今日という日
テレイオス国王帰還の報は、イリニスティスのもとにも届いていた。
「陛下は殿下を王太子になさることに内密に了承なさいました」
「……内密に、ね」
見飽きた神職者の顔を眺めながら、イリニスティスは呟いた。テレイオスが頷いたのであれば、この先のことなどイリニスティスには止めようもない。全てはなるようになるだろう。
「これで、南部の貴族方々も殿下の立太子を待たずに慶祝のお言葉を伝えにやってくるでしょう」
「心にもないくせにね」
「そのようなことはありません。殿下の人格的な素晴らしさは、誰もが知るところです」
「それが良いことかどうかは、僕には推し量りかねるけど」
民の求めるものは、テレイオスが持つような辣腕が守る平穏だ。そして貴族や神殿がもとめるのは、イリニスティスのような操りやすい傀儡に過ぎない。
「すぐに分かりますとも。神々と精霊が誰を愛し、導くのか。そしてそうなっても、我々のことをお忘れくださってはいけませんよ」
「僕は頭が悪くて忘れっぽいんだけどな」
にっこりと、能天気に笑う。
のっぺりした細面の作り笑いが、一瞬だけぴくりと引きつる。それでも、既に自分たちの勝利は揺るぎないものだとでも思っているのだろう。
結局、それ以上の問答は無意味だとでも思ったらしい。神職者は得意の説教も切り上げて、いつもの言葉で締めくくった。
「双聖神と大精霊と乙女の御名において」
「……御名において」
御心にかなう願いなど何もない、虚しい祈りであった。
◆
婚約式の準備は、万端整っていた。後はセシリィとクィントゥス侯爵がハギオン大神殿に向かうだけである。
(ついに、この日が来たわね)
セシリィは、伯母メラニアの指示でこれでもかという程に着飾らされた姿を鏡の中に睨みながら、侍女頭が呼ぶのを静かに待っていた。
婚約式は結婚式とは違い、本人と後見人の他は数人の親戚や知り合いなどが証人として立ち会うだけで済む。婚約した証として指輪を交換すれば、式は完了だ。
(また、あの人の指輪を受け取ることになるなんて……)
今は何も嵌めていない左手の薬指を見つめる。
初めて指輪をもらったのは、忘れもしない、七歳の春のことであった。エステス宮殿内にある王室聖拝堂にて執り行われ、国内にいる王族全員が参列した華やかな式になった。
その時はエヴィエニスも頬を赤くしてはにかんでいて、セシリィは何もかもが幸せだった。この人の妻になって、ともに国を支え、リアナ王妃や聖泉の乙女のように献身的に仕えようと誓ったものだ。
それを、ファニが全て壊したのだと心底憎悪したのに。
(今は、わたくしが壊す側に回ったということね)
もしエヴィエニスが何者かを差し向けるなら、セシリィは受け入れるのもやぶさかでないと思っていた。けれどファニの決意を聞き、止めた。自分には、そんな諦念は似合わない。
セシリィは、自分が気高く折れないことの意義を、知っている。
「セシリィ様。馬車の用意が整いました」
叩扉とともに、侍女頭の声がかかる。
セシリィは、真っ赤な紅をひいた唇を、ゆっくりと吊り上げた。
「行くわ」
歴史に名を残す最低最悪の王妃が憎悪と共に語り継がれるのならば、今日がその最初の日となるであろう。
◆
王立タ・エーティカ専学校の講堂には、全校生徒の三分の一近くが集まっているように思われた。
寮生会の元会長でもあるアグノス・アンドレウに頼んだのは正解だった。
普段は式典や祭事に使われる講堂内は、最奥に一段高くなった舞台があり、それに近い空間半分に長椅子が、奥が階段状の椅子になっている。元は演劇などにも使われた建物だとかで、その装飾は学校の中でも一際華美で凝っていた。
学校の一部となった今は、天井の丸絵に本六科の紋章と象徴的な絵が描かれ、両側の壁には歴代の学校長の肖像画がずらりと並んでいる。
ファニは、これらの絵を初めてまじまじと見たと思った。だがどんなに真剣に見つめても、逸る鼓動を落ち着けることはできそうもない。
(怖い……けど、言うって決めたのよ)
ディドーミ大神殿からプリントス宮に戻って来てから、三日が経っていた。登校については、あろうことか誘拐されたことを持ち出して危険だと止められたが、それならば一緒に来ればいいだろうと捻じ伏せた。
本物の聖泉の乙女ではないとされたなら、自分の身元も将来も無に帰したようなもの。今まで以上に勉学を疎かにすることはできなくなったというファニの訴えに、二人の神職者が学校に付き添った。
昨日は普通に授業に出て、聖拝堂に寄った。今日は先に聖拝堂に寄った。
「ツァニス様」
「お任せください」
待ち構えていた司祭が、爽やかな笑顔で二人を眠らせてくれた。その後はいまだに寮生会の会計補佐に留まっているトゥレラ・コニアテスの手を借りて講堂まで辿り着いた。
(エヴィ……私に力をちょうだい)
講堂内に響く生徒たちの無数のざわめきを飲み込んで、たった一つの想いを胸に顔を上げる。意を決して、ファニは舞台の中央へと足を踏み出した。
「あら、あの方……」
「出ていらっしゃたわ」
「聖泉の乙女様だわ」
「お話って何かしら?」
「ついに王太子様とご結婚なさるのかしら?」
校内で大いに噂になっている恋人の片割れの登場に、講堂内に集まった生徒たちが銘々に声を上げる。
ファニから話があるという内容で人を集めた結果、男女の比率は圧倒的に女子が多い。男性が少なければ、乱暴な事態になる心配も少なくて済むかもしれない。
緊張で震える両手を握り締めて、ファニは口を開いた。
「……皆様。本日はお集まりいただき、ありがとうございます」
第一声は、みっともない程に掠れていた。緊張で、下げた頭が中々上げられない。
王女だった時も、カティアが一人で人前に出る機会はほとんどなかった。しかも今は、今まで嘘をついていたことを白状するためにここに立っている。足が震えて、座り込んでしまわないようにするので精一杯であった。
けれど。
「まぁ、ファニ様。本日はエヴィエニス様はご一緒でないの?」
不意に、正面の席から聞き覚えのある声がして、ファニはハッと目を開けた。
現在は女子寮長を務めるラリアー・アンドレウが、ひそひそと話す女生徒と同じように装いながらファニを見据えていた。その声はよく通り、他の雑音を潜ませてファニの答えを聞こうと待ち構える。
(皆さん……ありがとうございます)
今回の舞台を用意し、整えてくれた人たちの顔を思い出しながら、胸中で感謝の言葉を述べる。そして、顔を上げた。
「今日は、私一人でここに参りました。何故なら、これは私一人の問題だからです」
「まぁ……」
ざわざわと、足元から様々な言葉が湧いては飛び交う。けれどファニからは、もうそれに耳を貸す臆病は消えていた。
「私は、今まで聖泉の乙女と言われ、それをはっきりとは否定してきませんでした。けれどもう、誤魔化すことはできません。だからまず、ここにいる皆さんに本当のことをお伝えしようと決意しました」
専学校にいる人間は、貴族と裕福な庶民とが半々だ。そこには大人も、今回の件には無関係な神職者も含まれる。これだけの人間が集まれば噂は一日と待たず学校中に広まるだろう。そして彼らが実家に帰れば、噂は更に広まる。
ファニが自由に出来ることも行ける場所もほとんどないが、その内の一つが学校というのは幸いであった。
「私は、聖女ではありません。聖泉エレスフィに偶然助けられただけなのです。そして本当の私は……」
言葉が、一瞬だけ引っかかる。でも言える、と自分を叱咤した。
全てを打ち明けて、全てを失っても――愛する人の傍に二度と行けなくても。
「謀反人の娘なのです」
この恋だけは、絶対に裏切ったりはしない。
◆
テレイオスは、馬上から全てを見ていた。
ルキアノスと違い寄り道が多く、進軍は遅々として順調とは言えないが、想定の範囲内である。このまま進めば、一両日中に必要な者たちの顔を拝み終えるだろう。
「次はどこだ?」
「次はプロスボレー領のベッサリオン伯爵です」
同じく馬で並走していたクレオン・クィントゥスが、手に持った書類をめくりながら答える。それはカノーンに作った拠点から持ち出してきた資料であった。ルキアノスの指示で、空間魔法の損耗から回復してすぐテレイオスの側近に渡され、精査も済んでいる。
「先の戦争のあとから、資金繰りに随分苦労しているらしいな」
「ここの領主は中々揃い踏みですよ。神殿への借金に、司教との癒着。ハルパロス殿下の時代から、随分甘い汁を吸っていたようですね」
「頼みの綱がなくなったら、今度は実力でと奮起すればいいものを」
唾棄すべき連中だとでも言うように、テレイオスが道の先を睨む。遠くオン・トレン山脈の銀嶺と、コヴェントーの森が見える。その下には、伯爵のような連中がまだ何人ものさばっている。
(実際に思想の異議を唱え、国をより良くしていくために立ち上がった者が二割もいないとはな)
嘆かわしいと言えばいいのか、自分の手腕を讃えるべきか、悩ましい限りである。
「しかし、よくも揃えたな」
「陛下のご子息の人使いが見事なものですからね。この半年間、一月と同じ場所にいたためしがございませんよ」
「嫌味を言えるならまだ働けるな。これが片付いたら、今度はお前の好きな赴任地を選べ」
「自宅で療養することもそれなりには好きなんですが?」
「上手い冗談だ。レオニダスを怒らせずに立ち回れるようになったら考えてやろう」
一応の抵抗を試みる青二才に、テレイオスはにやりと口端を吊り上げる。
青臭い餓鬼をやり込めるのは、保身にしか興味がない年寄りを引きずり下ろすのと同じくらい、楽しいものだ。
◆
小夜は、死にそうであった。
(胃……胃が痛い……!)
理由は幾つかある。
朝から部屋に閉じ込められて、ルキアノスの誕生会でやられたような化粧と着付けを再び味わっていることだとか。朝からフィオンが無表情で、今日という日の重大さについて何度も精神的圧力をかけてくることとか。アデルとルフィアが代わる代わる訪れては、賓客の到着を告げていくこととか。
ディドーミ大神殿に到着した王家御一行の行列が、あまりに盛大すぎてほぼ行軍なのではという規模にしか見えないこととか。そしてその行列の目的が、本物の聖泉の乙女となった小夜であることとか。
(ヒロイン補正なんか全然ないくせにこの貧乏くじ感よ……ッ)
何より、それを引き連れているのが、目が潰れそうな程ちかちかと着飾っている第二王子ルキアノスであるということが、小夜の二十八年の人生で最大級の衝撃を与えていた。
(やってくる……ルキアノス様がやってきてしまう……!)
オレは恐怖の大王かと、ルキアノスが聞いたら盛大に文句を言いそうな心境で、小夜は慄いた。
破滅か福音か分からない足音は、すぐ目前に迫っていた。