人工知能よりも融通が利かない
土煙を上げて馬車に逃げ帰って、冬なのに汗だくになるくらい必死で籠城した。あのイスヒスに追い付かれる前に扉を閉められたことは、小夜の中でも指折りの功績と言えたであろう。
最早この金メッキされた高そうな把手が取れようともこの扉は開けるまい、と誠意と言葉を尽くして訴えた。
「いーやー! 絶対っ、もう絶っっ対ここから出ないったら出ないー! 馬車壊れたって弁償しませんからぁっ!」
結果として、非常に満足そうなイディオが普通に歩いて戻ってきて「じゃあ帰ろっかー」とお気楽そうな声をあげたことで、この攻防は幕を下ろした。
フィオンが、兵士に取り繕って説明して日程を改めることになって大変手間が増えたとちくちく言ってきたが、基本的に小心者の小夜でもこの時ばかりは謝罪の一つも出てはこなかった。
何故なら。
「何であんなタイミングで喋ったのよ! 今まで一度も口聞かなかったくせにぃっ」
トリコを責めるのに忙しかったからである。
「意見を求められたために回答したまでである」
「それでも! あんなこと言わなくて良かったのに! そもそも選んだのは私じゃなくてセシリィでしょ!?」
「セシリィ・クィントゥスは我々を選んだが、我々が選ぶことはない。但し、不可抗力の事態に巻き込まれることはあり、その後の変質の有無を観察することもまた我々が求める秩序のっ」
「おのれは宇宙警察か!」
頭が痛くなりそうで、小夜はまたがっくがっくとトリコを揺さぶった。会話が成り立っているようでまったく成り立っていないのに、第三者からはそれなりに成り立って見えることがまた厄介であった。
「まぁ、小夜。少し落ち着いて? 御使い様にそんな扱いは」
「トリコは乳幼児ではないので揺さぶられ症候群の心配は無用です!」
「えー、なにそれ?」
甥っ子と遊んだ時に母親から注意されたことが真っ先に浮かぶあたり、小夜の記憶回路は相当混乱していた。イディオが面白そうに笑っている。
しかし小夜は笑い事ではなかったし、トリコに至っては更にひどかった。
「我々には年齢という概念は存在しない。我々は存在した瞬間から生命でいうところの成体であり、極度に損耗又は再生不能なまでに破壊されるまで変性しない」
「…………」
最早言葉もなく、両手で掴んだトリコを睨む。どうやら否定し続けてどうにかなる問題ではなさそうだと、小夜はいい加減熱くなり過ぎた思考を冷ますことにした。
改めて馬車の座席に腰掛け直し、トリコを膝の上に乗せる。
「トリコって、何なの?」
それは、召喚も四度目ともなるのに何とも今更な疑問であった。
小夜が知っているのは、セシリィが小夜と肉体を交換して世界の外に飛び出そうとした時、世界に弾かれたせいで行き場を失くしたセシリィの魂が仮宿にした生物ということくらいである。
「その質問では、定義が不足しているために明確な回答を行うことができない」
面倒臭い返しがきた。今時の人工知能よりも融通が利かない気がする。
こういう時の万能な対応として、小夜は全面カバーできる返しにした。
「包括的な回答でお願いします」
「……我々は、神々と天上の秩序を守る監視者であり、意思であり、執行者である。我々は個体であり総体である。ゆえに我々は全てのものであり、なにものでもない。我々は時に」
「分カッタアリガトウとりこモウイイヨ」
処理しきれなかった。余計に痛くなった頭を押さえながら、イディオに助けを求める。
ぽかんとしていた。
「イディオ? どうし」
「すごい……本当に本物みたいだ……」
トリコを見るその眼差しは、感嘆のように思えた。嘘から出た実に遭遇したような、夢が現実になったような驚き方にも見えて、小夜は今日何度目かになる予感に戦慄した。
「ま、まさか……」
「肉体と魂に齟齬のある人間は時々いる。動物――特に魔獣にもそれはあるから、その類だろうと思ってたのに……」
「やっぱりぃ!」
膝の上に泣き伏した。トリコがばさりと逃げるが構ってやれない。
完全に状況を利用された。トリコが喋らなくとも、イディオは不自然な鳥を意味深な使者に仕立て上げて小夜に否定のしようがない神秘性を付加しようとしたのだ。
酷すぎて涙がちょちょぎれる。
「本当はそんな気さらさらないのに、思わせぶりな言い方して私を騙したのね!」
「騙すだなんて。ぼくは勘違いしただけだよ?」
「そう言えば詐欺罪に問われないとでも思ってんでしょ!」
「痴情のもつれか」
わーんっと喚く。隣に同乗したイスヒスが呆れたように呟いた。ちなみに説明すると、フィオンが御者を務め、ルフィアが補助に。車内にはイスヒスとアデルがいた。
「落ち着いた?」
「何でよ。……でも、少し」
茶番が意外に楽しかったのか、にこにこ尋ねるイディオに、小夜は徒労を感じながらも頷いた。
とてつもなく背水の陣になった気がしていたが、これでファニが自由になるかもしれないなら、悪いだけではない。それに、小夜が本物でないことは自分が一番よく分かっている。聖泉の乙女が偽物だったとなっても、今までも神殿にはその存在は不在だったのだ。致命的な不都合はないはずである。
一番の問題は小夜の処遇であるが、こればかりはイディオたちの常識と良心に訴えるしかあるまい。
となると、今あわてふためいてもどうにかなるものでもない。機を窺って逃げる意外にはやることもないので、当面の疑問を解決することにした。
「じゃあ、イディオにもトリコが何なのかは分からない?」
「いや、さっきの説明から一つの推察はできるよ」
カラカラと馬車に揺られながら、イディオが自説を教えてくれた。
「人語を解する獣というと、魔獣の他に一般的なのは神々を天上にお連れした神獣なんだけど」
「神識典に載ってた第一の神々とかの話?」
「そう。天上にはその神々と神獣の他に、二種類の存在がいると云われている。神に仕える者――神仕と、天が使う者――天使だ」
「天使!」
「特に翼あるものは天上と地上とを繋ぐ天啓の使者、天上の御使いなどと言われ、様々な伝承にも登場する」
心踊る単語の連続に、小夜はこんな場合ではないのについトリコを凝視していた。
セシリィの最初の説明が甦る。
セシリィの魂が世界の外に出られずに行き場をなくした時に『手近な生き物』の中に入ったと言ったが、そもそも手近とはどこであろうか。
物理的距離で言えば、召喚の魔法を行使したのがクィントゥス侯爵家の地下室だから、その近辺という意味になる。しかしあの街でトリコの同種を見たことはない。
そうではなく、手近というのが世界の境界に対してだとしたら。
(それってつまり、天上の近く……ってこと?)
この世界の上空には、創世神話では成層圏ではなく神の楽園があると云われている。傲慢な人間たちに愛想を尽かした神々は、地上を捨て天上に昇ったのだ。だから、人同士の争いにも無関心を決め込んでいるのだとか。
つまり導き出される答えとしては。
「トリコ、まさか……本当に天使さまなの?」
問う声が多少なりと震えていたことには目をつぶってほしい。何の因果か異世界に喚ばれて乙女ゲームだ悪役令嬢だと話が進めば、期待せずにいられない単語の幾つかがあるのも仕方のないことではないか。
魔法、神々、聖女、神の子、そして――天使。
天使と言えば完璧な美貌、中性的な肢体、最上の歌声、眩い天輪や光背、そして何より、純白の大翼。
(……これが期待せずにいられようか!)
知らず握りしめていた拳に力がこもる。脳内では、トリコが光り出して魔法少女並みの速さで人型に変形して、白い羽根舞う中「実は……」と語り出す映像が明確に紡ぎ出されていた。勝手身儘と言わば言え。
しかし。
「我々はヒトからの呼称について要求も限定も行わず、ために否定も肯定もしない」
「よし分かったそういうことにしよう。ヲタクの情報補完能力と現実改竄能力の高さなめんな」
景色に変化はなく、車内は変わらず薄暗く、人員は増えず、壊れたロボットの自動再生だけが虚しく響く。勿論、白い羽根などどこにも舞ってはいない。
話が振り出しに戻ったので、小夜は得意の自己完結で処理することにした。
◆
小夜と名乗る不審な女を部屋に送り返したあと、フィオンはやっとかねてから探していた人物を見付けることが出来た。
「フィイア様」
「……様は要らないと、言ってるだろ」
誰の目からも隠れるように気配を消していたフィイアが、億劫そうに振り返る。白髪の混じる赤茶けた髪に、イディオと同じ緑色の瞳。二人の雰囲気も顔の作りもまるで似ていないのに、その瞳に宿る諦念の気配だけはよく似ていた。
相変わらず、フィイアは神の子の兄だというのにまるで神殿に馴染まない。神服を着ず、神殿にも聖拝堂にも足を向けず、ひっそりと誰にも居場所を悟らせない。
いつも、この連続する石門の一つに背を預けて佇んでいる。まるで聖泉に近付こうとするのに、それ以上行けないとでもいうように、真っ暗な森の奥を睨んでいる。
「あなたは、知っていたのですか」
「まぁ、向こうでは監視が仕事だったんでな」
「あの鳥の正体についてです」
「俺が、言われていないことをすると思うか?」
「ですが……あの女がここに来たのは、あなたの仕業なのでしょう?」
イディオと小夜の会話から、大体の事情は呑み込めた。フィイアは神職者ではなく、命令系統も恐らく神殿長直々にしかない。現在は神殿からの間諜として王城にいると聞いているが、カノーンで活動するならば本来の立場でであろう。
しかしフィイアは再び視線を暗い森の中に戻して、これには答えなかった。代わりに、違うことを聞く。
「お前は、三度の戦争を望むか?」
「……生憎、先の戦については記憶になく」
それは、腹立しい質問であった。二十年前の戦争ではフィオンはまだ三歳で、何の記憶もない。自分を胸に抱いて死んでいたという母の面影すら覚えていないのだ。
『奇跡だな。あの高さから落ちて、餓鬼だけでも生きてたなんて』
神職者は奇跡を素通りしないんだよと、自分を拾った養父が一度だけ仏頂面でそう語ったのを、今でも覚えている。フィオンにとっては、記憶などそれくらいだ。
だというのに。
「お前は……ここを出たいか?」
眼前の男は無自覚に人の心を抉ってくる。その眠たげなくせにどこか心配するような眼差しに、短い堪忍袋の緒がぷちんと切れた。
「あなたは、どうやら追い出したいようですね。その質問を私にするだけで、私の立場が悪くなると知っているくせに!」
鳶色の瞳を吊り上げて、足音も高く踵を返す。イディオが何を考えているのか少しでも知ることができればと思ったのに、結局無駄足になった。
外階段の両脇に等間隔に並ぶ灯籠の明かりの中へと、灰色の頭が消えていく。それを少しだけ見送ってから、フィイアはキンと冷えた星空を仰いだ。
「……面倒くさぁ」
派閥や出自を気にする輩に聞かれたら面倒なのは分かるが、ここにそんな者はいないのに。
「お前、意地が悪いぞ」
いや、いた。イスヒスである。フィオンが消えたのとはまた別のところから、のそのそと歩いてくる。どいつもこいつも、人の憩いの時間に遠慮がなくていけない。
「イスヒスがいたからじゃないのか?」
「俺が小姑みたいになってんのはお前の弟のせいだって分かってんだろうな?」
「放っときゃいいのに」
相変わらずの世話焼きだなと、フィイアは呆れる。本人は目端が効くから気にかかるだけだと言うが、そういう輩は文句だけ言って去っていくものだ。
イスヒスは、余計な苦労を背負込みすぎる。こんな性格でなければ、二十年前のあの時も、同僚というだけで助けを求められたりはしなかったのに。
「あの時、あいつはお前を助けてくれと、泣きながら言ったんだ。俺は約束を破ったりはしねぇ」
「……律儀な奴」
面倒臭いと、無意識に出そうになった言葉を言い換える。イスヒスには、そう言える義理はない。
代わりに、居心地悪い話柄から逃れるために、話をフィオンに戻す。
「ここが楽園だったら、俺だって何も言ったりしねぇよ」
「……ここは、地獄か? お前にとって」
「……戦争をしようなんて考える奴のいる所は、どこだって地獄さ」
そう。地獄は、二度で懲り懲りだ。
だから、正義のためなら戦争も正当化するような連中は、全て滅する必要がある。




