十四歳の誕生日
過去編となります。
主人公不在の上、暗いし長いですが……
お付き合い頂けましたら幸いです。
一家は、森の中に隠れるように住んでいた。
聖泉エレスフィから更に北西に入った、森の奥の奥。有り合わせのもので作った質素な小屋が二つだけ。家畜も菜園もない。内の一つも薪割り小屋だから、家族五人は一つの小さな家に押し合うようにして暮らしていた。
父と母と二人の兄弟。そして、母の妹。
兄フィイアは十三歳、弟イディオは一歳になったばかりだった。
父は優しい人で、いつも母を最も大事にした。母は気の強い人で、一家の指針だった。けれど我が家で最も至上とされたのは、母の妹であった。
「母さんにはヒナが一番なの。どんな時も、何があっても、ヒナを一番にしなきゃいけないのよ」
幸せそうに、穏やかに、母が言う。それが、母の口癖だった。
「二人はいつまでも仲がいいなぁ」
そんな姉妹を眺めて、満足そうに父が言う。それが、父の口癖だった。
けれど十三歳にもなれば、それが上手く笑えていないのではないかと気付くようになった。何せここには、家族以外他に何もない。狩猟も採集も、食事も睡眠も、四六時中一緒なのだから。
ある時、ヒナと二人きりになることがあって、フィイアはずっと気になっていたことを聞いた。
「叔母さんは、どうして年を取らないの?」
父も母も年々皺が増え、白髪が増え、年を取るのに、ヒナだけはいつも変わらなかった。背も声も、肌も髪も、ずっと若々しい。十三歳になったフィイアの方が、もう拳一つ分も身長が高い。
きっと何も知らない人が見たら、二人こそが兄妹だと思うほどに。
母は、ヒナがいつまでも可愛らしく美しいから、宝物のように大事にするのかと思っていた。けれど違うと、今なら分かる。
「あたしが今死んだら、次はフィイアの番だよ」
ヒナは、無邪気に笑った。何のことか、見当もつかなかった。
「でも、お前が十五歳になれば、次はイディオだ」
「イディオが、なぁに……?」
「選べるのはあたしだ。いつ死ぬか、誰に渡すか」
ヒナは、やはり無邪気に嗤った。怖気が立つほどに恐ろしくて、フィイアは走って逃げたくなった。
けれど言わねばならない、と思った。
「イ、イディオは、ダメ……」
イディオは、可愛い弟は、まだ一歳になったばかりだ。やっと数歩歩けるようになったばかりだから。だから、ダメなのだ。
「だったら、大精霊クレーネー様に祈るんだね」
ころころと、愛らしい少女のようにヒナが笑う。
軍馬が森を踏み荒らしたのは、それから数週間もしてからだった。
日々の習いである聖泉に出かけていたヒナが、森の南から軍勢が入って来るのを見たと告げたのだ。
「シェフィリーダだ! また森を奪いに来た!」
「ヒュベルに……クレーロス城に助けを……!」
般若のような形相で断言した母に、父は狼狽えながらもそう言った。
森は中立のはずだが、愚か者の強欲の前に守られたことはあまりない。このような時のために、聖泉の番人は南北の守りの城に無条件で受け入れられることになっていた、はずだった。
「ヒナを置いては行けない! 私は……!」
母は怒りながら涙を散らしてヒナを抱き締めていた。フィイアは、ちっとも分からなかった。
「何で? みんな父さんと一緒に行けば……」
「お前は……!」
母は、更に目を吊り上げてフィイアを睨みつけた。その時の恐ろしいまでの形相を、今でも覚えている。そしてあの続きも、今なら分かる。
お前は、ヒナを殺したいのか、と。
聖泉の水を一日でも飲まなければ、ヒナは死んでしまう。たとえクレーロス城に逃げ込めても、あそこに聖泉はない。身の安全が確保できても、森に戻るのに何日もかかれば、意味はない。
ヒナは、当代の聖泉の乙女だったから。
結局、母はヒナとともに森の中に隠れ、父はイディオを抱いてフィイアと共に逃げた。その途中で父は襲われ、フィイアはイディオを抱いてまた逃げた。その後の記憶は、ほとんどない。
痛くて怖くて、イディオが重くて泣き止まなくて、フィイアの方が泣きたかった。逃がしてくれた父の背より、ヒナを抱き締めて怒り狂っていた母より、母の腕の中で勝ち誇ったように笑っていたヒナの顔ばかりが頭に残って、堪らなかった。
応えないと分かっているのに、ひたすら大精霊クレーネーに祈っていた。
助けて、助けて、助けて、と。
ぼくを助けて。イディオを助けて、と。
でも、大精霊はやはり助けてくれなかった。
イディオを抱き締めて傷だらけになって倒れていたフィイアを拾ったのは、黒地に赤と青の差し色がある服を着た、背の低い男だった。
◇
シェフィリーダ王国の侵攻で始まった第一次聖泉争奪戦争は、ヒュベル国王の死をきっかけに、コヴェントーの森全体を中立地帯とすることで和平が成立した。
フィイアとイディオは、その時に参戦していた神武官ラコンに拾われ、ディドーミ大神殿で孤児として育てられることとなった。無論、心を開くことなどなかった。
シェフィリーダは、先に不戦の契りを破り、森を侵した。いわば家族の仇である。
だがそんな決意も、長くはもたなかった。
ある日突然、喉が渇いたのだ。
「っぃぁがはっ……っあぁあ……!」
それは今にも体が裂けてしまいそうな程に強烈な渇きであった。何を飲んでも喉と言わず体中がひりひりするほどの渇きに、フィイアは堪らず駆けだした。剣の訓練を投げ出し、目的もなく走り回って、気付けば聖泉に辿り着いていた。
「大精霊、クレーネー……」
ヒナの言葉が、最後の笑みが何度も何度も脳裏に蘇る。導かれるように、泉の水を口にした。
渇きが癒えた。
自分でも忘れていた、十四歳の誕生日を迎えた日のことであった。
◇
喉が渇く激痛は毎日訪れ、すぐにバレた。
最初は同室の孤児で、年下のイスヒスにだった。妙に目端の利く子供で、イディオもよく懐いていた。
次はフィイアたちを拾った神武官のラコンであった。孤児を次々に拾ってくるくせに少しも世話をせず、その面相は凶悪で、どう見ても子供好きではなかった。そのくせ、やはりよく気が付いた。
「お前、死にそうなのか?」
「死ぬかバーカ」
ある日そう聞かれ、舌を出して答えた。半殺しにされた。
「お前、出身はどこだ」
「教えるかバーカ」
懲りずに舌を出した。やはり半殺しにされて石門の一つから吊るされた。
だが、その頃にはもうフィイアは全て知っていた。聖泉エレスフィに潜る度に、初代の聖泉の乙女の記憶が蘇るからだ。だから分かる。
ヒナは死んだのだ。母を道連れに、フィイアが十四歳を終える前に。だから、フィイアが当代に選ばれた。そこに彼女の意思があったかどうかは分からない。
今度は、フィイアが永遠の十四歳となった。
これは呪いだ。けれど神の眷属たる大精霊にとっては、そんな意図すらなかったのかもしれない。
始まりの乙女は、泉の底、十四歳の死の淵で、こう言ったのだ。
『手前らが死ぬまで、おれは死なん』
そして気紛れな存在は、気前よくこう答えた。
『よくぞ言うた。では生きよ。その代わり、その言葉、篤と果たせ』
果たすべき言葉とは、何のことか。
復讐だろうか?
伝説では、そうなっている。
だが違うと、フィイアは考える。
手前ら――そこに、自分の一族を滅ぼしたヒュベル王国や、勝手に引導を渡した祖王ヴァシリオスだけでなく、大精霊さえも含まれていたとしたら。
(復讐なんか、糞喰らえだ)
乙女の無意味な復讐心が、敵愾心が、老いることのない体を子孫に残したのだとしたら。
呪ったのは、大精霊クレーネーではない。
故郷を亡くし、同胞も死に絶え、名前さえも忘れ去られた、愚かな女だ。