二つになったらもっと凄い
「そもそも」
と、イディオが再びふんぞり返って言った。
「自分が神や精霊に愛され救われた尊い存在だと本気で思ってるとしたら、おめでたいとしか言いようがないね」
その挑発的な言葉に、ファニがカチンと目を吊り上げる。どうやら、奇跡のための席は奪い合いらしい。
そしてこの一言に、沈んでいたファニの勢いも盛り返した。
「何度も言うけれど、私は自分から聖女を名乗ったことなど一度もないわ」
そう、ファニは聖泉の乙女になりたかったわけではない。ただ、追われて逃げ道がなくなったから飛び込んだに過ぎない。誰もが同様に助かるのか、それこそ奇跡の結果なのかは不明だが、ファニとイディオではそもそも姿勢が違うのだ。
(……あれ? でも聖女を憎んでいるなら、イディオも神の子になりたかったわけじゃないのかな?)
しかしその疑問は、会話が進む中で置き去られる。
「でも、ちやほやされて浮かれてるんじゃない? 王女だった頃のように」
「違うわ!」
ファニが烈火のごとく否定した。
王女だった頃――それはつまり、ファニの本当の素性を知っているということを意味する。謀反人ハルパロスの娘カティアとして、処刑のために国王になる前のテレイオスに追い詰められたことを。
だが。
「なんで知ってるの?」
ファニが自分から身分を打ち明けることはまずない。この事実を知っているのは王族とクィントゥス侯爵家、他には侯爵邸での晩餐に乱入してきた監視者くらいのはずである。
しかし疑問が勝手に口から出てくる小夜に、イディオは意味深な流し目を寄越しただけで、明確な返答はしなかった。
「ぼくは何でも知ってるよ。――君が積極的に否定していないこともね」
「それは……」
イディオの追及に、ファニが顔を歪める。
その理由ならば、小夜にも少しだけなら推測できた。もし聖泉の乙女ではないとファニ自身が否定したら、では一体何者なのかと誰もが騒ぐであろう。素性調査はますます過熱し、ファニが謀反人の娘と知られれば、その処遇を求める声にも繋がりかねない。
その時にファニに残るものは、恐らく何もない。
何より謀反人の娘という肩書で、エヴィエニスの傍にいられるはずもない。
口籠ったファニに気をよくしたように、イディオが顎を上げる。
「エレスフィから現れた以外何もしてないんだからさ。いい加減、自分がただ偶然命が助かっただけの凡人だと認めたら?」
それは、他者を蹴落とすための言葉であった。邪魔なものを排除するための、悪意だけの言葉。
けれど小夜は、感情よりもその言い方が引っかかった。
「偶然? やっぱり、必ず助かるわけじゃないんだ?」
王都のエステス宮殿にある王室聖拝堂の中には、聖泉エレスフィの水がある。それが井戸のような形か水盤なのかは分からないが、人ひとりが飛び込めるほどには大きく、深さがあるはずだ。けれどそこからこの最北の源泉まで、地下で水脈が繋がっているというのは、あまりに非現実的にすぎる。
それでもそこに飛び込んだファニは、遠く離れた聖泉に現れた。それが必ず発生する魔法的現象なのかそうでないのかは、奇跡を証明する一助になるような気がしたのだ。
そして、聖泉の水をもちいてどんな病も治すという神の子なら、その謎も知っているのではと思ったのだが。
「…………」
緑眼を覗き込んだ小夜に、イディオは小さく瞠目した。けれど答える前に瞳を逸らされてしまった。
その沈黙を埋めるように、ファニがぼそりと呟く。
「王家が、私に何もさせなかっただけよ」
「ふーん。なら何かしてくれるの?」
いじけたような声に、イディオが面白がるような声で返す。これに、ファニは昏い表情のままこう言った。
「……証明するわ。聖泉に入って、私が本物だと」
「こらこらっ」
不穏な話し運びに、小夜は思わず口を挟んでいた。
聖泉に入ることがどんな証明に繋がるかは知らないが、それをファニが行うのは小夜には随分危険な行為に思えた。王室聖拝堂の聖泉に入ったことで、場所も、時間さえも超えてしまったファニが、再び聖泉に入ったら。
ファニにだって、何が起こるかなど分からないはずだ。次もまた何年も時が過ぎたら。反対に、二十年前のあの瞬間に戻ってしまう可能性だって、皆無とは言えないのではないか。
「ファニ。それはちょっとそれは危険だよ。もしまた時間が……」
「構いません」
小夜の懸念を途中で遮って、ファニは決然とそう答えた。当事者であるファニが、小夜が気付くような可能性に思い至らないわけがなかったのだ。
だが問題は、その瞳だ。投げやりで捨て鉢で、何をしても身動きが取れないなら、負けると分かっている賭けにさえ乗ってもいいと思っている。
だから、小夜もまた決然と言った。
「ダメ。エヴィエニス様に、二度と会えなくなるよ」
「…………ッ」
ぎゅっと、ファニが眉根を寄せて唇を噛み締める。そんなのは嫌だと、刹那に滲んだラピスラズリの瞳が叫ぶ。
エヴィエニスの元に戻るためにそんな危険を冒すなど本末転倒だと、分かっているのだ。それでも、もう彼女に残された選択肢は多くないから。
果たして、ファニは短くない沈黙の末に、頭を落とした。
「……はい」
涙は、零れなかった。
代わりに、静かな室内に子供のような舌打ちが響く。
「ちぇ」
イディオだ。自暴自棄な決断と涙を堪えたファニを、実に詰まらなそうに眺めている。それが酷く幼稚で、苛立たしげで、寂しげに見えて、小夜は勿体ないと思った。
「イディオは、ファニが聖泉の乙女だと嫌なの?」
「嫌に決まってるよ。奇跡は唯一無二だからこそ価値があるんだよ? 自称で増殖されちゃいい迷惑さ」
神殿にとっては、神殿の威光を高め知らしめる奇跡の体現者は、多いに越したことはないのだろう。だが今まで唯一無二であった者にとっては、同じ力を持つ者の台頭は脅威に見えるのかもしれない。
だが、小夜はいつも思うのだ。
「でも、一つで凄いなら、二つになったらもっと凄いと思うんだけどなぁ」
奪い合ったり蹴落とし合ったりしないで、手を取り合えばいいのに。こういった話を聞くと、いつも思う。だがこの場では、それは多数派ではなかったらしい。
「……は?」
「……ふふっ」
イディオが、そんなことは考えたこともなかったとでもいうように瞠目していた。反対にファニは、小夜らしいとでも言いたげに笑っている。
的外れだったらしいと気付いた小夜が、じんわりと頬を赤くする。
そこに、新たな声が割り込んだ。
「イディオ。あまり我が儘ばかり言うな」
「「!」」
護衛たちの誰でもない声に、小夜だけでなくファニも弾かれたように声の主を探す。小夜たちが入ってきた扉の前に、いつの間にか一人の男が立っていた。
「……フィイア先生」
ファニが、冷えた声で呼ぶ。その通り、そこにはかつてタ・エーティカ専学校の錬法場で見た魔法の臨時教諭フィイアが、壁に背を預けて立っていた。
眠そうな緑の瞳に、疲れた顔色、赤みがかった栗色の髪にちらほら見えるのは、若白髪であろうか。初めて見た時から一年半以上が経っているとはいえ、随分と老けたような印象を受ける。三十代半ばというよりは、四十路近くに見えた。
そしてファニの見解によれば、彼こそがあの宮廷魔法士にして永遠の十四歳のイデオフィーアということになる、のだが。
残念ながらというか、小夜の驚きは違った。
(ここここの声は! 世にも珍しい、可愛らしい子役時代を経て今も現役というあの声優さんでは!?)
うっかり聞き逃していた過去の自分を責めてやりたい。
しかしそんな阿呆な理由で悶える時間も長くはなかった。
「兄さん」
イディオが、そう呼び掛けたからである。