死ぬよりも酷い後悔
神殿に拾われて、十年は平和に過ごした。
フィイアは神武官となるべく、日々ラコンに扱かれた。イディオは十一歳になり、フィイアの背丈にもう少しで追いつきそうであった。先日孤児院に入ってきたツァニスたちをよく纏め、年長者ぶる姿が微笑ましい。
そう思えるほどには、フィイアの中の憎悪は薄れてきていた。シェフィリーダ王国のことを許したわけではないが、始まりの乙女のように無用な敵愾心を燃やして不毛な連鎖を広げたくはなかった。だから、イディオにも何も教えていない。
「毎日飲まなきゃいけないってことくらいは、教えたらいいんじゃないか?」
すっかり背を追い越したイスヒスが、剣の稽古の合間にそんなことを言う。今年で十五歳になり、その精悍さは同年代の中でも頭一つ抜けている。だがどうにも気を回しすぎるきらいがある。お陰で、イディオやツァニスにいいように玩具にされていた。
「言うわけないだろ? 飲んでいれば何でもないんだから」
「でも……多分、勘付いてるぞ、あいつ」
剣先を緩め、イスヒスが小さく呟く。その瞬きの隙に懐に入り込んで、手元を斬り上げた。
「っわ、バカ!」
「うるせぇ。しっかりやらねぇと――」
その二人の足の間に、ちゅどんっと穴が開いた。
「おー、そこの悪餓鬼二人、きちんとやれやー」
「…………」
「…………」
練武場の端で監督していたラコンが、魔法の殺傷能力の高さに反してやる気のなさそうな声で咎める。殺す気かと言えば殺して欲しいのかと言われるだけなので、二人は黙って剣を構え直した。
「フィイア兄ちゃんたち、また怒られてるー」
「イスヒス兄、遊んでー」
「うるせぇ! ジジイに殺されるだろうがっ」
遠く噴水の清掃をしていたイディオたち年少組が、楽しそうにからかってくる。この後のイスヒスの処遇は最早お決まりの流れになるのは目に見えていた。
何でもない、少しだけ楽しい毎日。
こんな時間がいつまでも続けばいいなどと、贅沢なことは言わない。
(あと、四年)
あと四年経てば、イディオは十五歳になる。そうすれば、呪いの対象外になるはずだ。その先のことは分からないけれど、イディオはこの苦しみを知らずに済む。
だから、絶対に言わない。
もう、聖泉の番人などは要らないのだ。あの森に家族で住んでいたのも、母が妹を見捨てることが出来なかったからではないかと、今は思う。妹のその苦しみから目を背けるのを許せなかったがために、ともにあそこに住んでいたに過ぎないと。
イディオが子供を産んだらとか、その先のことは分からないけれど。フィイアが堪えるのはあと四年だ。それまでは、決して死なない。
そしてそれは、大して難しいことではないはずだった。
第二次聖泉争奪戦争が始まらなければ。
◇
フィイアとイスヒスは、神殿兵として戦争に参加した。
ラコンの配下として出陣したが、前線に回されることはまずなかった。それでも、戦争に参加している限り常に武装し、気を張り、身を守るために他者を切り捨てた。
イディオたち年少組は避難できれば良かったのだが、人手が足りないということでディドーミ大神殿に残って、負傷兵などの手当てに回っている。
主戦場は、クレーロス城からヒュベルの王城アルテリアへと移っていた。開戦から一年が経つ頃には、フィイアもアルテリア城の戦いに参加した。魔法がからきしのイスヒスと、魔法が得意なフィイアとで、変則的な戦い方を学んだ。
だから、驕慢になっていた。
その当時、フィイアは実年齢で言えば二十三歳で、背を預ける友は血気盛んな十五歳。戦争を忌み嫌う反面、神殿で長年過ごした鬱屈が、捌け口を求めていた。
「とっとと終わらせるぞ」
遅れて駆け付けたテレイオス伯爵が強引に王城への突入指揮を奪い、その場の比較的軽傷の部隊を引き連れて行くとなった時、ラコン配下のフィイアとイスヒスも参加することになった。拒否することもできたが、しなかった。
燃え盛る炎の中、迅雷風烈の勢いで突き進むテレイオスの後について城を駆け上がった。頑丈な石造りの狭い廊下の先で、少数の手勢を引き連れたヒュベル王と相見えた。
老獪で達観した目をした男と、矍鑠というのも憚られるほどに屈強な老人が先頭であった。
戦って戦って戦って、憂さを晴らしていただけかもしれないと気付いた時には、死にかけていた。外れていた心の箍が戻ってきて、死んではならないのだったと遅蒔きに思い出した。
イスヒスに頼って戦線を離脱し、ラコンに許しをもらって前線からも下がった。だがその帰りにもまた敗残兵と思われる連中に襲われ、聖泉の水を詰めた水筒を落とした。
イスヒスともはぐれ、一人森の中をさ迷った。一日中歩き回って、喉の渇きで体が引き裂かれそうなほど痛んで、何度も目を回した。
もしかしたら、一日でも飲まないと死ぬというのは正確ではなく、堪えられるのがせいぜい一日という意味合いなのかもしれないなどとも思った。
小川や水場を見つけるたびに、エレスフィかと思って顔を突っ込んだ。たが渇きはちっとも癒されなくて、代わりに幻聴が聞こえた。
「……ちゃん! 兄ちゃん! フィイア兄ちゃん!」
イディオの涙声が、水の向こうから聞こえるのだ。だから、フィイアは歩いた。小さな水溜まりの中から、小川の溜まり水の中から、自分を呼ぶたった一人の弟の声に導かれて。
そしていつしか、それは幻聴ではなくて水鏡の魔法ではないかと考え始めた頃、フィイアは辿り着いた。
聖泉エレスフィに。
けれどその時にはもう口を開けて水を飲む力もなくて、フィイアは吸い込まれるように水中に転がり落ちていた。ぶくぶくと、気泡だけが昇っていく。
それを眺めながら、フィイアは思った。
(このまま)
このまま、死んでしまいたいと。
それは、勃然と胸に起こった、あまりに魅力的な誘惑であった。このまま死んでしまえば、フィイアはもうあの渇きに苦しむこともない。死んだ後に聖泉の乙女がどうなろうとも関係ない。
死は、解放だ。それがたった一人の弟に対しての途方もない裏切りだと分かっていてもなお抗いがたい、卑怯な希望であった。
だというのに、脳裏には叔母の最期の顔がちらつくのだ。母にすがりつかれ、勝ち誇ったように笑うヒナ。
(……あぁ。あれは『上がり』だ)
唐突に理解した。あれは母の愛を息子から奪い取った勝利の笑みなどではなく、やっと終わる、その満足感からだったのかもしれない、と。
(いいなぁ……)
ヒナが何年生きたかは、聖泉は教えなかった。もしかしたら、母の妹ではなく姉かもしれないし、もう一代前の生まれかもしれない。永遠の十四歳は天命でも死なないのかどうか、それすらも、フィイアは知らないのだ。
でも、きっといつかは死ぬ。
それまでは、この渇きはしつこくフィイアを苛むだろう。そしていざその時がくれば、またこんな風に苦しむのだ。
死ぬ時はきっと痛くて辛くて苦しくて、暗くて寂しくて、独りぼっちだ。
もう一度そんな苦しみを味わうくらいなら、今終わった方が楽に決まっている。
だから、
『フィイア兄ちゃん!』
死にたくない、と――願ってしまった。
涙が――家族が死んでから、一度も流さなかった涙が、泉に混ざって、溶けて昇る。
《まだ、生きたいか》
男とも女ともつかない声が、脳裏に直接響く。
《久方ぶりの来客じゃ。生くるか、死ぬるか。ゆるりと決めよ》
(もう、分からない……選べない……どっちも嫌なんだ……)
《では選べ。誰に渡すか》
選べないって言ったのにと、文句を言う気力すらもうなかった。だというのに、真っ暗なはずの視界に細かな光が星空のように瞬いて。その先に、頼りないほどに小さな、手が見えて。
(……イディオ……)
無意識に、その手を掴んでいた。
死ぬよりも酷い後悔をすることになると、知りもしないで。