私の婚約問題
小夜の一言によって、雰囲気は明らかに変化した。
それが良化か悪化かはさておくとして。
(言ってしまった……が! ここだけはどうしても譲れないのよ!)
たとえイスヒスの三白眼が更に犯罪者一歩手前のように凶悪になろうとも。どう見ても感情を殺していたフィイアが思わず瞠目していても。
小夜は言わずにはいられなかった。いま最も小夜に必要な単語が発語されたこの時を逃したら、きっともっと忘れ去られてしまうに違いないのだ。
(私の婚約問題が!)
そう。皆様に思い出して頂きたい。
この一悶着が発生したきっかけは、聖泉の乙女と第二王子が、和睦のために婚約する必要があるという話だったはずである。
それがどうしたわけか、子供がなんだ末裔がなんだ奪うがなんだと。
(私の婚約をどうやったら回避できるかという話はどこにいったの!?)
しかしである。イディオは泣きそうだし、フィイアは深刻そうだし、イスヒスは怒るしで、とても本題に戻ってほしいとは言えなかった。何度も出そうになった余計な一言も、必死で呑み込んだ。
しかし今、途中参入したフィイアが、何よりも大事な発言をした。これをみすみす取り逃がすことなどどうして出来ようか。無論、反語である。
「だって、フィイア先生はこう言ったんですよ。『一般人を掴まえていつまでも本物の聖女だなんて』真っ赤を通り越してどす赤黒い大嘘を平気で突き通そうなんて、俺が許そうともお天道様がお許しにならないと!」
そう、フィイアは確かに言った。小夜が一般人であると。
第二王子との婚約は、相手が聖泉の乙女だからこそ意味があるのである。それが偽物なら、この話は破談も同然である。
神の子の重大な秘密も家族の深刻な齟齬も、今の小夜にとってはひとまず横に置いておいてほしい面倒くさい諸々に過ぎない。全員に、今それを言うのかというような顔をされようとも、是非皆様で話し合って頂きたいのである。
勿論、非難囂々は承知の上である。しかし。
「……何でそこで突然光の神なんだ?」
フィイアがどうでもいい単語に引っかかった。
「翻訳が!」
小夜は全力で脱力した。
この世界の創世神話の引用で、太陽は神格化の更に上をいく原初の存在に等しい。つまり太陽神とかお天道様という考えは薄い。その代わりが光の神らしいが、ここで訂正しようものなら話の目的が大いにブレるので何が何でも触れはしない。
「問題はそこじゃなくて、私が! 聖女なんかじゃないってことです」
目に力を込めて、室内の六人を順に見やる。
イディオは、フィオンに口元の血を拭われ、手近な椅子に座っていた。アデルは、怯えるルフィアを宥めて、隣室のイディオの部屋から水差しを持ってくるようにと指示した。イスヒスは握りしめた拳が行き場がないように震え、小夜を睨んでいる。
そしてフィイアは、ゆっくりと上半身を起こして小夜を見た。その瞳はあくまでも平静で、小夜を吟味するようにも見えた。
ひとまずというように、フィイアが無難なことを言う。
「そんなに威勢のいいことは言ってないが」
「細かな部分はどうだっていいんです。大事なのは、私が本物の聖女じゃないってとこです」
絶対に言質を取ってやると、小夜は冷や汗を隠して見返す。大切なことだから二度言った。
果たして、フィイアは駆け引きは無駄だと理解したように頷いた。
「まぁ、その通りだな」
「兄さん!」
あっさりと認めたフィイアに、イディオが咳き込みながら疑義を呈した。
「小夜は本物だよ! エレスフィだって光ったんだから!」
「えぇ? そんなことあったっけ?」
目的のために嘘で丸め込もうとしていているのだとばかり思っていた小夜は、イディオが本気でそう思っていることに驚いた。確かに小夜がイディオと会った時、聖泉は光っていたが、あれはイディオがいたからだと思うのだが。
「あったよ! それに、声だって聞いたんじゃない? 大精霊クレーネーの」
「いやいや、水の中だよ? 声なんて……」
と言いかけて、ふと忘れていた声が耳の奥に蘇った。
『殺してやる』
少女の声で、確かにそんな風に聞こえた気がする。そういえば、あれは一体なんだったのか。
だがその先を考える前に、フィイアが話を進めた。
「本物についての定義は、俺たちとそれ以外では異なる。分かるだろ」
フィイアが言う本物とはその血統を指し、イディオが言う本物は呪いを移せる者であれば意味など問いはしない。そしてそれ以外が求める本物とは、誰にでも分かる神聖さ、その程度の事かもしれない。
「でも……!」
「あんたは、婚約が嫌なんだったか」
それでも言い募るイディアを遮って、フィイアが小夜に水を向ける。小夜は申し訳ないと思いながらも、その話柄に勢い込んだ。
「そうなんです! 助けてくれますか!」
「悪いが、それは止められそうにない」
「ガッデム!」
頽れた。だから思わせぶりは止めてほしいと声を大にして叫びたい。
そんな小夜を見下ろして、やっと立ち上がったフィイアは至極真っ当な論理を展開する。
「王家と神殿の和解のために、婚約という手順は必要だ。だがファニは返してしまったし、他に務められる者もいない。あんたは生贄として第二王子の前に立つ必要がある」
「もうその時点で詰んでいる……」
「何がだ? まだ何も正式には取り交わしていない。誠実に断ればいい」
「出来るならそもそも悩んでいないということに気付いて頂きたい!」
小夜は涙ながらに訴えた。ルキアノスの美声一つで白も黒になるような女に、そんな無理難題はやめてほしい。
悄然と肩を落とす小夜の頭の上で、フィオンが素朴な疑問を口にした。
「大体、断って良いものなんですか?」
「ダメだろうな。それこそ、聖女は神の子に身も心も既に捧げているというくらいの既成事実でもなければ」
「フィイア先生は私を追い込みたいだけですか……?」
小さく殺意が湧いた。
そんなことを言おうものなら、たとえ嘘でもルキアノスにどんな風に思われるか。考えただけでも恐ろしい。もしその誤解が解けなければ、今回の婚約をどうにか白紙にすることが出来ても破滅ならぬ破局が待っていることには変わりない。
(婚約はしたくないけど嫌われたくもない……っていうのは、我が儘なのかな?)
男を手玉に取ってころころ転がしたことなど一度もない小夜には、その字面だけ見ればあまりにも不誠実な考えだと言わざるを得ない。
(って違う! 言い出したの私じゃなかった!)
良心と罪悪感と現状とがごっちゃになって、いい加減頭の中がわちゃわちゃしてきた。恋愛も政治も、小夜には駆け引きなどはお呼びではないのだ。
だというのに、そんな小夜を見下ろすフィイアはどこまでも飄々と無責任発言でこの場をまとめにかかった。
「それが出来ないなら、後は運を天に任せるしかないだろうな」
「ここでまさかの運否天賦!?」
美声だからって何でも許されると思うなよと、小夜は絨毯の上に突っ伏した。
「クェー」
部外者を決め込んで羽繕いに精を出すトリコの呑気な鳴き声さえも、憎く思えてくる小夜であった。
◆
その一報は、エヴィエニスのもとに深夜近くになってもたらされた。
「殿下。アンドレウ男爵家のアグノス様がファニからの伝言を届けてくれました」
「行くぞ」
持っていた羽ペンを打ち捨てるようにして立ち上がったエヴィエニスに、エフティーアがすかさず制止しにかかる。行動を見越したように、入り口にはレヴァンも待ち構えていた。
「アグノス様は帰宅なさいました」
「誰が男なんぞに会いたいと言った!?」
「冗談です」
「いやでもあいつはもしかしたらファニに接触してるかもしれないからまず間接接触を」
「重傷だなぁ」
真顔でファニ成分の摂取について考え出した主人に、レヴァンがうへぇーと笑う。
「いややはりダメだ! ファニが俺以外の男に接触を許すはずがない! 直接会いに」
「深夜ですよ。しかも殿下は今、侯爵令嬢という婚約者のある身です」
「……くそ!」
エヴィエニスは、こんな時にさえ儘ならない自分の立場に激しく苛立った。
二日前にやっと帰ってきたファニは、以前と同じくイリニスティスの離宮に戻っていた。小夜が本物だとしてファニへの要求は立ち消えたように見えたが、プリントス宮にはいまだに神職者が蔓延り、ファニの監視も続いている。王室からの接触は、イリニスティス同様やはり拒絶されていた。
アグノス男爵が車椅子の整備という名目で出入りを許されている伝手を使い、どうにか連絡だけは取っていたが、救い出す目処はまだついていない。
国王代理となってどんなに手を尽くしても、本当に望むことは何もできれない。やっと国王が帰還しても同じだ。好きな女のもとにすら行けず、またセシリィが邪魔をする。
「エフ。婚約を破棄できる手掛かりは何か見付けたか」
「今のところは何も。以前破棄したはずの神殿でも証言は得られず、セシリィにもクィントゥス侯爵にも落ち度はありません」
「……いっそのこと、忍び込んで燃やすか」
「言っておきますが、殿下の手の者は使えませんよ。騎士団も、三分の一が陛下に、三分の一がルキアノス殿下についていって出払っています」
「燃やすって提案は却下しないんだねぇ」
真面目くさって回答するエフティーアに、レヴァンが扉に背を預けて呆れる。実際、婚約書を探して破棄する案は出ていたが、書類を探し出すまでは手が回らなかった。
「だったら……セシリィを」
「それよりも」
エヴィエニスが更に表情を凶悪にして王子らしからぬ策を立案しようとするのを遮って、エフティーアが強引に用件をぶち込んだ。
「ファニから伝言を預かっています」
「!」
「『婚約式には必ず出席して。私も、私のけじめをきちんとつける』……だそうです」
ハギオン大神殿での婚約式は、明後日に迫っていた。八方塞になっても、どちらがが式に現れなければどうにかなると考えていたのに。
「ファニ……!」
何もかも、思い通りにならない。