依怙贔屓くらいする
ハッ、ハッ、ハッ……!
自分の荒い息遣いが聴こえる。否、もしかしたら一緒に逃げた一族の誰かのだったかもしれないが、記憶が曖昧で判然としなかった。
ただ、浅く荒い息を吐いて、死に物狂いで走っている。
気付いたときには、もう一人だった。泉を見付けた時には、頭から突っ込んでいた。恐怖と疲労で、喉がカラカラに乾いていた。
死にたくない。死にたくない。死にたくない。
そればかりを考えた。それしか考えられなかった。
それだというのに。
『最後に言い残すことは?』
その声を最後に、意識は途絶えた。母なるオン・トレンの万年雪のように冷たい水の中に落ちて、身体中から血と命が零れ出る感覚さえも徐々に薄れていく。
そして二度と目覚めない、はずだった。
《まだ、生きたいか》
男とも女ともつかないその声を聞くまでは。
《面倒な来客じゃ。生くるか、死ぬるか。疾く決めよ》
どうにも力の抜けた声だと思った。こんなにも痛くて苦しくて悲しいのに、尋ねる声はあまりに能天気で、どこか好奇ささえある。
(……うるさい)
答える気力など、さして残っていなかった。
ただ、腹が立った。
突然自分勝手な理由で自分達の土地を荒らし、奪い、殺していった連中に。必死で逃げてきた先で勝手に引導を渡してきた男に。他人の不幸を邪魔にしながら面白がるこの声にも。
だから、答えも勝手に出ていた。
(手前らが死ぬまで、おれは死なん……!)
《よくぞ言うた。では、生きよ。その代わり――》
無責任な声が、高笑いとともに尾を引いて消えていく。
そして次に目を開ければ、見たくもない顔と目が合った。
「まさか生き延びるとはな。神やら精霊やらは気儘でならん」
軟弱そうな金の髪に、北の海とはまるで違う碧眼。理解した瞬間、体を跳ね起こしていた。男の腰に佩いた剣を奪って殺す。
だがそれは出来なかった。刹那の遅れで、地面に捩じ伏せられた。
「少しは元気になったな」
「殺してやる」
「それはもう聞いた」
男が、少しも力を緩めずに言う。
「だからその前に、二人で復讐をしよう。我らが怨敵、ヒュベル王国に」
つまらない、実につまらない戯言であった。
◇
最近夢見が悪い気がする、と小夜は思った。
内容は目を開けると同時に消えていくのに、爽やかでないことだけは確信がある。
だが今回ばかりは、朝陽に関係なく記憶が吹っ飛んだ。
「静かに」
「!」
寝台のすぐ傍らに、男が立っていた。まだ陽が部屋に差し込む前である。顔は陰になってよく見えない。だがその声で、小夜はすぐに分かった。
「……フィイア先生?」
どうしたことであろうか。ここにいるということは、部屋の外に待機している護衛は許可したということなのだろうか。
少女漫画であれば夜這いを疑う場面であったが、感じる気怠げな雰囲気からそれはないなと小夜は思った。
「イディオの言葉は聞くな」
「……はぁ」
素敵なお声ではある。だが、寝起きでその類の発言はやめて頂きたいと、小夜は切実に思った。
(人はねぇ、太陽光浴びないと体も頭も動かないんですよぉ)
目をしぱしぱと瞬きながら、上半身を起こす。だがその時にはすでにフィイアは背を向けていた。慌てて声を掛ける。
「あ、あのっ」
「しぃー」
「ぐぅ!」
瞬殺された。唇に当てた人差し指もさることながら、そのすぼめた唇から漏れる声の色気にやられていた。
静かにと言われた忠告のことは頭に残っていたので、拳を握り締めて悶える。お陰で、折角起動し始めた脳は明らかに余計なことに使われていた。
「この姿でもそうなるのか……?」
「んハッ」
怪訝な声に、はっと正気に戻る。と同時に、聞きたかった質問も舞い戻った。声を抑えて尋ねる。
「あの! ルキアノス様はご無事ですか!?」
「……平気だ」
短い沈黙を挟み、端的な答えが返る。途端、安堵とともに次々と聞きたいことが湧いて出た。
「本当ですか!? あの、シェーファさんや、フィオナさんも怪我をしたんじゃ……」
「平気だ」
「じゃあ、あの私を……!」
「……面倒くさぁ」
帰してください、と言おうとした言葉はけれど、ぼそりと呟かれたその一言に吹き飛んだ。
(その台詞……!)
乙女ゲームの中でも、イデオフィーアの口癖として書かれてあった。何より、小夜は本物を一度ならず聞いたことがある。声は違うが、抑揚や雰囲気は全く同質に思える。
「あのあのっ、フィイア先生って、あのイデオフィーアなんですか?」
気付けば、そう聞いていた。そしてすぐに自分を罵った。
(違った! 煩悩が先走って……!)
最も知りたいことではあったが、今聞くべきは絶対にそれではない。そんなことよりも、もっと大事なことは山とある。何故ファニをさらったのかとか、誰の命令かとか、ファニをエヴィエニスの元に返すことは出来ないか、等々。
「いや、あの! えっと、ファニを……」
狼狽する小夜を、フィイアはどこか真意を探るように注視していた。この女はどこまで知っているのか、何を知って、何を知らないのかを見極めようとするように。
果たして、フィイアは一瞬だけ歪めた瞳をすぐに逸らして、言った。
「あれは……俺だけではない」
その表情がまるで縋るようだと思った刹那、瞬きとともにフィイアの姿が掻き消える。まるで、得意の光の魔法で神出鬼没を可能とする、あの宮廷魔法士のように。
「……はいぃ?」
起き抜けの小夜が間の抜けた声を上げるのも、無理からぬことであった。
昼食を食べ終えた頃、次の来客は現れた。イディオである。
「体調は大丈夫なの?」
小夜は慌てて駆け寄った。昨日の喀血の印象が強すぎて、数日は病床に臥すだろうと思っていたのだ。
しかし両脇を見ればイスヒスとフィオン、双子の従者たちもいる。彼らが主の行動を許したということは、深刻ではなかったということなのだろうが。
「気管支が弱いみたいでね。喀血は癖みたいなものなんだ」
心配する小夜に、イディオはあっけらかんと答える。啖に血が混じる程度ならそれでもいいが、あの量はさすがに命の危険があるのではないかと思ったが、顔色などは昨日と変わりないようにも思える。
それに、椅子を勧める前に勝手に座る仕草もきびきびとしたものだったので、小夜は多少安堵しながら苦笑した。
「逃げ出すのも?」
「皆、心配しすぎなんだ」
困った癖が幾つもあるようだと指摘すれば、当の本人は肩を竦めておどけてみせた。それまで険しい顔をしていたイスヒスが、頭が痛そうに眉間に皺を寄せる。
小夜はささやかな同情とともに護衛たちの気持ちを代弁した。
「そりゃ、目を離すたびに泉に飛び込まれちゃね」
「誤解があるようだから言うけど、あれは水を飲もうと思っただけなんだよ」
「どういう飲み方よ」
小夜が見付けた姿は、どう見ても水面を思い詰めた表情で見つめていたところであった。しかも聖泉の水際では最も高い位置からである。あの場所からだけは、どう工夫しても喉の渇きは癒されまい。
「平気だよ。本当に大精霊の奇跡を賜っているのなら、溺死はしないらしいから」
「そうなの?」
意外な事実である。だが確かに、寵愛する者が溺れようとしていたら、精霊でなくとも助けようとはするであろう。
納得だと思ったのに、イディオは「さぁ?」と首を傾げた。
「でも、聖泉の乙女は実は水遊師だったから助かっただけという見解もあるんだ」
それは、魔法とは似て非なる存在だからこその奇跡と言えた。
四技師は四元素に属する精霊の恩寵を賜ることで不思議の業を成すという。火踊師なら火傷を負わない、水遊師であれば水難事故では死なないなどという噂もあるのだとか。
この時代だから厳密な統計はとりようがないであろうから、真偽のほどは不明らしいが。小夜は自分の世界では中々体感できない神や奇跡などの超自然的妙について、純粋にわくわくしていた。
「へぇ。面白いねぇ」
「信じてくれた?」
「うん。神様とか精霊とかも、存在するならそりゃ依怙贔屓くらいするよね」
「そうそう。迷惑な話だよね。そのせいで、ぼくもあの水を一日でも飲まないと死んじゃうんだから」
「…………。へ?」
その突然の告白に、談笑をしていたつもりであった小夜は堪らず言葉を失った。




