何の変哲もないただの鳥
イディオが物語の騎士のように片膝を地についたまま、小夜と腕の中のトリコを見上げていた。
緩く癖のかかった毛先が、丸みの残る白い頬にかかっている。森の中の湖面のような緑眼が真摯なまでに見つめる様は、十四歳という少年らしさが持つ背徳感と相まって危険な魅力的があった。
しかしである。両側の従者四人の目付きが死ぬほど怖かった。兵士やイディオがいなければ、何をしたのかと一斉に詰め寄っていたであろう。
そして肝心の小夜はというと。
(いま、何か起こった……?)
全く事態が呑み込めていなかった。
何故イディオは跪くのか。今、トリコを一体なんと呼んだのか。小夜は失言も奇行もしていないはずなのに、何故事態は明らかに悪化しているのか。
しかしいつまでも固まっているわけにもいかない。小夜は半解凍状態になりながらどうにか口を開いた。
「……あのぅ」
「はい」
「よく分かんないけど、トリコは野鳥じゃないよ?」
「勿論、存じております」
何を? と言いそうになったが、イディオに喋らせるのは何だか怖い。誤解をとくことを優先する。
「いやだから、ただの飼い鳥……ともまたちょっと違うのかな? でも何の変哲もないただの鳥だよ」
ちらりと、両腕に抱いたトリコを見やる。一言で説明するのはなんとも難しいなと、誤魔化し笑いとともにトリコに同意を求めていた。
「ねぇ?」
勿論、ただの場繋ぎに過ぎない。はずであった。
「――我々は」
「……へ?」
オレンジ色の嘴から、そのような言語が出てこなければ。
「ヒトからの呼称について要求も限定も行わず、ために否定も肯定もしない」
「…………」
小夜は考えた。
トリコは喋る。この事実は、それほど目新しいことではないはずである。
以前、その中にいたセシリィや小夜は、魂なのか精神なのかが繋がりを持った相手に限定して、心の声というものを脳内に直接言語化して届けるという方法を用いて会話をしていた。
つまり、セシリィが再びトリコの中に入ったとなれば、この現象に謎はない。
「セシリィ? どうしたの? 無理やり婚約させられるのがそんなに嫌でトリコになって逃げてきたの?」
「我々をその個体名で呼称することもまた否定はしないが、セシリィ・クィントゥスが同時期に存在するこの時間では、その呼称は推奨しない」
「…………」
明らかに喋り方が違うことには目を背けていたかったのだが、そうは問屋が卸さないらしい。気難しい店である。
しかも残念なことに、ここに常識人がいた。
「と、鳥が、しゃべ……ッ?」
兵士の男である。畏まったイディオ以下五名とトリコとを交互に見ながら、目を白黒させている。
小夜は、是非否と答えてほしいと思いながら尋ねた。
「もしかして……聞こえるんですか?」
「え、えっ? だって、他の方々は口を閉じて……ましたよね?」
男の視線が、イスヒスやフィオンの顔を窺う。さもあらん。
小夜は恨みがましい気持ちでトリコを両手で掲げ上げた。
「トリコよ、喋れたのね……。っていうか何その機械みたいな喋り方! そして否定してよ!」
「我々はっ我々についてのっ呼称によってっ変質することはないっ。ゆえに拘泥することにっ意義を見出ださなっい」
がっくがっくと鳩ほどの大きさの体を揺さぶるが、トリコの語調にはまるで変化がなかった。促音にも動じないとは実は人工知能を搭載したトリコの偽物かと思ったが、羽毛の下の触り心地はいつも通りもちもちぷにぷにしている。
「さすが聖泉の乙女様。御使い様と対等にお話ししていらっしゃる」
「……あぁ! まさにきせ」
「あぁっまた!?」
あははーと朗らかに笑うイディオに、小夜は最早何度目ともしれない声を上げた。誓ったはずの冷静さはすっ飛び、なりふり構わず弁明する。
「違う! この子はただのトリコなの! 聖女も大精霊も関係ないの! ね!? トリコも、聖女なんて導いてないよね!? ねッ!?」
「我々は特定のヒトを選ぶことも導くこともしない。だが特異的ヒトを監視することは、我々の求める秩序を維持する上での必要行為の一つである。ゆえに我々は小夜を選ぶとも言える」
「はぁぁぁんっ!?」
信じがたい返答に、小夜は奇声とともに魂まで抜ける心地であった。よもやこんな所でトリコに裏切られようとは。
墓穴を掘ったのか土壺に嵌まったのか。
ともかく。
「わ、私は、今、奇跡をこの目に……!」
「まさにその通りだよ。君は時代の証言者だ」
「あぁ、ありがとうございます! あっ、今すぐ全兵こちらに連れて参りますので……!」
「うん。よろしくー」
打ち震える兵士と焚き付けるイディオ見て、小夜は思った。
ここにいてはならない、と。
「……帰ります」
三十六計逃げるにしかず。昔の人は良いことを言った。
◆
ルキアノスたちは、馬を潰す勢いでアミナの町に戻った。
カノーンの町では、ディドーミ大神殿の敷いた法術のせいで空間移動の魔法が使えないためだ。行きは王都から宮廷魔法士の力を借りてアミナまで来たが、帰りをどうするかは未定であった。
だが、使える男が現れた。
「俺が頼れる大親友で良かっただろう!」
床に這いつくばりながらも呵々大笑するクレオンには目もくれず、ルキアノスはエヴィエニスの執務室を目指した。通常は補佐を一人か二人はつけて行う空間移動をほぼクレオン一人に押し付けた結果、ルキアノスの負担は最小限に抑えられていた。
「兄上! 聞いたか!?」
「知るか!」
ドアを開けての第一声に、間髪を容れず返答があった。明らかに苛々している。確かに、主語のない質問は良くなかった。
しかしそんなことに配慮する余裕は、今のルキアノスにはなかった。
「オレの小夜が奪われた! 神殿の仕業だ!」
「余計に知るか!」
この世で最も重大な用件を伝えたのに、更なる苛立ちで怒鳴り返された。
エヴィエニスが不在の父王の代理として公務に当たっていることは知っている。そのために自らファニのためだけに動くことが出来ず、苛立ちが募っていることも。王弟イリニスティスを支持する派閥が次々と反国王派として神殿に助力を表明し、信仰と血統を蔑ろにする現国王への退位を要求していることも。
だが今は、小夜なのだ。
「神殿に本物の聖女が現れたとほざいたんだ! オレの、オレの小夜なのに!」
バンッと使い込まれた執務机を両手で叩く。うず高く積まれた書類が跳ね、未開封の羊皮紙がころころと転がっていく。ギロッと睨まれた。
「俺のファニが帰ってきてないのに、そんな女になど構っていられるか! 用がそれだけならとっとと戻ってファニを連れ戻してこい!」
「それだけとは何だ! たとえ兄上でも――」
「一旦黙れ、この所有欲丸出し兄弟が!」
ざっぱーん! と適度な水が両者の頭上にぶっかかった。滴る水は、見事に二人の周囲の書類を避けている。
「おぉー、久しぶりに見た。今日も芸術技だねぇ」
「侍女たちの仕事を増やしては可哀想だからな」
仕事の手を止めて拍手を送るレヴァンに、水の魔法で物理的に乳兄弟たちの頭を冷やしにかかった張本人が肩を竦めて応じる。
そこに、やっと追いついた二人が合流した。
「床を拭くのも侍女の仕事ではないのですか?」
同じく息を切らしたフィオナが、呆れたように男たちの惨状を眺めている。その後ろで扉を閉めたシェーファは、慣れない運動でぐったりしている。
「……お戻りでしたか」
言葉とは裏腹に、その声はもう戻ってこないと思っていたと言っていた。
フィオナとシェーファの同行を決めたのはルキアノスだが、旧ヒュベル王国領に近付くにつれ、かすかな不安はあった。二人が故郷を前にして、ただの書面での契約を守るのかどうか、と。
アンドレウ男爵夫人となった姉クラーラのためといえ、王家が彼女に手を出すことは実質不可能である。彼女の幸福が約束されているのなら、二人はそのまま故郷に帰っても不思議はない。
しかし、二人はついてきてくれた。
「……仕えると、姉に誓いました。主人についてくるのは当然のことです」
「焼き立てのシュトルーデルも、食していませんので」
ぶすりと、フィオナが答える。シェーファもまた、珍しく不愉快さを隠さずに続けた。それがどうもシェーファらしくなくて、ルキアノスは餌付けの効果の恐ろしさに笑ってしまった。
「全く、オレの小夜は人を動かすのが上手い」
濡れた髪を掻き上げ、暖炉の火の前に移動する。その頃には、エヴィエニスもまた落ち着きを取り戻していた。手近な布で髪を拭き、黙然と書類の続きに取りかかる。
「それはそうと、小夜嬢って本物の聖泉の乙女だったの?」
エヴィエニスが使った布をルキアノスに渡しながら、レヴァンが呟く。
「神殿はそれを理由に小夜を捕まえたらしいな」
「あんな女が聖女なわけないだろう」
「なんだとっ」
吐き捨てるエフティーアに食って掛かるルキアノスだが、レヴァンは気にせず考えを纏める。
「でも、本物っていうのが意味深だよねぇ」
「ファニが偽物だとでも言うのか」
「それを僕が知るはずないでしょ? 大体、偽物だったら神殿はどうするんだろうね?」
エヴィエニスのいちゃもんを、レヴァンが面倒臭そうにいなす。
「だからっ、俺のファニが偽物なわけ……!」
それを懲りずに訂正しようとして、エヴィエニスは止まった。不自然な間に、全員の視線が集まる。
「兄上?」
ファニ欠乏症を拗らせてついに禁断症状でも発症したかと、ルキアノスが机の前に戻る。
その目の前で、エヴィエニスがガバッと立ち上がった。
「エフ、神殿に使いを出せ!」
「御意に。今度はなんと?」
エフティーアが、諦念混じりの返事を返す。だがエヴィエニスの瞳には、奇妙な確信が灯っていた。
「今度こそ、ファニを返してもらうぞ」