何もかも、面倒くせぇ
それは、ある日突然訪れた。
「……お前、背ぇ伸びた?」
「はぁ? そんなわけ……」
イスヒスの問いかけに、阿呆らしいと一蹴しようとしたフィイアは、言い切る前に止まっていた。
フィイアは永遠の十四歳だ。背など伸びるはずがない。けれど確かに、真横を向けばイスヒスと視線が合う。イスヒスはもうすぐ十七歳で、同年代の神武官の中では一、二を争うくらいには体格がいい。
すぐに追い抜かれ、置いていかれるとずっと諦観していたから、全く気付かなかった。
視線が合うなんて、おかしい。
「……イスヒス。俺、今、何歳に見える?」
「……十五か、六歳、くらい」
一瞬言い淀んでから、イスヒスは答えた。
この男は知っているから。出会った時から、十年前からフィイアが成長していないことを。そして、その意味にもうっすら勘付いている。
だから、そんな顔をするんだ。
「おい、フィイア」
「……やだ……ダメだ……」
「フィイア!」
「ッ」
強く体を揺らされ、フィイアは正気付くと同時に駆け出していた。イディオを、イディオを探さなければならない。
第二次聖泉争奪戦争が始まった時、イディオは十一歳だった。戦時中に十二歳になり、そしてこの前十三歳になった。
(いや違う、もう半年経った!)
その間、ずっと気付かなかった。聖泉には水を汲みに行くだけで、もうずっと潜っていない。前線から逃げて、聖泉で溺れて、助けられてから。
「フィイア、待てって! 一体何が」
がむしゃらに走っていたのに、腕を掴まれた。反動で向き直る。その顔に、叩きつけるように怒鳴っていた。
「何で……何で助けたんだ! 俺なんか、放っておけば良かったのに!」
間抜けで卑怯で臆病な自分への怒りが、一年前に自分を引き揚げた男へと転換される。殴り付けてやりたいくらいだった。この逞しい腕が何もかも悪いのだと。
けれど。
「……お前のためじゃない。お前の弟が……イディオが、泣きじゃくるから」
その声が、あまりに傷付いたようだったから。助けてくれたお礼すらちゃんと言っていないくせに、何度も繰り返し責める自分が心底嫌になった。
「……違う。俺は、死んじゃいけなかったんだ。俺が……」
その先は、言葉が続かなかった。
俺が逃げようとしたのがいけなかったんだとは、言えなかった。
◇
イディオのために聖泉の水を汲むのは、フィイアの仕事になった。エレスフィに近付けさせないようにするのは、完全な保身だ。
知ることが出来るのは始まりの乙女のことだけで、他の歴代の乙女のことは分からない。それでも、万が一にも知られるのが怖かった。
だから、それは偶然だった。
「嫌だ! 飲みたくない!」
その日も、汲んだ水をイディオに届けた。喉の渇きにはこれしか効かないと言って。
それを、イディオは憤りに任せて振り払った。
当然だった。イディオはまだ一度も聖泉に入っていない。ヒナのことも覚えていない。兄のことは、ラコン同様童顔で背が低いだけと思っている。
だから、その水が一体何なのか、イディオは知らなかった。イディオからすれば、その水を飲み始めたせいで喉が渇くようになったとさえ思ったかもしれない。
「でも、飲まなきゃならないんだ。この前だって、血を吐いたろ。何日飲まなかったんだ?」
砕けた水差しの破片を片付けながら、優しく促す。真実を言えと、もう一人の自分が責める。
「……三日」
「……そうか」
恐らく、それが限界値なのだろう。
そう、ぼーっと考えていたせいだ。
「っ」
「ご、ごめんっ」
指を切った。慌てたイディオが、床に手をついて身を乗り出す。
「あ、バカ!」
「った!」
案の定、細かな破片が刺さってしまった。血が、ぷくりと盛り上がる。だが、それだけのことだった。
「おーい。また悪餓鬼が暴れてん……」
耳敏いラコンが、様子を見に来なければ。その目の前で、イディオの血と聖泉に触れたフィイアの切り傷が、みるみる塞がらなければ。
「なん……?」
「魔法……じゃねぇな?」
フィイアが驚いている間に、ラコンが状況を理解してしまった。そのことに、ゾッとした。
「違う! 俺だ!」
「お前は何もしてねぇ。見りゃ分かる」
「俺がやったんだ! 耄碌爺が勝手なこと言うな!」
「死にてぇのか、この餓鬼は」
縋りついて止めるフィイアを、ラコンはいつもの凶悪な目付きで見下ろして凄んだ。そして、眉間に皺を刻んで、目を逸らした。
「……神職者は、奇跡は見過ごせねぇんだよ」
◇
一月と経たないうちに、全てが様変わりした。
事態は神殿長が知るまでに至り、イディオは奇跡を預かる神の愛し子とされた。奇跡のために聖泉が必要だと分かると、フィイアの力を元に聖泉の周囲に結界を張ることになった。
「これは、イディオを守るためでもある」
ラコンは、人でも殺した後のような顔で、そう言った。
余人が聖泉に勝手に立ち入らないようにするためと、いざという時にイディオが逃げ込めるようにするためという理由を挙げられれば、フィイアは協力するしかない。
特別に結界内に入れるように、法具も作った。イスヒスに持たせたのは、フィイアのたっての希望だった。その頃には、フィイアはイディオからの信用をすっかり失っていたから。
奇跡は秘密とされたが、それでも十年も経てばどこからか漏れ、神の子の噂は広まった。
「これは、イディオに必要なことでもある」
神殿長が、眉毛に隠れて見えない眼で、そう言った。
結局、フィイアが何もできないでいる間にイディオは豪華な監獄に閉じ込められ、毎日強制的に自分を傷付けながら、他人を癒すことになった。
イディオは、時々自分を虐めるように聖泉に身を投げ、水を拒否するようになった。
イディオが自暴自棄にならないように、イスヒスが護衛兼お目付け役になった。
「これは、イディオのためでもある」
イスヒスにそう言われ、フィイアはもう、やめた。
「……面倒くさぁ」
自分で考えるのも、動くのも、もう全部やめた。言われた通りに動き、二重間諜を命じられても躊躇いはなかった。
この時にはもう、こうなったのが偶然ではないと、フィイアは理解していた。全て、フィイアが判断を間違えたからだ。
「何もかも、面倒くせぇよ……」
何もかも、フィイアの力では解決できなくなっていた。
◆
イデオフィーアなら当たらないと思ったのに、フィイアは避ける素振りすらなくその拳を受け入れたように、小夜には見えた。
フィイアの細身の体が、鈍い音と共に床に打ち付けられる。ルフィアが怯えるように短い声を上げ、アデルが隠すように抱き締める。諫める声を上げたのは、イディオを抱き起こしたフィオンであった。
「イスヒス殿。それはやり過ぎで」
「うるせえ!」
「ったぁ……」
イスヒスが肩を怒らせて怒鳴る。その足元で、フィイアが小さく呻く。
その襟首を掴み上げなかったのは、イスヒスなりに自制心を総動員した結果だろう。お陰で、唯一手が空いている小夜が止めに入る事態にならずに済んだ。
しかし怒り自体はそう簡単に収まるものではなかったらしい。
「何が馴れ合いだ! 適当なことばっか言いやがって!」
床に倒れたままのフィイアを真上から睨み、怒気に顔を赤らめて指を突きつける。
「俺が止めればいいとか、取り消してもいいとか、任せたのが間違いとか!」
その声は語尾が掠れていて、小夜は、あぁ、違うな、と気付いた。
(友達なんかじゃないって言われて、傷付いたんだ)
フィイアの冷たく無責任な発言に腹が立ったのも間違いではないだろう。だがそれ以上に、友人であることを否定されて悲しかったのだ。その証拠に、フィイアに訴えかけるイスヒスの顔は情けなくて、とても小夜より年上の大人というようには見えなかった。
「……イスヒス」
「間違ってんのは、お前だ」
感情を見せないフィイアを見下ろして、イスヒスが断言する。
その辛そうな声に、小夜はついに何度も堪えてきた心の声が零れてしまった。
「え、いやいや、フィイア先生は間違ってませんって」
お小夜さん、カムバック。




