実際、テレイオスもまた無手である。眼光一つで黙らせたようにしか見えない。
「で、何を話しましょう、聖下?」
神殿長の前に辿り着いたテレイオスが傲慢そうに胸を張って聞く。和解というより決闘の申し込みに見えたが、フィイアを介した言葉はあくまでも穏やかそうであった。
「『私と陛下の間に、まだ話すことがありましょうか』」
「……ないでしょうな。この場にいる謀反人どもを、全員引っ捕らえれば」
その瞬間、テレイオスの碧眼がギンッと光った、ように小夜には見えた。椅子にすがり付いていた貴族たちがついに浮き足立ち、陰に控えていた護衛を呼んだり、早速走り出そうとする者までいる。
「こ、ここは神殿ですぞ! 我々は十分な信仰を捧げここにいるんだ! ここで我々を捕まえたら、ど、どうなるか……!」
「あぁ。逃げても一向に構わんぞ? 但し、不殺生の戒めがあるのはこの建物内だけと心得よ」
ひきつりどもる貴族に、テレイオスが慈悲でも授けるように大様に笑う。その笑顔が意外にも爽やかで、小夜は余計に背筋が寒くなった。
(え、一歩でも出たら死んじゃうの?)
結局、他の者たち同様に武器を所持していない貴族たちは、抗うことも出来ずその場にくずおれた。
◆
階段の間での挨拶という名の一悶着の事後処理は、後から到着したテレイオスの部下たちに任されることになった。
クレオンが良い笑顔で書類をちらつかせたり、テレイオスが家族とおぼしき名前を順に挙げていったり、色々としていたようだが、小夜にはカツアゲ現場にしか見えなかった。
心配になったのはシェーファとフィオナである。ルキアノスと合流する直前、テレイオスと最接近することになった二人の顔は紙のように蒼白であった。
「……赤い、悪魔……」
シェーファが呼気に紛れるほどの声量でそう言い、テレイオスはそれが聞こえたのかどうか、一瞬だけ笑みを消して二人を睨んだ。だがそれだけだった。
ルキアノスは二人に声をかけ、すぐにその場を離れた。その内容が、
「殺意が湧くか。安心しろ、オレもだ」
という風に聞こえたのだが、きっと気のせいであろう。
残る騎士団からの三人には、テレイオスを手伝うようにと指示を出したのか、テレイオスの方に合流した。
その様子が本当に全て終わったのだと教えるようで、小夜はふらりと歩き出していた。
(良かった……怪我、してない……)
安堵に、足の力が抜けそうになる。けれどルキアノスが真っ先に階段を駆け上がってきたから、もう大丈夫だと思った。無意識に手を伸ばす。しかし触れたのは、フィオンの背中であった。
「彼女への接触はご遠慮願います」
「フィオン、さん」
階段も半ばまで来ていたルキアノスに、フィオンがあくまで事務的に告げる。どうやら、彼の中ではまだ本物の聖泉の乙女問題は片付いていないらしかった。
ルキアノスの面相が、再び悪化する。
「……貴様、オレと小夜の間に立つというのがどういうことか」
分かっているのか、という変な脅しはけれど、横からの声に完全に遮られた。
「フィオン? あなた、フィオンというの? 年は?」
「おまっ、主人を退かすな」
「何故こんな所に……まさか、自分の出自を覚えていないの?」
ルキアノスの文句など耳に入らない様子で、フィオナがフィオンに詰め寄る。だが伸ばされた手を、フィオンは汚らわしいとでもいうように、避けた。
「……生憎、拾われたのは赤子の頃で、母親の顔も覚えていないもので」
先程までの冷静さは消え、歪んだ鳶色の瞳には敵意が宿る。それを向けられたフィオナは、今にも泣きそうだった。
「赤子じゃないわ。三歳、でしょ?」
それは確認というよりも、縋るようであった。是と頷いてくれと。そうすれば、その先の言葉を言う用意があるとでもいうような。
けれど、フィオンは何も言わなかった。これ以上関わるのが嫌だと、全身で拒絶する。ここに小夜がいなければ、走って逃げていたかもしれない。
「……ラウラ様」
ずっと困惑顔で見守っていたシェーファが、心配げに呼ぶ。だがその先を続けたのは、ルキアノスであった。
「知り合いか」
「……は――」
「違います」
フィオナが「はい」と言いきる前に、フィオンが頑と否定した。しかしルキアノスは、邪険にされたのがまだ怒れたのか、聞こえないように言葉を継いだ。
「そう言えば、髪も目も同じ色だしな」
言われてやっと、小夜は間抜けにも思い出した。白髪に赤瞳が、そう言えば珍しいことを。
アンドレウ男爵一家をはじめ、ルキアノスの従者二人も白髪で、すっかり見慣れていたから、フィオンのことも一般の枠に入れてしまっていた。
北部に多い系統なのかも知れないが、フィオナの反応からすればヒュベル王国に関わりがあると考えた方が自然なのだろう。
だがその先を考える前に、別の声が割り込んだ。
「あまり、うちの者に難癖をつけないで頂きたい」
イスヒスである。見ればすぐ階下にいて、その背には何故か隠れるようにイディオもいる。
イスヒスが三白眼を細めているところから、単純に心配しているのだろうと分かるが、小夜はどちらに味方すべきか分からなかった。
二人の「話したい」と「話したくない」は、あまりに切実で逼迫していたから。
(フィオナさんがここに一人で来れることは、もうないか、多分ずっと先になる、けど……)
ルキアノスはそれを承知で助け船を出したのだろう。けれど、としつこく迷うそこに、救いの声は訪れた。
「『少し話をしましょう』と仰っておられる」
神殿長の言葉を代弁した、フィイアの声である。
名前が……名前がややこしくなって大変読みづらくて申し訳ありません……。