お前だったからだ
「えーっとぉ……」
小夜は困った。
婚約を避けるために、出産する。
冗談にしか聞こえない。
しかし目の前の少年の顔は、どう見ても真剣であった。
「理由を、お伺いしても?」
改めてそう問えば、イディオは肩を竦めて椅子に戻った。一人掛けの椅子に向かい合って座れば、二人の体格には大した差もない。イディオの方が少し小柄なくらいだろうか。
けれどもう、小夜には彼が十四歳には見えなかった。
「イディオ様」
イスヒスが、堪りかねたように呼び掛ける。その顔は、困惑するフィオンとも違い、咎めるというよりも心配するようだった。
けれどイディオは、それに優しく――酷く優しく微笑んで、答えた。
「兄には……正確には、ぼくたちにだけど――子供が必要なんだ」
「聖泉の乙女の最後の末裔だから?」
「……知ってたの?」
「聖泉の結界内に入れるのは祖王と乙女の末裔だけって話してたでしょ? それに、最後の一人になったとも言ってたから」
イディオが神殿に引き取られたと聞いた時、他に家族はなく、二人きりだろうということは察せられた。その二人が聖泉の乙女の末裔なら、神の子と呼ばれるのも納得がいく。
何故イディオだけがそう呼ばれるのかはまだ分からない。だがフィイアに子供が出来れば、乙女の末裔は三人に増える。そのことに、何か重大な意味があるということなのだろう。
もしかしたら、最年少者が神の子になるとか、そんな制限でもあるのかもしれない。
という思慮は、どうやら似合わなかったらしい。
「意外だ。あまり聞いてないか、聞いてても組み立てられないかと思ったのに」
「私の意外性って多分そこじゃないと思うんだけど」
純粋にそう言われて、小夜はささやかに傷付いた。ルキアノスやメラニアに再会した時も、礼儀正しくしただけでほんのり驚かれたこともある。
今更ながらだが、奇行奇声は決して小夜だけのせいではないと訴えたい。
閑話休題。
小夜はここに一つの回答があると思う。
「イディオは、ファニと結婚するつもりだったの?」
子供を産めと、小夜に提案するというのなら。小夜が現れなければファニにそう取引を持ち掛けるつもりだった可能性は高い。
それが当初からの目的だとすれば、ファニを求めたのも、神殿全体というよりも神の子の意思という可能性すらある。
だが。
「……まさか」
外見年齢だけであれば十分釣り合うと思ったのだが、イディオはすっと冷めた瞳で否定した。
「じゃあ……」
「……呪いを、移せるんじゃないかと思ったんだ」
罪を告白するように、イディオが言う。
呪いと言われ小夜の脳裏に蘇ったのは、ファニと再会した時に呟いたイディオの言葉であった。
『呪われているわけでもないくせに』
あの、憎々しげな声を。命の水を大っ嫌いと言った声を。小夜は覚えている。
一日でも聖泉の水を飲まなければ死んでしまうような呪いが。永遠の十四歳と呼ばれるような原因が、聖泉や最初の乙女にあるというのなら。
(嫌いなのに、憎んでるのに……離れることが出来ないなんて)
まるで苦しめることだけが目的のような、酷く、意地の悪い呪いに思えた。
「あの女が来たその日に、エレスフィに連れて行った。でも何も起こらなかった。水の中に突き落とそうとしたけど……止められたし」
ちらりと、視線がイスヒスに滑る。それだけで、その時に繰り広げられた一悶着が想像できた。そして、イディオが頑なにファニを偽物と言って認めない理由も。
(これで救われると思ったのに、そうはならなかったから)
期待した分だけ、その失望は深い。ファニには何の罪もないと承知しながら、憎しみだけが残ってしまった。
「あの後も何度もエレスフィに入ったけど、クレーネーは何にも言わなかった。代わりをあげるって、何度も言ったのに。あの時、みたいに……!」
いつしか、イディオらしくなく声に熱がこもる。いつでも達観したような、何かを諦めきったような顔ばかりしていた少年の、年相応の悲痛な声に。
「――イディオ」
眠たげな声が、そっと被さった。ハッと、イディオの瞳が焦点を結ぶ。
「……兄さん」
扉の前に、憂うような顔をしたフィイアが立っていた。いつからいたのか、それとも、最初からそこにいたのか。
「もうやめろ。そんなことでは何の解決にもなりはしない」
「……なるよ。少なくとも、兄さんとぼくは、ここから離れられる」
「何も知らない赤ん坊を生け贄にして、か?」
「ぼくだって何も知らなかった! 兄さんがいなければ……!」
「違う」
大喝、というわけではなかった。だがその声はよく響き、イディオはびくりと肩を震わせた。まるで叱られた幼子のように、兄を見上げる。その情けない顔を困ったように見つめてから、フィイアはゆっくりと歩を進めた。
「違うだろ。俺たちは、最後まで何も知らず、誰にも教えてもらわなかった」
駄々をこねる子供にゆっくりと言い聞かせるように、フィイアが語調を緩める。
「あの聖泉が、俺たちに全てを教え、全てを奪うんだ」
今にも泣きそうな顔をする弟の前に立ち、その白い頬に慈しみ深く手を伸ばす。
「だったら、ぼくたちだって奪っていいはずだ」
「……それは、誰からだ?」
「そんなの……っ」
兄の問いに、イディオが勢い込んだ言葉と裏腹に視線をさ迷わせる。その先に、小夜がいた。
「え、私?」
つい、間の抜けた声が出ていた。奪われるようなものなんて何もないんですけど、と言う前に、イディオが傷付いたようにサッと目を逸らす。フィイアもまた嘆息とともに視線を元に戻した。
「奪うなら、俺だけにしとけ」
「ッ」
囁くような呟きに、イディオがハッと目を瞠る。その声がどこか懺悔のようで、責められているのがどちらなのか分からなくなる。
「あの時――二十年前のあの時、俺が逃げたのが悪かったんだ。だから、俺だけにしろ」
「違う!」
兄の言葉が終わるよりも早く、イディオが叫ぶ。頬に触れた手を振り払い、子供の癇癪のように首を振った。
「違う違う! ぼくが助けたんだ! ぼくが望んだの! 兄さんは逃げたんじゃない……!」
否定は慟哭に変わり、ゲホッと鈍い咳が最後に続く。その時には、イスヒスが飛び出して二人を引き離していた。
「もう止めろ!」
「イスヒス、兄ちゃ……」
口端から少量の鮮血をこぼして、イディオが呼ぶ。その小さな頭を胸に掻き抱いて、イスヒスがフィイアを睨み上げた。
「フィイア。やりすぎだぞ」
「神の子の暴走を止めただけだ。一般人を掴まえていつまでも本物の聖女だなんて……第二王子が到着したら冗談じゃ済まなくなるだろ?」
「それにしたって、お前があんなことを言えば……」
「だったら、お前が止めれば良かった。こいつのことは、お前に任せておいただろ」
それはどこか無責任にも思える、突き放した言い方であった。イスヒスの顔から戸惑いが消え、その三白眼に明らかな怒気が滲む。
「……本気で言ってんのか」
「俺は大抵本気だ。別にお前が嫌なら、取り消してもいいぞ」
「なん、だと……?」
イディオの耳を塞ぎながら、駆け付けたフィオンと従者たちに任せようとしていた動きが止まる。それを無機質に見下ろして、フィイアが気怠げに肩を竦めた。
「思えば、お前になついてるからって安易に任せたのが間違いだったんだ。イディオ一人なら、俺を助けるなんてことは不可能だったはずなのに……。俺は、あのまま」
「俺がこいつに手を貸したのはお前だったからだ!」
その先を言うのを許さないとでも言うように、イスヒスがついに感情を爆発させた。バネのように跳ね上がって、その襟首に掴みかかる。
「お前が! 一人で足掻いて苦しんで、死んで終わりにしようとしたからだ!」
唾がかかりそうな程に間近から、イスヒスが怒鳴る。多少なりと息が苦しいはずなのに、それを見下ろすフィイアはあくまでも冷ややかだった。
いい年をした男二人がこんなにも過剰接近すれば、腐女子センサーが所構わず反応してしまう小夜であったが、良いと叫ぶにはフィイアの顔はあまりに悲しげに見えて。
「……面倒くせぇ」
まるで自分に言い聞かせるように、お馴染みの口癖を吐く。
あぁ、それはもしかして自己規制という名の強がりかと、声に出かかった時であった。
「やっぱり、間違いだったな。お前と、馴れ合ったのは」
フィイアが、独り言というには随分鮮明に、そう言った。
イスヒスの拳が、その左頬に飛び込んだ。




