自分の人生のエンディング
第二王子ルキアノスがディドーミ大神殿に到着したのは、正午過ぎのことであった。
王都から聖泉までは馬でも三日はかかる距離である。それをそれなりの馬車と隊列で進んできたのである。五日をかけた長旅に、神殿は今日はまずゆっくりと休んで疲れを取ることを提案した。
しかし、第二王子はこれを笑顔で辞退した。
「夜までは……晩餐会までは時間あるって言ったじゃぁぁんッ」
知らせを聞いた小夜は、床――では服と化粧が崩れるので椅子の背もたれに突っ伏した。それを冷ややかに見ながら、フィオンが言葉を重ねる。
「仕方ありません。第二王子たっての希望ですから」
「でもでも、『まずは本物の聖泉の乙女に会いたい』なんて……!」
最早詰んだとしか言いようがない。乙女ゲームの第二章のエンディングも知らないのに、自分の人生のエンディングが刻一刻とやってくる。
「お会いするだけです。ご挨拶が済めば、すぐに退室できるように致します」
「あのルキアノス様がそんなことで手をこまねくわけないじゃないですかぁ! あれで意外と敏腕で腹黒なんだから! イディオと同じくらいには!」
「…………」
小夜の心からの叫びに、フィオンが気難しい顔で眉間に皺を寄せた。表立っては同意しかねるが、本心では否定もしかねるというところであろうか。
しかし今の小夜には、そんな微妙な感想に構っている余裕は微塵もなかった。
この時点になっても、小夜にはルキアノスがどう出てくるのかさっぱり見当がつかないのだ。
次に召喚する時は婚約式だと言ったルキアノスが、今回の仕組まれた婚約についてどう考えているのか。ここぞとばかりに便乗するのか、それとも腹に据えかねて乗り込んできたのか。
そもそもの話として、ルキアノスは本物の聖女と呼ばれているのが小夜だと知っているのか。
(知ってそう。そして怒ってそう……)
その場合の小夜の第一声は言い訳である。
そしてどちらにしろ、婚約なんかしたくないと言った場合の反応が全く想像できなくて、怖い。
「ともかく、第二王子殿下はご挨拶が済むまで部屋で休む気はないと言い張っています。何でもいいので早く向かってください」
「すんごい薄情……!」
目だけでなくとっとと行けと凄むフィオンに、小夜は半泣きになりながら椅子から手を放した。ちらりと視線を滑らせ、のんびりと羽繕いしているトリコを見やる。
「トリコは、どうしたら?」
「晩餐会には必ずご出席願いますが、出迎えの挨拶にはお連れにならなくても結構です」
これは運命分岐点的選択かと、小夜は聞いたことを後悔した。
ルキアノスの好感度はこの際横に置いておくとして、このお喋りする鳥を同席させたことによる利害は一体どの程度発生するのか。
今までの事例を鑑みるに、トリコが小夜の望むような答えを発してくれる保証が皆無であることは既に証明されている。しかし重要人物が揃う場面でトリコから「違う」を引き出せば、小夜の勝利が一気に引き寄せられるとも言える。
小夜は逡巡した挙句、トリコに聞いてみることにした。
「トリコは……一緒に行きたい?」
「行こう」
「あ、そう……」
少しだけ後悔した。そもそもトリコの目的に小夜の監視が含まれているのであれば、行動を共にする可能性の方が普通に高かった。仕方なく、トリコを腕に抱いて部屋を出る。
「やっと決心がついたか?」
「つくわけないじゃないですか……」
護衛として待ち構えていたイスヒスが、待ちくたびれたというように聞く。ここにも薄情者が一人と思いながら、足を進める。
向かったのは、司教館の正面玄関から続く階段の間であった。今まで、移動する時は生活動線らしき常識的な廊下と階段を通っていた小夜は、その見事な内装に目を奪われた。
(凄い……宮殿とはまた違う豪華さだなぁ)
始まりは、ごつごつとした手触りの手摺だ。視線を落とせば、小花を思わせる幾何学模様の彫刻が連綿と刻まれている。それは幅広の回廊を折れ、階段となり、踊り場で反対側に折り返されても続いていた。それを支える円柱には金細工の装飾が施され、その間の手摺の上には小さな彫像が点々と並んでいる。
視線を上に向ければ、今度は立ち上がり壁の部分に大陸の歴史を寓話化したようなフレスコ画がある。中には明らかに人間以外と思われる様々な種族の人々が描かれ、それが踊り場正面の壁と天井の神々へと繋がっている。神々の下、全ての種の統合か和合でも表しているのだろうか。
これを階段下の正面から見上げれば、この司教館を設計した者の意図通り、見事に圧倒されていただろう。
(いやもう上から見ても凄いんだけど)
この時点で既に尻込みしてしまうのは、この圧巻のフレスコ画を背負うようにしてしか階段を降りられないことなのだが、なお小夜の足を留めているのは、階段に近づけば近づくほど人の気配や話し声がすることであった。
(いる……数人どころじゃない数の人が、いる……!)
話が違うと、バッと後ろを振り返る。
「挨拶だけじゃないんですかっ?」
「挨拶だから、主要な方々が皆様集まってお待ちなんですよ」
「なんてこと……!」
小夜は最悪の事態に頭を抱えた。トリコが鬱陶しげに飛び立つ。
しかし助けを求めようにも、フィオンは無関心に、イスヒスは俺が知るかとでも言いたげに視線を逸らすだけであった。その背後にも二名、黒服の護衛が増えていたが、どう見ても助けてくれそうにはない。
(てか逃走防止にしか見えない……)
そう考えたよりも、事態は更に悪かった。
「お早くどうぞ」
黒服の一人が、無慈悲にもぽんっと背中を押す。小夜は心の準備も出来ないままに、階段の踊り場までたたらを踏みながら降りていた。
玄関から差し込む光に、青と緑のグラデーションを輝かせて羽根が舞う。
その向こうに、第二王子ルキアノスは立っていた。
◆
その空間は、幻想的だと言えた。
信仰を目に見える形にするためだけに贅をかけられた装飾。射し込む光の角度まで計算し尽くした空間。訪れる者を跪かせるためだけに彫られ、描かれた芸術品の数々。
だが、ルキアノスがそれらに目を奪われることはなかった。
今日この場を訪れた目的は、たった一つ。
国王が帰還してすぐ行軍を開始し、一人で先に馬を駆けさせたい衝動を何度も堪えて、やっとカノーンの町に戻ってきた。一度は手放してしまったものを、再びこの手に取り戻すために。
(小夜。早く来い)
階段の間に案内されたルキアノスは、正面踊り場の壁から天井へと続く巨大なフレスコ画を睨みながら待った。供をするのはシェーファとフィオナ、他に騎士団の精鋭が三人だけ。他の者たちは行軍の疲れもあり、先に休むように伝えてある。
他にこの部屋にいるのは、副神殿長をはじめとする大司教たちや、神殿に多額の寄付や支援を行っているという近隣の貴族領主たちである。誰もがそれぞれ椅子にふんぞり返り、王家がついに神殿に頭を垂れる瞬間を見逃すまいと卑しい笑みを浮かべて待ち構えている。
(ここは狐と狸の巣窟か)
既に一通りの挨拶は済ませている。神殿長は高齢のため、晩餐会にて挨拶する旨も聞いた。本当は聖泉の乙女に会うのもその時だと言われたが、待てるものではなかった。
果たして、階上から幾つかの足音が響く。一つ体重の軽いものがあると察し、ルキアノスの胸は高鳴った。
「小夜……」
今にも現れる、と階段の踊り場に目を凝らす。時折足音が止まるのをもどかしく待っていると、バサッと音がした。鳥の羽音のような、と思っていると、慌しい足音が続く。
白いドレスの裾が現れた、と見た時、上から青とも緑ともつかない羽根が音もなく舞い降りた。それは西日を受けてきらきらと輝き、ゆっくりとドレスの上に落ちる。
そこに、どこからともなく羽根の主――トリコまでが羽ばたいてきた。小夜が腕を伸ばし、そこにゆっくりとトリコが止まる。
「おぉ……聖泉の乙女だ……!」
誰かが感嘆の声を上げた。その通り、まるで伝説の一部を再現したかのように、その光景は美しかった。
だがルキアノスの眼差しは、たった一人を見詰めていた。光が計算通りに乱反射する階段の間の踊り場に立つ、全身純白のドレスに身を包んだ黒髪の女性を。
肩よりも少し長いだけの黒髪は、丁寧に梳られ頭頂部で美しく結い上げられている。その下の頬と目尻には薄く朱が入り、奥ゆかしく半ば伏せられたその瞳をどこか艶っぽく引き立たせている。中でも最もルキアノスの目を惹きつけたのは、紅が瑞々しく輝く唇だった。
(……くそ……!)
誕生会の時には単純に綺麗だと思った。だが今ここに見上げる姿は、状況によるものかどことなく神秘的で、十歳近い年の差をまざまざと見せつけられている気分であった。
どんなに足掻いても手が届かないと。このまま永遠に、彼女はルキアノスを拒み続けるのではないかと。いつか、ルキアノスが望んでも触れることすら出来なくなる存在になるのではないかと。
小夜がいない時、ふとした瞬間に湧き上がる想像が、こんな時に結実したような錯覚を感じて嫌になる。
「――小夜!」
だから、言いようのない焦燥に駆られて階段を駆け上がっていた。早く喋ってくれと、いつもの下らない奇声と奇行で、安心させてくれと、その足元に跪く。
「殿下!? 突然何を……」
「ル、ルキアノス様!? あ、あの……っ」
慌てる周囲の声に紛れて、小夜の驚いたような声が届く。
あぁ、何も変わっていないと、安堵が押し寄せる。
その勢いのまま、ルキアノスは用意していた台詞を口走っていた。
「小夜。オレの聖女よ。――結婚してくれ」
唯一にして無二の乙女に向かって、懇願するように手を伸ばす。この手を取ってくれと。自分の想像など杞憂にすぎないと言ってくれと。
けれど。
「………………えぇ!? むっむむむむ無理ですよぉっ!」
小夜が、化粧でも隠しきれない動揺もあらわに目を見開いた。
ルキアノス、カムバック。
そしてごめんね……。