何をか言わんや
聖泉エレスフィに行かなければならない。
その言葉が意味するものは何だろうと考える間に、イディオの物憂げな表情はカードの裏表をひっくり返すように切り替わっていた。
「ねぇ、小夜」
「んバ!」
突然良い声で名前を呼ばれ、そろそろ免疫がついてきたと思っていた小夜はつい奇声を上げていた。
「なな、なんですかいきなりっ」
心拍数が跳ね上がった胸を押さえて、声の主を見る。何故か満足そうな笑みで、ちょいちょいと手招きされた。逆らいがたい力でイディオの前に膝をつく。
何故正座なのかは自分でも謎だなと思っていると、存外冷たい指先が小夜の頬に触れた。
「ッ」
「ここから出たい?」
「……。そりゃあ、もちろん」
声と指先から色気がだだ漏れしていると思いながら、小夜は気を引き締めた。
突然の話題転換に一体どんな心変わりがあるのか。というか九割九分の確率で罠のような気がするのだが、この声で言われるとこの先にトラバサミがあろうとも進んでしまうのが小夜である。
「方法が一つあるよ。そしてそれは、今回の問題を解決するもっとも安全な方法でもある」
「……。是非」
美声効果だけでなくその文言の誘惑に勝てず、小夜は警戒心を強めてそう言った。ここで屈しては最早犯罪である。主に小夜が。
果たして、完璧な声は宣った。
「それは、君が聖泉の乙女になることだ」
「……。またそれ?」
警戒と期待が半々だった小夜は、がっくしと肩を落とした。それで一体何が解決できるのか、さっぱり分からない。
イディオが意外そうに目を瞬いた。
「あれ? こうすれば落ちるって聞いたのに」
「ぅぐ!」
ルキアノスにおいて前科のある小夜は、呆気なく言葉に詰まった。もっと現実的な提案であれば危なかったとは、口にはしない。
「嬉しくないの?」
「どこに喜ぶ要素があったと?」
つい敬語になっていた口調も戻る。そのお声で無駄に期待させるのはやめて頂きたい。
何より、この話には根本的な問題がある。
「大体、そもそも論で私は聖女じゃないので。というよりも、いい加減その設定を止めてほしいくらいなんだけど」
「でも君が聖女だと認めれば、君には自由が与えられるし、ファニは城に戻れる」
「……んん?」
唐突に出てきたファニの名前に、小夜の理解は一拍遅れた。
(何でファニ? ファニが戻れる条件なんてあったっけ?)
神殿は聖泉の乙女が欲しくてファニをさらったはずである。これは拘束中の国王がどんな要求を呑もうとも、エヴィエニスのもとに戻るという結果だけには繋がらない。
と考えて、いや待てよ、と思考を巻き戻す。
(私が聖女になったら、ファニは……何になるんだ?)
本物の、と何度も枕詞をつけたイディオの意図がしつこく小夜の思考を邪魔する。
もしファニが偽物だとされたら、神殿が彼女を求める理由はなくなるのではないか。断定ができない段階であれば手放さないだろうが、本物がいるとなればその決断を後押しするに十分値する。
「成る程、私が代わりに残るってことね?」
「そうそう」
イディオが嬉しそうに相槌を打つ。
確かに、それならファニは解放される。最後まで神殿を騙しきれるなら、巧い手と言えなくもない。
だが、それ以前の問題として。
「え、じゃあ『ここ』って神殿じゃなくてこの部屋のこと? もしかして私って監禁されてる?」
まさかの現状に、小夜は単純に驚いた。はっきり言って、自分に監禁される価値があるという発想がなかったのだ。
そしてこの驚きは、室内の半分に伝播した。
「すごい。道理で全然緊張感がないと思った」
「自覚がなかったのか……」
イディオについで、イスヒスまでが感想を漏らす。ちらりと見れば、他の三人も似たり寄ったりな顔をしていた。
居たたまれないとはこのことである。
「面目ない……」
ヒロインどころか、主役にもなりきりない二十八歳であった。
少し散歩をしよう、とイディオに言われ、小夜は久しぶりに馬車に乗り込んだ。
(昨日も今日も部屋から出てるし、これで監禁っていってもねぇ)
長居は勿論したくないが、不自由や辛さははっきり言ってない。フィイアにルキアノスたちの無事を直接聞けたことも、無闇な焦燥感を薄めていた。
近々の問題は、小夜は聖泉の乙女になれるのか、である。
(でも、聖女として信じてもらうって、何をしたらいいんだろ?)
ファニでさえ、その真偽を疑う声は常にある。あの神秘的な瞳の少女で駄目だというのなら、小夜など何をか言わんやである。
(大体、こんな所でそんな詐欺を働いたら……死ぬんじゃね?)
この世界にも禁固刑はあるであろうが、信仰に対しての偽りが軽い罰で済むとは思えない。真っ先に想起したのは魔女裁判と火炙りである。
(やばい。やっぱり上手い話には乗ってはならん……)
ファニのためにも出来る限り協力したいが、さすがに恐怖が勝つ。どうしたものかと唸っている間に、馬車は目的地に到着していた。
「わぁ……」
イスヒスに手を取られて馬車を降りた小夜の目がまず捉えたのは、古めかしい石造りの建物群であった。
芝生と砂地の広場を中心に、三階建ての低い屋根が並ぶ棟や、倉庫、厩舎などがまとまった区画、城砦のような館らしきものもある。上部にステンドグラスが見えるのは、聖拝堂であろうか。
どれも大小様々な灰色や茶色の石が不規則に積み上げられた壁は見るからに堅固で、煤けた煙突や風雨に晒された傷の多い木戸などが、その歳月をよく表している。
「ここは……?」
「練武場だよ。元々この辺はカノーンの領主の所有なんだけど、今は集まってきた兵士たちも訓練してるんだ」
「はぁー。成る程」
カノーンはディドーミ大神殿を中心に広がっている印象であったが、あの白黒の木組みの家並みを離れて高台を少し行くと、貴族の多い区画になるらしい。領主の館の背後には、王都で見たような様式の建物が並んでいる。
(兵が集まってるって言ってたのが、ここなのかな)
国王に不満を持ち、神殿に賛同する貴族が兵を引き連れて集まっている、その拠点がこちらということらしい。屋根が連なっている一画では、剣や槍などを持った人たちが出入りしているのが見える。兵舎か何かであろか。
「イディオ様。あちらにいる中佐官に話を通してきました」
「うん。じゃあ、そこにしよう」
先に降りていたフィオンが、戻ってくるなりそう告げた。何かあるのかと、意気揚々と進むイディオについていって、すぐに後悔した。
(なんかいる……!)
停車位置からは生け垣で隠れて見えなかったが、広場の向こうでは冬だというのに汗を流して訓練に励む一群があった。
皆それぞれに木剣や刃のない棒などの武器と盾を持ち、数人単位で組んで打ち合っているように見える。防具は革や鉄など様々で、格好も揃いの軍服などでないせいか、どこか傭兵のような雰囲気がある。
その中でも、監督している数人のうちの一人がイディオに気付くと、きびきびとした動作で駆け寄った。
四十歳半ばの男性である。眉間の皺と太い眉が、いかにも怖そうな上官という印象がある。皮鎧や鎖帷子はなく、綿で膨れた暖かそうな服を着ている。いわゆる鎧下というものだろうか。
「お待ちしておりました。本日は我々義勇軍に激励のお言葉を頂けるとか」
そうなの? と出かかった言葉を寸前で飲み込む。この状況で親しそうな発言は危険である。
が、そんな牽制は手遅れであった。
「うん。今日は本物の聖泉の乙女が君たちを見てみたいって」
「言ってない!?」
思わず反論していた。盛大に墓穴を掘ったと気付いたのは、全員の視線が突き刺さった後である。
(しまったぁ! ここは黙って逃げるところだった!)
実際には、背後にイスヒスが立ち続けているので不可能なのだが、気分としては是非雲隠れしたかった。
いつものように顔を覆ってしゃがもうとした小夜は、視界に白い裾が映って動きを止めた。
(こ、このドレス!)
着用三日目ともなって抵抗感がすっかりなくなっていたが、そういえばこの白いドレスは、ファニのために用意された一着を拝借したものであった。浸水した自分の服はどうにか乾いていたが、人目を考慮して止めておいたのが仇となった。
そして小夜はついに気付いた。
「まさか……!」
服も聖女発言も言葉遣いも、出会ってから今までの全ての言動がこのためにイディオに仕組まれていたのではと。
ルキアノスのことを教えたのも、その他の情報も、ただの親切心ではなく小夜にある程度の理解を持たせて、ここに不安も不自然もなく連れてくるための布石だったのでは。
今までで一番蒼白になって、小夜は永遠の十四歳を見た。
「えへっ」
とてつもなく可愛らしい笑みと声で、そう言われた。
後の祭りとはこのことであった。




