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体のいい厄介払い

 和やかだったはずの空気が、一瞬で凍り付いた。

 冗談の続きとして笑い飛ばすか、聞き流すか。小夜はどちらかが良かったのだが、真っ直ぐに見つめてくる緑眼は珍しく真摯に見えた。


「……あの喀血も、そのせい?」


「子供の頃にエレスフィで溺れたことがあってね。それ以来」


「命の水で治るんじゃないの?」


「あれは聖泉にぼくの血を混ぜてるものだから、ぼく以外の人間にしか効かないよ」


「あ、それで……」


 確かに、自分の血を自分に還元するだけでは、特段変化は起きないのも道理ではある。だが小夜が気にしたのは、血を混ぜる、という発言の方であった。


(それで、イスヒスさんあんなに怒ったのか)


 イディオの足の怪我を治すという提案に乗ろうとした小夜に、イスヒスは突然激昂した。その身を削って他者を助けるというのであれば、確かに無闇に行うべきことではない。神の子に治癒を願う者たちが午前中だけで締め切られてしまうのも、そういった理由があってのことかもしれない。


「でも、だったら余計に水差しは割らない方がいいんじゃないの?」


 そしてもう一つ、イディオが憎々しげに叩き割った水差しについても、一つ謎が解けた。割っても割っても毎日律儀に用意される水。全てはイディオの命を繋いでいたのだ。

 それを割るなど、余程の理由があるのだろうかと思ったのだが。


「あれはただの腹いせだから」


「そうなのか!?」


 何でもない顔でそう言ったイディオに悲しい声を上げたのは、最早無論というかイスヒスであった。愕然と口を開けている。憐れを催すとはこのことである。

 それをふふんと眺めて、更にイディオは止めを刺しにきた。


「イスヒスを追っ払うにはあれが一番手っ取り早いからね」


「何だとぉっ?」


 イスヒスが素っ頓狂な声を上げる。案の定というか、水汲みはイスヒスの仕事であったらしい。


(泣き出さないかな、あの人)


 余計なお世話ながら少々心配になった。

 だがそれよりも、不可解な点がある。


「そういえば、イスヒスさんは結界の中に入れるの?」


 結界内に入れるのは王族だけだと聞いていた。イディオが入れたのは神の子だからいいとしても、イスヒスは一体何者なのであろうか。


「聖泉に入れるのは祖王と乙女の末裔だけだけどね」


「……ん?」


「イスヒスには、ぼくの血で作った法具を持たせてるから」


「法具?」


 一瞬気になる単語が通りすぎたような気もしたが、続く初耳の単語の方が口をついていた。


「知らない? 神識典ヴィヴロスの文言が彫られた、魔法と同類の力を発揮する道具のことだよ」


「あぁ……」


 神識典と言われ、小夜の脳裏を装丁も見事な分厚い洋書が通り過ぎた。二度とお目にかかりたくはない。

 しかしそんなことよりも、被害者Aの方が深刻であった。


「もしかして……そのためだけに俺にあんな物を!?」

 

 イスヒスが、本来の仕事も立場も一瞬忘れて訴える。

 逃走癖のあるイディオを連れ戻すための唯一の信任かと思っていたら、ただの消極的雑務かつ体のいい厄介払いであったとなれば、イスヒスでなくとも嘆きたくはなるであろう。

 しかしイディオは、チッチッと舌を鳴らして人差し指を横に振った。


「思い出してほしいんだけどさぁ。あれを渡したの、ぼくじゃなくて兄じゃなかった?」


「ん? あぁ、そう言えばそう、だったか……?」


 笑顔で諭すイディオに、イスヒスが記憶を探るように首を傾げる。どうやら事実らしいが、弟の脱走に革手錠を提案する兄の目的が子守りでないとは誰も断言していない。


(色々うやむやにされてるよ、イスヒスさん……)


「別に、嫌なら返してくれていいよ?」


「…………!」


 明らかに答えを分かった上でのイディオの申し出に、イスヒスが目を見開いて眉を吊り上げた。元々の三白眼が更に怖さを増したが、予想された怒号は飛び出してはこなかった。ぐっと何かを飲み込むように、形相を元に戻す。


「……返しません」


「良い声」


 本当は、すごい顔、と思ったのだが、決死の覚悟のような声調トーンで答えたイスヒスに、小夜は反射的に感嘆していた。無言で控えるフィオンたちからの視線が少々ちくちくしたが構わない。

 それらを眺めながら、イディオが呆れたような溜息をついた。


「ちぇ。折角の好機だったのに」


「イスヒスさんは、く……心配性なんだね」


 どうやら半ば本気であったらしい。つい苦労性と言いそうになったが、どうにか無難な言葉に置き換える。しかしイディオは、先程までのにやつきを消して詰まらなそうに否定した。


「兄に影響されてるだけだよ」


「えっと、フィイア先生?」


「兄は、今のぼくの状況が全部自分のせいだと思い込んでるんだ。神殿に拾われたのも、神の子と呼ばれるのも、ぼくが……最後の一人になったことも」


 忌々しいとでも言うような膿んだ声が一転、どこか後悔を滲ませて言葉を結ぶ。

 そして、


「でも、本当に犠牲になってるのは兄の方なんだ」


 続く声は、ともすれば呼気に紛れるほどにかすかであった。

 怒りや悲しみや悔いがないまぜになって、小夜には酷く自分を責めているようにすら見えた。


「イディオ……」


「だから……」


 だから、と。イディオは思い詰めるようにこう言った。


「ぼくは、エレスフィに行かなくちゃいけないんだ」




       ◆




 目を覚ますと、薄汚れた天井が見えた。木目の中の節が三つ集まって、自分を睨んでいる。


「目が覚めましたか」


(……違う)


 横から響いた声に、ルキアノスは真っ先に落胆した。それから、ぼうっとする頭をゆっくりと鮮明にしていく。

 全身の痛みを認識するよりも先に、意識を失う前のことを思い出す。小夜を聖泉の結界内に逃がしたこと、その後で覆面の男に気絶させられたこと。倒れた後、フィオナに呼びかけられたような記憶もかすかにある。

 今分からないことは、二つ。


「シェーファは……死んだか?」


「勝手に殺さないでください」


 目の前で倒れたはずの男の声が、反対側から上がる。見れば木戸を開けて入ってくる陰気な姿が見えた。いつもの白髪を栗色に染めている分、印象が薄まって更に影が薄い。相変わらずの猫背だが、歩き方に異変はなさそうである。


(やはり、あの覆面もフィイア先生の可能性が高そうだな)


 アミナ――カノーンの一つ前の町――で襲われた時にも、隠れている間に魔法の気配を探ることで襲撃者を特定していた。負傷していたためフィオナに任せたかったが、ルキアノスにある程度の怪我を負わせたところで不自然に引いたことから、顔見知りの可能性があったからである。

 果たして、タ・エーティカ専学校で魔法の実技を担当する臨時教諭のファイアと、気配が似ていることが分かった。それに、彼がイデオフィーアという裏の顔で宮廷魔法士として国王の密命を受けていることはほぼ確定事項だ。

 隙のある隠れ方で襲撃を誘ってみたが、結局襲われることはなかった。神殿側にも王子を殺すほどの理由や利益はないと思うが、動きを封じるために拉致監禁くらいはしても不思議ではない。

 つまりフィイアは誰かしらの命令を受けているが単独行動で、しかも表面上以外の目的があるという仮説が立てられる。


(の、くせに襲ってきやがって……目的はなんだ?)


 カノーンですら、何も得ることなく撤退したはずだ。

 状況的変化といえば、たった一つ。


「……小夜は」


 いやが上にも速まる鼓動を聞きながら、問う。

 第一声が小夜でなかったことが最早答えとも言えたが、聞かずにおれるはずもない。

 果たして、フィオナはゆっくりと首を横に振った。


「見付けられませんでした。私たちは、結界の中には入れませんし」


 それは承知の上だ。そして小夜も泉に行き当たれば、姿が視認できる距離くらいまでは戻ってくるのではと思っていた。それがないとなると、不測の事態が起きた可能性が高くなる。


「風は」


「それが……どうも、ディドーミ大神殿に向かったように……」


「……まさか」


 優秀な風舞師アイセでもあるフィオナなら、見知った人間の気配を追うことはさして難しくない。聖泉という複雑な場所でも、ある程度の距離までは把握できるはずだ。

 そしてその答えは、考えうる中で最悪と言えた。


「まずいな。あいつは、自分から危険に首を突っ込むほど無謀ではない。……面倒事を引き寄せはするが」


 それが神殿に行ったとなると、さらわれたと見るしかない。


(小夜を召喚した何者かによって?)


 その可能性は高い。だが確かめる術はない。


(殺されるはずは、ない)


 小夜は神殿から警戒されてはいるが、手中に納めたとなれば無闇に殺したりはしないはずだ。少なくとも、連中が最も気にすることを確認するまでは。

 だが、だからといって冷静でいられるわけがない。


「……行くぞ」


「っ、いけません」


 ぎしぎしと痛む体を無理やり起こす。が、フィオナにすぐに寝台に押し戻された。


「丸一日寝てたんですよ? 前回の負傷の疲労も回復しきっていないくせに」


 服を見る限り派手な出血はないようだが、体が受けた損耗自体はそれなりに残っていた。外傷はフィオナたちが治してくれたといっても、基礎的な体力や疲労はどうにもならない。


「早くしないと……俺の小夜が……!」


「青筋立てて何を言ってるんですか。今ちゃんと」


「面白い情報を仕入れてきたぞ!」


 ばぁん! と木戸が開いた。シェーファが珍しく顔をしかめた視線の先に、よく陽に焼けた顔に白い歯をにっかと輝かせた男が立っていた。

 ルキアノスは目を背けた。


「……なんだ、あいつ」


「気絶ついでにこの大親友を忘れたのか? 大丈夫だ! すぐに俺が治してやるからな!」


「俺に声のでかい大親友などいない」


「勿論だ! でかいのは声ではなく心だからな!」


 がははっと、どんなに辛辣に言っても自称大親友はまるでめげる様子がなかった。相変わらず、クレオン・クィントゥスは無駄に前向きである。

 見かねたフィオナが、手がかかるとでも言いたげに話を元に戻した。


「カノーンに拠点を作ったからと、到着したら合流する話になっていたでしょう」


「…………」


 別に忘れていたわけではない。ただ小夜が現れたから、クレオンのもとに行きたくなかっただけである。

 だが機微を解することとは無縁の男は、何も気にせず本題に入った。


「神殿に本物の聖女が現れたらしいぞ。やはり黒髪黒目の美人だそうだ」


「…………なん、だと?」


 その言葉に、ルキアノスはすぐには反応できなかった。最悪の更に上をいく事態に、血の気が引く。

 黒髪も黒目も、見かけないわけではない。だが両方が揃った者となると、また数が減る。何より、フィイアの襲撃後に起こった、唯一の状況的変化がある。


(まさか、小夜を奪うことが目的だったのか!?)


 その瞬間、怒りが痛みも疲労も全てを吹き飛ばした。


「今すぐ行くぞ!」


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