恋心こそが罪悪
イディオに目顔で指示され、フィオンが部屋を後にする。
それを全員で見送って、しばしの無言。
沈黙を破ったのは、独白のようなか細い声であった。
「いつか、こうなるんじゃないかって思ってた」
「ファニ……」
その声には先程までの攻撃的な色が薄れ、隠しきれない諦念と後悔が入り交じっていた。名を呼べば、ファニが困ったように顔を上げて、笑う。
「神殿は一向に諦める気配がなかったし、陛下も……決してお許しになることはなかったでしょうし。隙を見せれば誰かが強行手段に出ることは十分に考えられたことです」
「それは……でもファニは悪くないでしょ」
一種の膠着状態らしいことは、前回の召喚で少しだけ察しはついた。だがそこに、ファニが何かしら関与できることがあったとは思えない。
自分を責める必要などないのにと訴える小夜に、けれどファニはゆるゆると首を横に振った。
「私が、いつまでも決断をしなかったからいけないんです。こうなる前に、私は姿を消すべきだった」
淡々と、まるで自分に言い聞かせるように言う。それは、どこか断罪を求めるようにも聞こえて。
「でも、思い切れなかった。……離れたく、なくて」
誰が、と言わずとも、その伏せられた瞳だけで十分だった。
ファニはずっと、その恋心こそが罪悪だと思っているのだと。
そんなことはないと、すぐに言えれば良かった。
けれど小夜は少しだけ、分かると思ってしまった。
だから、その凍えた声を許してしまった。
「……下らない。呪われているわけでもないくせに」
イディオが、心底嫌悪するように吐き捨てる。
その敵意を受けて立つように、ファニが嘲笑を浮かべた。
「いっそ、呪われていれば良かったわ。そうすれば、誰になんて言われても彼の傍にいられたもの」
その瞬間、冷たい炎が立った。
それまで椅子に深く腰掛け、この部屋で最も位が高いことを態度で示すようだったイディオが、目を見開き、体を起こした。
「よくも、そんなことを気安く……」
あの耳に心地良い声を、怒りに低く震わせる。
それが酷く悲しくて、互いに言葉で斬り付け合うようで、小夜は勿体ないと考えるよりも前に、言葉の先を遮っていた。少しの自嘲とともに。
「本当にね」
呪いという強制力は、無責任な見方をすれば魅力的でもある。そこに自由意思に対する罪は存在しないからだ。けれどそれを言えば、恋も呪いのようなものではないかと、小夜は思った。
「恋する女の子は、魔法をかけられたみたいに素敵だよね」
いつかにも思ったことが、ついに口から零れる。
世間は言う。女の子は、恋をするだけで綺麗になる。輝いて見える。豊かになる。まるでシンデレラを美しく変えてしまった魔法のように。
現実に、そんなこともあるだろうとは思う。でも、小夜はあまりそう思ったことはない。
「なのに……恋する自分は、呪いみたいに苦しくて惨めで滑稽だ」
鉄灰色の瞳を思い出しながら、苦い物を噛み潰す。ルキアノスのことだけに限らず、小夜にとって恋は宝石箱のように綺麗なだけの代物ではなかった。
だから、小夜はこの恋も、きっと諦められる。いつか諦めて、過去にして、懐かしんでも涙が流れなくなる日がくると、知っている。
でも。
「でも、不幸じゃない」
不安が尽きなくても、望みが叶わなくても、不幸だと感じたことは、まだない。
「だから、呪いなんて関係ないよ」
笑う。少しだけ情けなくなった気もしたけれど、構わない。
「小夜さん……」
ファニはどうかと聞こうと思ったけれど、止めた。まだ幼さを少しだけ残すその頬が、ほんのり薄桃に染まったから。
だから、背後で呟かれた吐息のような自問の声を、小夜の耳は拾うことが出来た。
「ならば……呪われていて、不幸だったら……」
「そんな与太はどうでもいいよ」
イスヒスの声を踏みにじるように、イディオが声を被せる。その思わぬ強さに、全員がハッと少年を見た。それを挑むように睨み返して、わざとらしいほど尊大に続ける。
「そもそも、君が早く決めてくれれば面倒なんか全て片付くのに」
「面倒?」
「知らない? 今、この町には多くの兵が集まってるんだよ。そこの小娘に浮かれてね」
「浮かれてって……」
それは小夜にとっては初耳ではあったが、考えてみればそれもまた発生しうる可能性のうちであった。
元々、神殿はファニを求め、国王テレイオスはそれを拒否していた。その国王への対抗勢力として、神殿は現在王兄イリニスティスに接触している。加えて、国王には不満を抱く反国王派という勢力が以前から存在していた。
現王権を打倒する。その糸口を得た場所に他の勢力が集まるというのは、そこまで不自然とは言えないのであろう。
「あとは王弟が頷きさえすれば、兵力は数倍に膨れ、動き出す。全ては、君が迷っている間に」
底の見えない緑眼を細めて、イディオが硬い表情のファニを見やる。それは非情ながら事実なだけに、余計にファニの表情を強張らせた。
「……そんなこと、あなたに言われなくても分かってる」
「どうかな。止めるもけしかけるも、君の意思一つなんだよ? 君が神殿に入り、国王が解放されれば……」
「…………!」
それは、ある意味では最も簡単で理想的な解決法とも言えた。
イディオの言う通りに神殿の要求を呑めば、国王にまつわる問題の幾つかは解決されることになる。これを機にイリニスティスを支持する者たちを一掃出来れば、エヴィエニスの王太子としての地位が脅かされることもないだろう。
逆にファニが神殿を最後まで拒絶すれば、国王の退位は決定的なものとなる。イリニスティスは神殿の傀儡となり、権力者のある特定の者たちだけが甘い汁を吸う。勿論、エヴィエニスは廃太子となり、王子たちは一生僻地で幽閉ということになるかもしれない。
それを回避するために、エヴィエニスもルキアノスも奔走している。
そしてこの問題の最も厄介なことは、エヴィエニスがファニを好きで、ファニもまたエヴィエニスが好きだということに他ならない。
もしファニが彼を好きにならなければ、ファニの選択肢はもっと自由に開かれていただろう。復讐に生きるも、信仰に生きるも、何の重荷もないただの少女として生きることさえ、きっと選べた。
ただ、この恋があるばかりに。
だからこそ余計に、小夜は思ってしまった。
「でも、それってなんだか生贄みたい」
ぽつりと呟く。
国家の運営のために、携わる誰もが多かれ少なかれ犠牲になっていることは目を背けることの出来ない事実だが、ファニが頷くだけで全てが片付くという話は、とても虚しいことのような気がした。
「小夜、さん……」
「生贄だよ」
今にも叫び出しそうになっていたファニが、驚いたように言葉を詰まらせる。だがイディオは、そんな感傷などは無意味だと言いたげにそう断じた。
「祖王ヴァシリオスも、ある意味では国への生贄のようなものでしょ」
奪われた祖国を取り戻すため、聖泉エレスフィに願い、乙女の力を借りて戦った英雄。彼の波乱に満ちた人生は、確かに国に捧げられた供物のようでもある。
「でも、ファニは王様じゃないよ」
それは、決して間違えてはいけないことだ。ファニはエヴィエニスのために戦うことはあっても、国のために戦う必要は、もうないのだ。
けれどそんな詭弁は、やはり通じなかった。
「でも、彼女は聖泉の乙女だ」
イディオは、まるで仇敵でも前にしたかのように告げる。それは嫌いという次元を超えて、最早憎むようにすら思えて。
(もしかして、嫌いなのは水じゃなくて……)
イディオの部屋で、憎々しげに叩き割られた水差しと、その中身を思い出す。彼はそれを命の水と呼び、大嫌いだと言った。
でも本当に嫌っているのは、聖泉の乙女――ファニではなく、伝説の中の少女の方なのかもしれないと、ふと思った。
けれどそれを口にするよりも先に、イディオがふっと力を抜いてこんなことを続けた。
「まぁそれも、本物であれば、の話だけれど」
「…………」
その言葉に、ファニが力なく瞳を伏せる。その反応が意外で、小夜はむむっと首を捻った。
思えば初めて喚ばれた時も、セシリィが聖泉の乙女には騙りがつきものだと話していた。それに対して神殿がどういった対応をしてきたかは不明だが、確かに真偽のほどは重要ではある。ここまで大事にして、実は偽物でしたでは、どちらにしても引っ込みがつかないであろう。
しかし歴史も知らない小夜ごときが考えても分かるはずもないので、すごすごと真意を尋ねる。
「えっと、どういうこと?」
「今まで神の子が私に会おうとしなかったのは、私が本物の聖泉の乙女ではないからだそうです」
「えぇー……」
自嘲気味に答えてくれたのはファニであったが、小夜としてはそう言うだけで精一杯であった。
(まさか、そこから始めるのぉ?)
乙女ゲームではそこら辺の疑惑は軽く触れるだけで流れていく程度なのだが、やはりゲームと違って現実は色々と面倒臭いらしい。